スワン社HP Northern songs 2001年1月15日号

 
 
魔法の学校
 
新谷保人

 最近、久しぶりに、ある図書館の蔵書約5千冊のデータ遡及作成を手がけています。(→「SWAN」参照) 自分のところでは毎日やっていることですけれど、他の図書館の蔵書を扱うのは本当に久しぶり。といっても、一年間程度のブランクですが。
 だから、一年くらいで、そんなに世の中変わっていないだろうとタカをくくっていたのが大間違いの始まり。ほとんど、自分が「前世紀の遺物」になっていることに驚く毎日です。
 遡及データの作成自体は、そんなに疲れるということもありません。プロですからね。ただ、なんというのかな、データ作成の過程を相手の図書館の人たちに説明する…ということが、なかなか大変な作業になってきているのです。つまり、MS−DOSとは何か?ということを説明するのが。

 西暦2000年、静かに、静かに世の中が変化していました。Windowsの世の中に。どこかの田舎オヤジが「IT音頭」なんかとらなくたって、着実にインターネット〜ケータイ(iモード)のラインが日本中を侵食していました。今、気がついたら、MS−DOSの機器・ソフトというのは、急速にその数を減らして行ってる絶滅種なんですね。
 普通の事務職場でも、もう、MS−DOSのパソコン(もっと具体的に言えばNECのPC98シリーズです)ラインは誰も使いません。DOSのハードもソフトもどんどん廃棄されて行く中で、人の心もずいぶん変わった。ユーザー間の世代交代が激しく行われた結果、社会の大半はWindows98以降の世代のノウハウによって占められています。
 私みたいな、DOSの時代に「一太郎」で文章書いていたような人は、今、どうしているんでしょうね。目に「老眼(遠視)」が入ってきたのを潮時に、文章書くの、やめちゃったんだろうか?インターネットの片隅で、昔の「一太郎」文書をかき集めては、売れないホームページ作って、まだ「古典芸能」やっているんでしょうか?
 「その、f1−DATABOXというソフトはどこで売っているんですか?」という質問に、苦労してインターネットで「リードレックス社」を探しあてたら、もうデータベース・ソフトなんてお呼びでもない、ビル総合管理だか会社運営システムだかの会社になっていました。例の、ハングアップした「DATABOX」のデータ・ファイルを壊さず修復して、カンマ区切り出力で「f1」の方に救い取ったりすると、職場から拍手が沸き起こります。検索システムに、私が、例の片手で「カナ入力」するのを見ていた学生はのけぞっています。

 もう、ほとんど「魔法使い」…
 

 『ハリー・ポッターと賢者の石』、もう、大変、大変おもしろく読みました。子どもが夢中になるの、わかります。私のようなおじさんも、また、ちがった意味で興奮して読みました。
 やっぱり、イギリス人って、凄いなぁ! 自分が探しあてた世界については、もう全然迷いがないのね。トールキンもタウンゼンドもそうだったけれど、自分の見つけた(創りあげた)世界の中に入って行って、躊躇うことなく遊ぶ。一生かけて遊ぶ。物語の地の果てまで行ってしまう。ケンブリッジの学友たちが、たとえ、大臣になろうと金持ちになろうと、もうそんなことはどうでもよくなるのね。
 なんというか、人間の独創性(オリジナル)ということについての、社会全体の許容度がちがうのを感じます。たぶん、ブレアよりはタウンゼンド氏の方が、サッチャーよりはアガサ・クリスティ女史の方が、イギリス人の心の奥底では尊敬を勝ち得ているのではないか。

 「現実界」と「ファンタジー界」。ふたつの世界の間の入射角(出射角)を考える時、大まかに分けて2通りのパターンが思い浮かびます。

 ひとつは、『指輪物語』や『ゲド戦記』のタイプ。物語が、物語の最初から最後まで「ファンタジー界」の中で終始するタイプです。『指輪物語』から引用すれば、もう、目次からして、

