スワン社HP Northern songs 2001年8月7日号

 
 
ウィナー・テイクス・オール
《速報「道の駅」2001 第5回》
 
新谷 保人
 

 この期に及んで、大事件発生!
なんと、「灯台スタンプラリー」第2回、今年もやるんですって! そのニュースを聞いたのは先月、7月21日です。もう「灯台」はない…という頭で「道の駅2001」を動いていたものだから、けっこう大混乱ですよ。動揺しました。
 去年「灯台+道の駅」をやって気がついたことなんだけれど、「灯台ラリー」が入ると、コースがかなり固定されるんですね。灯台が、北海道ダイヤモンド型の四隅や突端部にまんべんなく配置されているために、あまり変則的なコースというのが作りにくくなる。例えば、前回やった「室蘭→マオイ」とか「富良野→日高→新冠」なんて組み合わせは難しくなる。「襟裳岬灯台」がコースに入ってしまうと、どうしていも襟裳岬の突端までは行かなくてはならない。「宗谷岬灯台」がコースに入ってしまうと、どうしても宗谷岬を通り過ぎる一日コースになってしまうんです。それは、結局、去年動きまわったコースと同じじゃないか…ってことになるんですね。それは、あまり面白くない。知性ってもんが全然感じられない。

 
 
海上保安庁第一管区「第2回灯台スタンプラリーのページ」より
 

 どうしようかな?
 「北海道の縁(へり)をきれいに一周」ってのは、もうダメ。その手のアイデアは全部去年の第一回でやってしまってます。去年はそれで楽しかったのだけど、今年もそれをやるのは芸がない。
 やっぱり、「島」だろうか… どうせ灯台まで行くのだから、そこからフェリーに乗り入れて、島に渡ってしまう。以前より「道の駅」スタンパーの間で恐る恐る語られてきた噂、「来年のラリーから、ついに《島》が入ってくるらしい…」を先取りした形で、こっちから先に「島」へ伐って出てやる!ってのはどうでしょうかね。さらには、その究極の「島」というのもあるんですけど…

 「樺太」。

 もう、樺太に渡ってしまおうかな。あんまり明確な理由はないのだが、例えば、このまま、道内をジクザグ走りまわっていても、本多勝一や更科源蔵の亜流みたいな扱いを受けるだけだし。私はあの手の「北海道」オタクじゃねえ!と思っている身としては、ここは、きちんと賢治先生以来の故事にならって「樺太行」による態度表明をやってみようか…とか、いろいろ思うところはありますけれどね。
 

 遠くなだれる灰光と
 歪んだ町の広場の砂に
 わたくしはかなしさを
 青い神話にしてまきちらしたけれども
 小鳥らはそれを啄まなかった
 (宮沢賢治「札幌市」)

 こういう謙虚な「札幌市」もあれば、全然そうじゃない、俗物たちの虹色タウン「札幌市」ってのもやっぱりあるんですね。渡辺淳一の『阿寒に果つ』を読んでいて、つくづくと感じました。

 ダメだ、こんなもん。しょうもない凡人。札幌南高校に入れた程度の文才で、ドストエフスキーやエミリ・ブロンテのいる文学の世界の住人になれると思ったら大まちがいだ。たいしたトラウマも葛藤もないような、「所詮、悲別」のスケベおじさんが文学や図書館の世界をウロチョロすんじゃねえ!
 今年の「速報《道の駅》2001」、別名、「昔はバカにしていたけれど、読んでみたら意外とおもしろいじゃないか!」本シリーズです。毎回、できるだけ、スタンプラリーでまわったところの「ご当地本」を取り上げようと意識して書いています。なかなかこういう機会でもないと読まないものですから。で、読めば、たいていの本は面白かった。学ぶところもあった。発見もあった。人々の記憶に長らく残ってきただけのことはあるというのが印象だったのですけれど。でも、渡辺淳一だけは、ちょっと勘弁ね。

 『阿寒に果つ』、このシリーズを始める時点での、最初の下馬評は高かったのです。三浦綾子や原田康子を凌いでいました。近年の『失楽園』なんかはどうしようもない駄作だけど、デビュー作の『阿寒に果つ』だけは別なんだ!これだけは読むに耐えるよ!という意見、とても多かったです。

