スワン社HP Northern songs 2001年7月15日号

 
 
街路樹
《速報「道の駅」2001 第4回》
 
新谷 保人
 

 意外と自分の言ったことに縛られる性格なのか、今回は、前回申しました「小樽からの同心円」、富良野から日高の海岸線に降りてゆくコースです。日高・静内からの帰りは、苫小牧を通って室蘭方面に逃げ、「白老−大滝」という初めてのルート(これだけ走りまわっても、まだ通ったことのない道がある…)をやって小樽に帰ってきます。で、3時のテレビ、キリンカップ「対パラグアイ」戦には間に合うように。噂の「広山」、やはり見てみたいから。
 今回の別名、「札幌はずし」。今日は札幌ドームのサッカー柿落しですし、札幌国際ハーフ・マラソンも沿道でやっている日なので、札幌近辺はもうアウトです。車では近寄れません。だからこそですが、こういう時こそ、札幌の在じゃない、小樽に住んでることの利便さを見せつけてあげよう。

 
 
北海道地区「道の駅」連絡会
 

7月1日(日)
(小樽)→56.うたしないチロルの湯→(悲別ロマン座)→2.スタープラザ芦別→3.南ふらの→67.自然体験しむかっぷ→38.樹海ロード日高→43.サラブレッドロード新冠→18.みついし→(白老)→(小樽)

 

 昨日、悲別でキツネが轢かれた…

 という印象的な「つかみ」で始まる『昨日、悲別で』。倉本聡に「かなしべつ」と名付けられた、今朝の歌志内〜砂川地方は雨でした。人気のない早朝の炭坑町の中を、これまた音もなくサーッと降っている氷雨です。悲別ロマン座は、そんな通りの脇に建っていました。

 いや、いつも感心するけれど、倉本聡のキャスティングって、見事のひと言ですね。北海道ナビの地元ブレーンがよっぽど優秀なのか、パトロンの資金力が豊富なのか(電通のリサーチでも無制限に使わせてもらっているの?と感じるくらい)、よく仕組みはわからないのだけど、とにかく倉本聡が出してくる北海道の「地名」の選択にハズレはないです。そして、(ちょっと悔しいけれど…)北海道と対になった東京の「地名」にもハズレはないんですね、これが。
 東京で暮らしていた時は、ここのところが変にカンにさわって、倉本聡のドラマ、嫌いでした。みんな『北の国から』を観ている。富良野に行ってみたいわあ…とか言う。苦痛でしたね(笑) その「北の国」の出身者ですけれど、所詮は、札幌の一地域・一時代しか知らない人です。都会では北海道出身者として一括りにされるけれど、私は、富良野だの足寄だの行ったことねえよ。知らねえよ、そんなもん。
 でも、同等に扱われる。「松山千春の曲っていいですねぇ」とか言われる。「どこがぁ?」と思うけれど、なんか上手くパッと否定することができない。ワン・テンポ遅れる。モタつく。その理由はわかっているんです。つまりね、こういう言葉の裏側には、(だって、あなたも北海道の人なんでしょう…)という無言の拍が1拍入っているんですね。だから反応が遅れる。松山千春のダサい田舎センチメンタルの責任が俺にあるかのような錯覚に陥ります。
 ほんとに、東京に住んでいた時は、(『北の国から』観たこともないくせに)周りの反応から、倉本聡も、椎名誠みたいな、ムツゴローさんみたいな、「北海道」大好きのありがちな東京文化人のひとりだと思っていました。まあ、誤解だったわけですけど。

 
 
 

 そう、倉本聡はちがってた。(10年前こっちに帰ってきて、ようやく気がついた…) 倉本聡はもっと底意地が悪い。そして、倉本聡が発しているメッセージは何十年も前から全然変わっていないこともよくわかった。つまり、それが《悲別》。東京にいる《悲別》の人間。
 倉本聡の言いたいことは、ただひとつ。「東京」で暮らしていても、「札幌」で暮らしていても、「悲別」で暮らしていても、あんたは《悲別》の人なんだよ…ということに尽きるような気がします。このことを、何というのかなぁ、100%の善意で、100%の本気でストレートに言論するところが、並の文化人たちとちがう倉本聡の凄みなんです。
 半端な都会人ほど、《悲別》の人間であることを否定的なイメージでとらえている。「東京の人みたいなふりをしているけれど、所詮、《悲別》じゃねえか!」みたいな… この裏返しは、「悲別」における、「東京の人間はしょうがねえな」みたいな感情ですけれど。日本中、だいたいは、こういう荒んだどっちつかずの感情に満ち溢れていると思う。
 倉本聡は、明るく、これを反転できるんです。「東京」で暮らしていても、「悲別」で暮らしていても、あんたは《悲別》の人なんだよ…という、そっくり同じこの言葉を語ってはいるのだけど、その言葉のベクトルをくるっと180度変えてしまえるんですね。「東京」で暮らしていても、「悲別」で暮らしていても、あんたは《悲別》の人なんだよ…そして、私は《東京》の人だけれど、これから「悲別」に住むんだ…というのが、倉本聡の独特のスタンスでしょうか。
 あんたは《悲別》の人なんだよ…って。この、半端な都会人や半端な田舎者を嗤う技がとても凄い。今までの、北海道にリゾートにやってきたような作家たちとは性根が歴然とちがっています。