 序章
 一 ホビットについて
 二 パイプ草について
 三 ホビット庄の社会秩序
 四 指輪の発見について

ですもんね。で、物語の始まりは、

 袋小路屋敷のビルボ・バギンズ氏が、百十一際の誕生日を祝って、近く特別盛大な祝宴を催すと発表したもので、ホビット村は大騒ぎ、噂はそれでもちきりでした。

(おお…ビルボ!なつかしいなぁ…) 同じく、『ゲド戦記』から引用すれば、

 たえまない嵐に見舞われる東北の海に、ひとつだけ頭をつき出す海抜千六百メートルほどの山がある。全島山のこの島の名はゴント。そして、このゴント島こそは数多くの魔法使いを生んだ地として古来名高い島である。

と、こっちも、物語の冒頭から、すでに一気にファンタジー界に持って行かれます。まさしく「往きて還りし物語」ですね。

 これと正反対なのが、『はてしない物語』に代表される、「現実界→ファンタジー界→現実界」タイプの、「現実界」と「ファンタジー界」を往復する物語構造です。「ネヴァー・エンディング・ストーリー」タイプですね。

バスチアンは本をじっと見た。
「本って、閉じているとき、中で何が起こっているのだろうな?」
  
(中略)
バスチアンはきちんとすわりなおすと、本を手にとり、第一ページを開いて
 
はてしない物語
を読み始めた。

そして、気がついたら、バスチアンは、危機に陥った「ファンタージエン国」の真っただ中にいたとわけです。やはり、こういうところがエンデというか、ドイツ人というか…、なんか「現実への通路」を作りたがりますね。今、生きている我々との「辻褄合わせ」をどこかで求めている。ファンタジーにまで、やっぱり気がついたら論理的な整合性を求めてしまう自分がいたというか…

 勤勉すぎるんです。そして、その分、私は、エンデのお話って、なにかしら「ファンタジー界」のスケールの小ささを感じてしまう時がありますね。イギリス人なら、こんな時、もっと羽目を外してファンタジー世界の果てまで爆発しちゃうんだけどなぁ… これだから、「現在」の私たちが抱えている青少年や教育の問題にまでうかうかと引用されてしまったりするような、要は、隙だらけじゃないか!あんたは…といった不満が残る。
 じつは、(恥ずかしい話なのですが)私、今まで、『ゲド戦記』の第4巻、最後の書『帰還』を読んでいませんでした。とても反省しています。で、この2001年の正月に、思うところがあって、第1巻の『影とのたたかい』から読み返しはじめて、1月14日の夜に、ついに、この1993年に発行された『帰還』を読了しました。
 驚いたのなんのって… 当時、河合隼雄の本の影響化に、頭でっかちの「知識」で読み始めたのが悪かったのか、あるいは、単に私の頭が悪かったのか知らないが、まるっきり『ゲド戦記』の話、忘れていましたね。はじめて読む物語みたいに興奮して読めました。ところどころ、例えば、アースシーの地図にもない外海の果てに生きるイカダの民の話とか、タカに変身して師のオジオンのもとに戻ってきたゲドが「はい、出ていった時と同じ、愚か者のままで」と語る名場面などは覚えていますから、第3巻までは一気に読んでいたのでしょうけど。
 (なにかしら自信をなくしてしまいますね。今、『指輪物語』とか読み返したら、「いやぁ、こんな話だったのか!」なんてことにはならないだろうな。ちょっと不安です。でも、何度でも、新鮮な物語として読めるわけでもあるのだから、まぁ、いっか。)