 雪の阿寒湖近くで自殺を遂げた“天才少女画家”時任純子。
妖精のような17歳のヒロインが、6人の登場人物たち−作者の分身である若い作家・画家・記者・カメラマン・純子の姉蘭子と演じる、六面体の水晶の冷たい燦きと輪舞の華麗さをもった愛と死のドラマ…。
(「阿寒に果つ」帯文)

 「時任純子」という衝撃的なキャラクターを立てたことが上手く行った…

 そうですかぁ? でも、この「衝撃的」って、本を読まない人たちの、テレビドラマばっかり見てる人たちの「衝撃的」っていう感じがする。初めてカメラの前で脱いだ!といった類のことが話題であるような俗物たちの「衝撃」だと思います。

 大衆は、渡辺淳一が、「時任純子」という衝撃的なキャラクターに惹かれる私たちと同じ俗物だから、安心してこのテレビドラマのような小説を読んでいられるのではないですか。そして、この札幌南高卒〜作家志望の男の立場というのが、つまり、偶然、「文壇」上での渡辺淳一の位置づけと上手くシンクロしてしまったが故に、一方で過剰な「時任純子」神話みたいなものを形作ってしまい、また一方で、「時任純子」伝説を追いかける作家=「渡辺淳一」みたい誤解になったのではないでしょうかね。
 私には、『阿寒に果つ』は、結局、天才少女「時任純子」伝説を追いかける男…というアイデアひとつが一発大当たりした歌謡曲に見えますけど。『阿寒に果つ』は『霧の摩周湖』。『リラ冷えの街』は『アカシアの雨がやむ時』かな。ヒット歌謡曲をバカにする気もなく、それ以上でもそれ以下でもなく、私はそう感じました。そして、こういう画像処理を施した「雪の阿寒湖」や「サロベツ原野」の方が、東京の大衆には安心してイメージを消費しやすいのでしょう。

 「雪印」というラベルが付くと、なぜか牛乳がおいしく感じられる…っていう理屈と同じですよ。天才少女の死だから「阿寒湖」ってわけです。「クッタラ湖」や「オコタンペ湖」じゃダメなのよ。まあ、それにしても、凡庸な作家だなぁ。東京や関西生まれの人間がこれをやるんなら私も笑って見ているけれど、北海道の人間がヌケヌケとこんな技を使うとなると、ちょっと考えこんじゃいますね。いったい、どこの山出しなんだ?
 

 私、「時任純子」さんが、学制統合で「作家志望男」のいる札幌南高校に編入して来る前に、在席していた高校の卒業生です。「時任純子」さんが在学していた時代から15年後の卒業生。『阿寒に果つ』に、ちょっと「へえーっ」と思った場面があったので引用しますね。

 図書部員といっても、仕事は新本購入の打ち合わせ、貸出名簿作成、年に数回の蔵書整理くらいのもので、それも司書の人が中心になってやってくれるので、さして忙しいものではなかった。おまけに本は図書部員にかぎって持出しが自由であったから、本の好きな者には好都合な部であった。
  
(中略)
 本好きで、少しばかり文学を理解しているつもりの図書部員達の間で、純子は教室とは別人のように陽気に振舞った。年上のオバも仲間に入り、冗談をいいあい、声をたてて笑う。私がパリ祭とか、バレンタインデイというものがあるのを知ったのは、この時の話からである。
渡辺淳一「阿寒に果つ」)

 あー、疲れる… この「楽しい語らい」の時代から15年後、この札幌の高校にご入学したのが私ですけど、なんと、この「図書部」、まだあったんだぜ!(オバみたいな司書もいた…) 時代は70年安保だってのに、なにマヌケなことやってたもんだろうか。
 学生のための情報センターなどというものでは決してない。ただの「クラブ活動」の場なんです、図書館が! ブラスバンドや新聞部と同じ、放課後の部活動なのよ。
 クラスに「図書部」の友だちがいれば、きっと「図書館」にも出入りしていたことでしょう。「本を借りる」ということも覚えたにちがいない。でも、たまたま(私みたいに)クラスに「図書部員」がいなかった人には、学校の「図書館」は全然足を踏み入れられない場所になってしまいますね。そして、市立図書館の方には受験勉強のために行くとか。もう、「図書館」や「本」というものにめちゃくちゃ誤ったイメージを持ったまま世に出なきゃならないことになってしまいます。