 10年前、北海道に帰ってきてからの方が、私も「道民」であることを意識しています。というより、じつは、この(東京で覚えた)倉本聡の手法を時々便利に使わせてもらっている節がある。テレビに映っているようなタレントや歌手を「東京の人」だと錯覚している、千葉や埼玉の中高生ファッションを「学ぶべき」都会のファッションだと勘違いしている田舎者たちを嗤う時に、よく、この技を使ってます。
 先ほど「倉本聡は底意地が悪い」と書いたけれど、その意味は、この技の実力行使の場面では、けっこう倉本聡は猛毒を用いるということなんですね。エンディングに「中島みゆき」とか…(それも『時代』なんて唄をバッチリ使う!) 「尾崎豊」とか…(もちろん、曲は『I love you』) この、遠慮会釈のなさが、ちょっと凄いですね。プロは、やる時はやりますよ…ってことなのだろうか。さすがに、アマチュアの私には、なかなか、こんな豪快な技は使えません。

 

 倉本聡のドラマを観ると、頭の中が単純になります。慌ただしい日々の中で混乱した考えを整理することができる。なにか、日々の疲れの中から生じてくる下司(げす)な情感をきれいに消してくれるような効能がありますね。

 そうした癒しの力を、最近、私は、尾崎豊の歌にも感じる時があります。特に、『街路樹』というレコードには。

 『街路樹』を知ったのは最近です。
 じつは今、この「道の駅2001」の連載とは別に「尾崎豊」のことを書いているのです。しかし、その内容は、尾崎が10代だった頃の3枚のレコード『十七歳の地図』〜『回帰線』〜『壊れた扉から』が中心になります。どうしても、人々が「尾崎の曲」として頭に思い浮かべるほとんど全ての名曲はこの3枚の中に入っているわけですから。
 でも、この他にも、尾崎が生きていた時に発売された正規盤は、もう3枚あるのです。それが『街路樹』〜『誕生』〜『放熱への証』の3枚。こちらは、あまり話題にのぼりませんね。歳も20代に入ってしまい、あの若々しかった声も野太くなってしまいます。追い打ちをかけるように、この時期、ニューヨークへの逃亡とか、覚醒剤での逮捕とか、斉藤夕貴との駆け落ち(2人で隠れていたのは「小樽」だった!という噂がある)とか、暗い話題が続きます。10代でデビューした時に、すでにそのあまりにもロッカーとして完成された姿故、一生分の幸運をみんなここで使い果たしてしまったかのような、20代の転落の人生であり、短命ではありました。

 足音に降りそそぐ心もよう
 つかまえて 街路樹たちの歌を
 最後まで愛ささやいている
 壁の上 二人影ならべて

 いいですね、昏(クラ)くて… つね日頃から、尾崎豊って「立原道造」に似ているなあと思っている私ですが、この歌なんか、もろに、晩年の、あまり意味のよくわからない日本縦断をくり返していた立原道造の姿を彷彿とさせます。
 この前の「道の駅」の時、一応「尾崎豊論」書くのならば晩年の作品も聴いておかなくてはという軽い気持ちでCDをかけたのですが、1枚目の、この『街路樹』で、スドーンと感動してしまいましたよ。一日中くり返して聴いていて、心が弛むことがなかったです。そして、何故か癒されました…

 私のかへつて来るのは いつもここだ

という、立原道造の懐かしいうたを思い出したりしていました。
 

 その、尾崎がついに壊れてしまった…

 思えば、『街路樹』の中にも、ちょっと「おやっ?」とか「あれっ」と感じさせる兆候があることはありました。突然、わけのわからないソウル・ミュージックを始めたりして。

 上砂川(悲別)を過ぎてから、ずーっとCD『街路樹』をかけながら雨の芦別〜富良野を走ってきたのですけれど、さすがに聴き疲れた。FMラジオの入りも盆地のせいなのか、ノイズだらけで良くない。それで、2枚組のCD『誕生』に移ったのでした。

 1枚目。いつもの「尾崎」みたいで「尾崎」ではないような変な歌が続く。そして突然、

 Woo 権力を潰すことだけを 教えられてきた 俺はテロリスト

とか

 Hey おいらの愛しい人よ
 おいらのためにクッキーを焼いてくれ

…なんて歌が始まってしまったのです。何だ、これぇ?「おいら」だの「クッキー」だの、ロッカーが、何、ダサイこと言ってんだぁ? そして、また、半端に重苦しいバラードに戻る。

 なんとか体裁を繕いつつ持ちこたえていたものの、それも、1枚目が精一杯ではあった。もはや、限界だった。2枚目に入ると、一発目から、すでに壊れている!