 で、問題の『ゲド戦記』第4巻。私は、この第4巻が、第3巻から時を経絶つこと16年ぶりに出版された時に、なにか、読んでもいないくせに、「これはエンデ・パターンじゃないかな」と思っていました。第3巻で、ついに、長き王の不在の時代を越えて、アースシー全土を治める王座についた若き王、アレン(レバンネン)。私は、今度は、ゲドの代を次いで、若き王アレンが、自らの高慢と未熟によってこの世に呼び出してしまった『影とのたたかい』が始まるんじゃないか、『アレン戦記』が始まるんじゃないかって思っていました。こうして、物語はゲドからアレンへ、師から弟子へ、親から子へ、老人から子どもへ…と、教育的(?)ファンタジーの得意技である『はてしない物語』構造に持ち込んで行くんじゃないかな…と思っていたんだけど。
 やっぱり、ル・グィンは、そんなに甘くない…
冒頭から現れたおばさん「ゴハ」が、徐々に、ああ…これは第2巻『こわれた腕輪』の「テナー」なのか!とわかってきた時のスリリングな展開ったらなかったですね。今回も、この簡単な導入の技ひとつで、私は一気に最後まで持って行かれました。
 はい、第4巻の種明かしは、これひとつです。もう、読む人はとっくに1993年に読んでしまっているとは思いますが、これから『ゲド戦記』を読む人たちのためにも、ここは黙りたい。各自、自分で「一気に持って行かれて」ください。

 

 『ハリー・ポッターと賢者の石』が面白いのは、物語の構造は先ほどの2タイプ分類で言うと、エンデの「ネヴァー・エンディング」タイプなんだけれど、味わいは、圧倒的にイギリス正統のファンタジー・スタイルであるところなんですね。ファンタジー界の「魔力」が、完全に「現実界」の我々を圧倒している!
 それは、掟破り…とでも言えばいいんでしょうか。『ハリー・ポッター』の特徴のひとつに、ファンタジー界の方が現実界にどんどん浸出してきて、さかんに「現実界」を挑発する…という場面が多く見られます。「現実界」の人々のつまらない暮らしを揶揄するんですね。こんなファンタジー、あまり聞いたことない。(この反対の方向なら、今までにいくらでもあるんですけどね。『ピーターパン』型の、このすばらしいファンタジー世界に、さあ、あなたを招待しましょう!という。) 20世紀も終わりまで来て、ついに、私たちの世界も、「魔法使い」たちにからかわれるほど無味乾燥な世界になってきたということなんでしょうか。

 たしかに、「魔法」というのは、私たちをとりまく「世界」を解釈するための、ひとつの哲学体系なのではないかと思うのです。ちょっとばかり長い引用になりますが、聞いてください。

 手わざの長はゲドの手のひらで、たった今、竜の宝の蔵から奪い返してきたばかりのようにキラキラと輝いている宝石に目をやった。それから、ひとこと、
 「トーク、」
 とつぶやいた。手のひらのものはもとの小石にもどった。もはや宝石どころか、どうということもない灰色の小さな石くれだった。長はその石を指でつまんで、自分の手のひらに移した。
 「これは石ころよ。真の名は“トーク”と言うがな。」
  
(中略)
 石ころは、長が言い進むにつれて、花から炎までくるくるとその姿を変え、最後にまた小石にもどった。
 「だがな、それはあくまで見せかけにすぎん。目くらましというのは、そのことばどおり、見る者の目をあざむくことじゃ。目くらましの術を使えば、たしかに人は目で見たり、耳で聞いたり、手でさわったりして、物が変化したとは思うさ。だが、術は実際には物を変えはせん。この石ころを本当の宝石にするには、これが本来持っている真の名を変えねばならん。だが、それを変えることは、いいか、そなた、たとえこれが宇宙のひとかけにしかすぎなくとも、宇宙そのものを変えることになるんじゃ。そりゃ、それもできんわけじゃない。いや、実際可能なことだ。それは姿かえの長の仕事の領域でな。そなたもいずれ習うじゃろう。時が来ればな。だが、その行為の結果がどう出るか、よかれ悪しかれ、そこのところがはっきりと見きわめられるようになるまでは、そなた、石ころひとつ、砂粒ひとつ変えてはならんぞ。宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな。ものの姿を変えたり何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡をゆるがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん。そして、まこと、それが必要となる時まで待たねばならん。あかりをともすことは、闇を生みだすことにもなるんでな。」