 どれくらいひどいものか…、業界だから例証したい材料はいろいろあるのだけれど、ここではひとつだけ。
 数年前、「学校図書館法」が何十年ぶりかで国会で論議されるということがありました。これは、私たち、学校図書館の関係者にとっては、今まで「学校司書」が培い育ててきた学校図書館の実績がみんなご破算になってしまうかもしれない、今までの歴史をリセットして、またぞろ「司書教諭」の名前で「学校司書」が歩んだ道を一からやり直しかねない…という大問題だったのです。この真っ最中に、発言したのが、当時、文部大臣(だったか、官房長官だったか)をやっていた町村信孝。曰く、「学校図書館は教師の兼務で充分(運営)できる」と。結局、この自信たっぷりの一言を境にして、2003年の「司書教諭」実施の方向で論議は傾いて行って今に至るわけですが。

 こんな「町村信孝」が札幌南高の卒業生なんですね。札幌南〜東大〜官僚という、ありがちな南高の凡人コース。文部省がたいそう好きみたいで、文部大臣になる度に「はき違えた個性の尊重、はき違えた自由が不登校を生んでいる…」なんて言っては、不登校児を持つ親から顰蹙をかったりしています。結局、無知!という一言なんだけど(ちゃんとした「学校図書館」も、まっとうな?「不登校児」も見たことないんだろうな…)、それにしては、その、ものを知らなさ加減が堂に入りすぎている。鈴木宗男みたいな、ちょっとは自分の無知や不細工を恥じらうような田舎者特有の可愛さ(笑)が全然ない。なんでかな?と昔から思っているわけですけれど、今回、『阿寒に果つ』のこの場面を読んでいて、ちょっと「もしかしたら、これかな…」と感じました。

 山から札幌の街に出てきた「悲別」たち(←明治書院『日本現代文学大事典』には、渡辺淳一は上砂川町生まれって出ている…文庫本の著者履歴「札幌市生まれ」とちがうぞ…)がよく陥る錯覚。渡辺淳一も町村信孝も、つまりは、札幌の街を「都会」だと思っているんじゃないですかね。東京都24番目の「札幌区」だと本気で信じてるんじゃねえの。

 放課後の部室で密かに会い接吻した…、そうですか、よかったですね。こういう、田舎名門にありがちな、自分たちの特権に無自覚なクソガキの思い出話。年甲斐もなく、私もムカつきますね。お若い時からこうやってサロン文化の部室で鍛えているんだもんな。文壇バーや永田町の議員会館まで一直線だぜ。だからこそ、「本好きで、少しばかり文学を理解しているつもり」っていう台詞には大笑いでした。ほんとに愉快な作家。
 

 文体はイモ。論じるのもあほらしいので、つい、こういう些細な問題に首を突っ込んでしまいます。(笑) でも、ほんとに、こんな時間つぶしでもしていないと退屈で最後まで読んでいられないよ。

 で、「阿寒」については、それほど思い入れが強くないから私はあれこれ言いたくはないのだけれど、『リラ冷えの街』で使われた「サロベツ原野」については、やっぱり一言言いたい。これじゃ、「札幌」の連中があれこれ繰り広げる「愛と死のドラマ」のための都合のいい画割りじゃんか。銭湯のペンキ絵の富士山と変わらねえ。
 というか、どうして渡辺淳一の描く「阿寒」や「サロベツ」、「札幌」や「東京」はパッとしないんでしょうか? ちっとも地名が持ってる霊力が爆発してこない。例えば、伊藤整の青春の「小樽」だって、原田康子の「釧路」だって、ちゃーんと、幻想上の世界都市「小樽」「釧路」に生きる孤独や喜びや誇りというものがありありと感じられたのに、なんで渡辺淳一の「札幌」にはそれがないんでしょうかね。まあ、こういう土地の霊力に鈍感な人が「文学」の周辺でウロチョロしているってのも珍しいことですけれど。