 体制に逆らいながら振りかざす 俺が手に持っているのはサーベル

 もう、ダメです… (タイガー・ジェット・シンか、お前は) なんで、こんなことになってしまったのだろうか?
 

 切なかったですね。いったい誰が尾崎豊をこんなにしちまったんだ! おかげで、運転が、ひどく危なっかしいものになってしまいました。
 「樹海ロード日高」からは、いつもは、一度、海沿いの鵡川(むかわ)町の方に降りていってから、今度は海岸沿いを襟裳(えりも)方面へひた走るのですが、もう何回も同じ道で飽きてしまった。そこで、多少時間のロスはあるけれど、今回初めて山側の農道をジグザグつないで静内(しずない)町に出ることにしました。

 まあ、人気のない農道で正解だったんじゃないだろうか。体制に逆らいながら振りかざす 俺が手に持っているのはサーベルなーんて、不安定なヴォーカルを聴いていると、ハンドル持つ手が震えます。知らず、拳を握りしめちゃったりして(笑)
 この辺は、サラブレッド馬の牧場が団地みたいな感じで、海岸沿いにずーっと新冠(にいかっぷ)町まで並んでいる地域です。馬が健やかに育つように…という願いが込められているのかどうかは知らないが、この辺走っている「室蘭ナンバー」って、ものすごくトロいのよ!後ろに何十台車が連なっていようと平気で一本道を時速60qでたらたら走り続けますからね、「室蘭ナンバー」って。北海道の交通事故死の何%かは、確実に、ここの事故死です。耐えきれなくなった札幌のドライバーが無理な追い越しをかける。対向車にぶつかる。全員即死…という単純パターンが毎年毎年続いています。いっこうに改まる気配がない。
 だから、今回だけは、この行列の中に入らなくて、正解。「あの世へドライブ?」(←私の知ってる交通標語の中ではこれがインパクト抜群のベストです。赤井川村にかかっていたポスター。)の順番が、ついに私の番になっていたかもしれません。今回は、少しばかり波乱のドライブでした。

 
 

 
2001年7月15日号 あとがき

■昨日、厚別でコンサドーレが負けた…

■ちっくしょう!ジェフなんかに負けるんじゃねえ!とは思いつつ、なにか、少し嬉しくなってきたことも事実なのだった。「カキコの虫」が体の中でまたウズウズしてきた…というか。お久しぶり…というか。負けた夜、昔のサイトを訪ねて探してインターネット上をウロウロしていたのは私です。

■「9位」なんて、もう、なんて居心地がいいんだろう…やっと元の場所に戻ってきたというか。やっと岡ちゃんの顔がもう一度見えるようになってきた。1点入れることの難しさを噛みしめ、でも、やっと入れた1点の嬉しさを岡ちゃんと抱き合って喜んでいたのは去年の今頃だった。世の中がオリンピック最終選考合宿のシュンスケやバーモント平瀬の動きに目が行っている頃、J2は、毎週毎週、日曜日の試合をやっていたんだった。練習して、試合して。練習して、試合して。そうして過ぎる日々というのがとても心地よい毎日ではありました。

■「J2ダイジェスト」なんかに毎日行ってカキコしていたのも、その頃。いちばん書いていたんじゃないだろうか。「toto」がなかったから、試合の勝ち負けは、直接にそれぞれの人生観(笑)の勝負の勝ち負けだった。その頃、日々根回しにあくせくしていた「インターネット版」。アマいと言われれば、そりゃアマい考え方ではあったんだろうけれど、ビジュの30本に1本のまぐれ力任せシュートが浦和ゴールに決まったりすると、なんか甘い夢でも叶う時は叶うもんなんだなぁ…勝つ時は勝つもんなんだなぁ…とか思ったりしてさ。そんなことが、今日の一日を生きてゆくことの小さな支えだったりして。

■そんなんだから「9位」。優勝を狙ったり、日本代表入りを狙ったりするチームになるには、タコ原みたいな奴や、トルシエ(フランス人なのに意外と「マッチョ野郎」!)みたいな存在を受け入れなくてはならない。頭、悪そう。昔の陸軍兵舎には、こんな兵隊いっぱいいたんだろうなぁ…と思わせるような。でもなぁ、ああいうの、私の美学には合わんのよ。少女マンガ(川原泉などを思い浮かべてほしい)と言われてもいい、私は、札幌の最後の一年間で見せた「高木」の笑顔のような美形のチームじゃないと厭なのよ。

■サッカーは美学だ!美学は辛抱だ!日々だ!ランボーだ! 美しくないものやかぶいた身体はさいたまや横浜スタジアムの方に行きなさい。ちなみに、ワールド・カップの切符、まだ通知が来ません。もうダメかしら…(やっぱ、こういう悪口書いてるから?)<新谷>