 今、私が目の前にみている道ばたの石ころ。これを、「これは《縄文前期の土器》ではないか?」とやるのが私たちの持っている「科学」なんですが、でも、「これは《トーク》である」と解釈したって、別に私は困らない。というか、かえって、私はうれしい。またひとつ、ものの真(まこと)の名を知った!という喜びにはかけがたいものがあります。世界は、あらゆるものに満ちており、その、道ばたの石ころのひとつひとつにまで真の名があるのだ…という「世界」解釈の方が、私には似合っている。学ぶとは、だから、ものの真の名を知ること。真の名を口にしないかぎり、その「魔法」は働いてはくれない…と説明される方が、今の自分というものを正しく現しているのではないでしょうか。
 
 
 

 『ハリー・ポッター』に描かれる「魔法の学校」生活の方が、はるかに、私が卒業してきた小・中学校より魅力的でした。「ホグワーツ魔法魔術学校」が魔法界の「ケンブリッジ大・附属中学校」だとしたら、さしずめ、『ゲド戦記』に描かれた「ローク」はファンタジー界の「マサチューセッツ工科大学」みたいなもんかなとも思いますが、どちらにも共通して言えることは、意外なことに、ものごとの真の名を、つまり真理を「学ぶよろこび」みたいなところに落ち着きます。
 今の日本で、あえて「学ぶよろこび」みたいな死語を使うことには幾分のためらいもありますが、でも、『ハリー・ポッター』物語が、20〜30歳代のOLや40〜50歳代のオヤジではない、現役の日本の小・中学校の子どもたちに本当に支持され読まれているのならば、これは、なかなか捨てたもんでもないな…と私は考えますけれど。

 『ハリー・ポッター』…
勝ち続けている最中の「コンサドーレ札幌」みたいなもんですかね。ペルージャ時代の中田とか。世界のファンタジー・リーグには、いつか、やっぱり『指輪』や『ゲド戦記』みたいなビッグ・クラブのぶ厚い壁が姿を見せてくる日もあるだろうけれど(ほんとにトールキンやル・グウィンって、「マンチェスター・ユナイテッド」とか「レアル・マドリッド」といったたたずまいですね)、堂々と正面から勝負して行ってほしい。途中では、いつかスランプの日々も来るのだろうけれど、腐らず、上をめざして頑張ってほしいですね。世界中の子どもが見ています。

 
 

 
2001年1月15日号 あとがき

■じつは、『Northern songs』2000年12月31日号を書き終えた大晦日の夜、後書きのところに「横田めぐみ」さんへのブックトークの文章を書きました。その、本の紹介の中の一冊にも、『ハリー・ポッターと賢者の石』は入っています。一度は、その「後書き」も含めて、このホームページにアップしたのですが、画面を見て、なにか気恥ずかしくなって、すぐに取り消しました。「何様のつもりだよ!」という反省はたしかにあります。

■が、しかし、一人くらい、中学1年生の時に拉致誘拐されたまま、普通の日本人の子どもとしての成長を阻まれている人にブックトークするアホな図書館人がいたっていいじゃないか!という未練はありますね。横田めぐみさんは読書家です。あの拉致された日も、中学校の図書室に借りていた本を返却して、新しい本を借り出していました。(ですから、同じ、新潟の誘拐監禁事件の少女のように、拉致誘拐された時のカバンが残っていれば、そこには、新潟市立寄居中学校図書室の本が入っているはずです。)

■新潟の誘拐監禁事件の少女の、ランドセルにあった「ノート」と同じです。そこには、自分や家族の名前が何回も何回も書きこまれていたと聞きますが、横田めぐみさんも、(もし寄居中学校図書室の本が残っていたら)、数少ない、「横田めぐみ」という名の自分のアイデンテティを確認する大切なものとして、何回も何回もその図書室の本を読み返したことでしょう。

■スパイ学校の日本語教官の仕事が続いているならば、日本の最新情報に詳しくなければならない関係で、日本のテレビ放送(ビデオ)や日本の書籍を、例の万景峰号を通じて取り寄せられるとも聞いています。まかりまちがって…でいいから、なにかの拍子に、「日本のしがないホームページで、横田めぐみさん宛に子どもの本を紹介している変な奴がいたよ…」という情報がとどかないものかなと思います。<新谷>