 やっぱり、住所が「文壇」ってことなんでしょうか。前で「東京都の24区め」と書いたけれど、そんな、東京からゲストを招いたり、東京のサロンに顔を出したりすることが嬉しい田子作なんだろうな… 札幌の在の地方文化人たち、『阿寒に果つ』では、「天才少女画家(南高生)」「作家」「画家」「新聞記者」「医者」「カメラマン」が出揃っているけれど、これに、地方テレビ局のプロデューサーや大学教授でも加えれば、ほんとススキノ辺りに群がってる地方文化人の一式だろうから。というか、札幌南高の同窓会というか。結局、「札幌」の街が、自分の幻想が生きられる最後の場所なんだ!という思い詰めたような感情がないから、どうしても詰めが甘くなるんじゃないでしょうかね。ただの、東京方面に売るための、きれいな風景画像の出来不出来としてしか認識できないのでしょう。
 

 「札幌」の、「東京」に対する、こういう変なポジションのとり方は、昔から気になっているところです。

 例えば、(古い話だけど…)60年安保の闘争方針をめぐって、東大を中心とする関東の学生活動家と京大を頂点とする関西派とが対立する。全学連の執行部委員長がどちらからも立てられない。どちらかが候補を出せば、どちらかがリコール発議を提出するような膠着状態が続く。そういう時の解決策って、一時的に「東大」「京大」の双方が降りて、きわめて異例のことだが、ここは「北大」から全学連委員長候補を立てよう!ってことなんですね。それで60年安保の大一番を闘いますよ…っていう。
 何故か、そういう時、「北大」なんですね。鹿児島大学でも新潟大学でもない、一橋でも早稲田でもない、何故かそういう時は「北海道」や「札幌」を便利に使いますね、東京の人は。

 あるいは、(今度は最近の話だけど…)「北朝鮮に拉致された日本人を救出する北海道の会」。私は、札幌でも東京でも、今まで署名などの場面で何度も自分の名前や住所を明らかにしていますけれど、それでも、「北海道の会」から集会の連絡をもらったことなど一度もありません。今でも、インターネットの「拉致問題掲示板(東京)」でようやく北海道で行われる活動・集会の情報を知るわけです。そして、これだけインターネットの普及で運動や事実解明が進展しているというのに、「北海道の会」はホームページひとつまだ作っていないのよ。
 今でも、全国(東京)や「福岡の会」から情報を仕入れる事態は全然変わっていないんですね。なんとかならんのか…とか思っていると、ある日突然、北海道新聞で「札幌の街頭で横田夫妻も迎えて署名活動を行った」なんて記事が出てくる。コメ支援反対のための国会議事堂前での座り込みのNHKニュース見ていたら、ちゃんと座り込みの列の中に「北海道の会」の人もいるじゃないか!となる。
 北海道での組織拡大や運動の活発化なんて、初めから頭にないんじゃないだろうか。あるのは、今東京にいる横田滋さんのために何か力になりたい!という、札幌南高校同窓生たち(←横田滋氏も南高の卒業生なんです)の篤い想いだけみたいな気がします。目はまだまだ東京の方ばっかりチラチラ見ている、いつもながらの「札幌人」たちだなぁ…と思います。たぶん、隣町の小樽でこんなホームページが出ていることも知らないだろう。

 別に拉致問題の関係者だけがそうなのではなくて、政治から大衆文化まで、いつでも「札幌」のムーブメントってこんなもんだという印象がある。天才少女「時任純子」さんも、何故に彼女が天才なのかと言われれば、それは、「東京」の二科展やアンデパンダンに最年少で入賞したから天才なんであって、17歳にして『馬』をすでに描きはじめていた神田日勝だから天才なわけじゃない。
 私に言わせれば、こんな小娘、全然、「天才的」でも「衝撃的」でもないですけどね。渡辺淳一って高校生は、何、勘ちがいしてるのだろうか…というのが正直な感想です。どこの街にだって、どこの学校にだって、「我が校始まって以来」だの「校史に名をとどめる」だの、この類の「天才少女」伝説や「超能力少年」伝説はあるんじゃないの。札幌南高にしかない…と思っているのは、それは、たぶん、陽気な無知でしょう。問題は、そういう隙だらけの子どもが、意外とお手軽に「東京」へ出ばって行けるポジション「札幌」に住んでいる…っていう、そのことでしょうね。

 たぶん、「札幌」イメージのくいちがい方も、発端は、こんなところにあるのだと考えます。

 札幌、行かなくなりましたねぇ… 実家と「雪まつり」以外、こんなに近くにいるのに出かけなくなったのは、やっぱり、昔、自分も「リラ冷えの街」の高校生だった過去が幾分恥ずかしいからでしょうかね。
 
 

 
2001年8月7日号 あとがき/コンサドーレ浦和!

■今回は、なんか、寂しい「札幌論・1」になってしまって、ごめん。でも、こんなショボい「札幌」だけが、2001年夏の「札幌」ではありませんから。

■今、『コンサドーレ札幌 「赤と黒」の奇跡』(北海道新聞社,2001.8)という本を読み終えたばかりなのですけれど、いやー、この本に出てくる、北海道のサポーターたちと本州各地に在住しているサポーターたちの交錯の様子、ちょっと画期的なのではないだろうか。「ホーム」と「アウェイ」という、かなり特徴的な試合様式を持つサッカーというスポーツなんですが、この様式を最大限利用した、ちょっと今までの北海道の歴史の中には存在しなかった「日本−北海道」概念が誕生しつつあるのではないか。なにか、とても大事なことが、今、目の前で起こっている…ような気がしています。

■ホームページも相変わらず元気。『百鬼夜行』にも毎日行っています。今日行ったら、とっても嬉しいことが! 『百鬼夜行』レベルのコラムの書き手がどどーんと集まったホームページ『コンサイズム』ができたんだもんね。ほとんど《千鬼夜行》とでもいった状態です♪

■それにひきかえ、トホホ…、「浦和レッズにエメルソン!」ってニュースには、もうひたすら脱力でした。選手もサポーターも、この人たち、なにが楽しくてサッカーなんて人生を選んだんでしょうか。エメルソンのゴールでも、レッズのサポーターは嬉しいのかよ… このニュースの直後は「おしっ!札幌ドームのレッズ戦行ったる!」とか一瞬は燃えたんですけどね、だんだん日が経つにつれてやる気なくなってきた。ブーイングの元気もない。早くJ2に消えてほしい。

■「さいたま市」になってから、なんか埼玉県民、一段とスランプなんじゃないの? 「井原」取った時も「センス悪ーい!」と思ったけれど、今回の「エメルソン」に至っては「恥ずかしー」という感じ以外ない。天下の三菱がエメルソンかよ… 金持ちなんだから、ロベカルでもリバウドでもベッカムでも取ってくればいいだろうに。(そうすりゃ、日本中のサッカー・ファン、大拍手ですよ。「さいたま」イメージ、一発で大逆転ですよ!) 金の使い方を知らない金持ちってのは困ったもんだ。本を読んだこともない成金オヤジが応接間に文学全集並べているのと同じですね。

■打つ手、打つ手が、こうジリ貧になってしまったら、もう、岡ちゃんの登場をお願いするしかないでしょう…もう、埼玉県民では、このもつれた「さいたま」イメージの回復は無理です。同じく、チェーホフ読んでいないJリーグ監督たちも筆記試験段階で落選ね。(笑) 去年のコンサの戦い方を、トルストイ『戦争と平和』を引用して説明する岡ちゃん、いたくカッコよかった!わけですが、今、求められているのは、そういうセンスだと思いますよ。「札幌市長」に取られてしまう前に、ぜひご一考を。(「岡ちゃん」高いからって、「大仁田」で済ませたらダメよ…それはダサイ…)

■ちょうど私たちも「雪のない東京近郊にコンサの練習場ほしいなぁ…」と思っていたところでした。来年、岡ちゃんが監督に就任したら、とりあえず、エメルソン以外の選手は全部「戦力外」通知。埼玉県立高校の「一芸教師」にでもなってもらって、かわりにコータくんやユースの美形の子を集めよう!ディドの選手復帰!(ディドの息子でもOKです!)高木さんも生活指導コーチでお迎えしましょう!コンサドールズも埼玉オーディションを断行しよう!おおっ「コンサドーレ浦和」の誕生だ!…ってことにでもなったら楽しいだろうなぁ。そうなったら、来年は、毎試合、さいたま市に駆けつけます。(ただし、「コンサドーレさいたま」の名称だけは、ご勘弁ね。バルデス・エメルソン・ウィルの3トップ!キングギドラ「コンサドーレ大宮」までは赦すが、「コンサさいたま」くんじゃカッコ悪くて俺は絶対行かん!)<新谷>