前回(2000年11月15日号/No.11)まで 1.横田めぐみさん 2.証拠@ 3.『金正日の拉致指令』 4.「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」 5.『スーパーKを追え!』 6.安明進 7.『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』 8.証拠A (注12) (注13) (注14) |
(注12) 前回(Northern songs 2000年11月15日号/No.11)の「証拠A」で紹介した「寺越武志さん」の事件について。今までは雑誌『文芸春秋』の記事しかなかったのですが、最近になって、武志さんの母、寺越友枝さんによる手記が出版されました。 ■ 北朝鮮にいる息子よ、わが胸に帰れ 寺越友枝著 徳間書店 2000.12 \1500 内容は、『文芸春秋』の文章の補強という感じで、特に目新しい新事実というものはありません。強いて言えば、日本の側の「寺越家」の家族のことが詳しく書き込まれたことによって、拉致被害家族の複雑な心境が浮き彫りになったという点でしょうか。まだまだ「自民党」が風土全体を牛耳っている日本の田舎の様子、「おとろしい国」といった迷信に今なお縛られている日本の田舎の様子がよく描かれています。 前回で紹介しました『娘をかえせ息子をかえせ』などの著者でもある高世仁氏が解説を書いています。また、高世仁氏が主宰するホームページの方にも、この本の紹介がアップされていますので一度ご覧ください。 ■ ジン・ネット http://www.jin-net.co.jp/ このホームページは、今まで、「北朝鮮偽ドル札」や、日本人・原敕晃さん拉致の犯人である「辛光洙(シン・ガンス)」などの特番編集制作を手がけてきた「ジン・ネット」のホームページです。こういう特番は、テレビ各局のニュース番組の中の特集時間帯などで放送されることも多く、通常の、新聞のテレビ欄で探しているだけでは、どこの局で何日の何時に放送するのか?がなかなかつかめません。そういう時に、ここの情報をよく使います。高世氏自身、テレビの人なので、こういう映像資料を駆使できるホームページ形式の方が生き生きとしている。活字で、例えば同じ「偽ドル札」を扱うにしても、本の『スーパーKを追え!』の方はやや冗長で説得力が薄いように感じました。 |
(注13) ホームページ話題が出てきたので、ここで「北朝鮮拉致問題」に関する重要サイトをいくつか紹介したいと思います。 ■ 「北朝鮮・拉致問題」掲示板 http://www66.tcup.com/6609/ratimondai.html 「北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会」に加盟しているのは日本全国に約30団体ほどありますが、ここは、その内の「地方議員の会」「福岡の会」「滋賀の会」「インターネットの会」「神奈川連絡会議」「三重の会」「青年の会」「新潟の会」8団体の公認掲示板です。拉致問題に関する最新情報がここで手に入ります。各協力団体のホームページ・アドレスも、ここのフロント・ページに掲載されています。(「北海道」は、ホームページがないのか、何の連絡先も出ていない…) ここから行ける重要なアドレスを幾つかあげておきます。 ■ 「北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会」 ■ 「現代コリア研究所」 ■ 「救う会全国協議会ニュース重要バックナンバー」 ■ 外務省公式「北朝鮮による拉致問題の概略及び経緯」 こういう掲示板サイトにありがちな政治色は、私はあまり感じません。まあ、問題が問題ですから、100%政治的に中立・公正な立場というものはありえないと思います。しかし、毎日チェックして見ている限りでは、明らかに運動の撹乱・妨害をねらった挑発的な書き込みとか意図的・侮辱的な発言を管理人が削除する以外には、掲示板上の誰かの書き込みを誰かが封殺したとかいったことも目にしたことはありません。各人の思想信条はいったん置いておいて、まずは「拉致問題」の一刻も早い解決のために力を尽くすべきである…という、この掲示板の暗黙の了解の存在は、かつて、現れてはカキコで荒れて消えていった幾つかの過去の掲示板とは一線を画しています。 また、この掲示板は、「拉致被害者家族会」の人たちも必ず見ていると思われます。事実、家族の方の書き込みも何回も目にしました。私のように、別に政治的な主張があって運動に関わっているわけではない人間にとっては、最後の拠り所、最終的な判断基準は「拉致被害者家族」です。迷った時は、「被害者家族」が私たちにやってほしいことは何か?(もっとはっきり言えば、横田めぐみさんのお父さん、横田滋氏が今私たちにやってほしいことは何なのか?です)を私は考えることにしています。そういう自分にとっても、「被害者家族」の直接の声が聞こえるこの掲示板は重要な存在です。 ■ 北朝鮮による日本人拉致問題総合情報サイト http://free.prohosting.com/~aeronaut/ 「拉致問題」に関する新聞記事・雑誌論文・HP論文などを提供してくれるサイト。個人では収集するのがなかなか難しい情報分野を丁寧にカバーしている。 ■ North Korea TODAY http://www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/ 「北朝鮮」に関する新聞・放送ニュース情報を提供しているサイト。朝鮮語がわからない人にとっては、日々刻々の「北朝鮮」情報を日本語で読むことができる貴重なサイトです。「拉致問題」や「テポドン(核ミサイル開発)」、あるいは日本の「コメ支援」について北朝鮮がどのように見なしているのか?をもっと日本の人たちに知ってほしい。 ■ 北朝鮮リンク集 http://www.m-n-j.com/medianetjapan/goldie/ 政治問題に限らず、文化全般について、「北朝鮮」に関連したホームページを集め紹介しています。右から左まで、「くずれ左翼」から「北朝鮮オタク」サイトまで玉石混淆ですが、以下に紹介する重要サイトへのリンクが網羅されているため、ここを「お気に入り」に登録しておくと各HPからの情報収集が能率的に行えます。 ■ 北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会 http://sukuu-kai.ram.ne.jp/ 最初に紹介した「《北朝鮮・拉致問題》掲示板」HPが登場するまでは、ここのホームページだけが頼りでした。「全国協議会」(現代コリア研究所)のホームページを除けば、日本の「救う会」の中で最初にホームページ活動を始めた団体ではないかと思います。多くの情報とともに、いろいろな意見をとりまとめながら「拉致された日本人を救出する」最初の意志を忘れず灯し続けてゆく運動のスタンスのとり方にたいへん学ぶべきものがあったサイトです。(また、個人的には、スワン社のホームページ制作にあたって、いろいろなテクニックをここから勉強させていただきました。) ■ カルメギ 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 http://homepage1.nifty.com/northkorea/ ■ RENK 救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/ この二つのサイトについては、ここの「拉致の証拠はあるのか?」の章とは別のところで紹介することもあるかと思います。直接的に「拉致問題」に関連したサイトではありません。ただ、「拉致問題」の解決を考え行くと、どうしても現在の「北朝鮮」という国家への正確な認識、あるいは、「金日成−金正日」の独裁体制への正確な認識というものが必要になってきます。そのためには避けては通れないサイトでしょう。今、この時代に、こういう人たちが生き残っていることに、正直、私は感動しました。 |
(注14) 「救う会全国協議会」が「拉致及び疑惑事件」のリストを更新しました。長文になりますが、最新の「参考文献」リストなども付いていますので、なにかと現在連載中のこの文章にも参考・補強になるかと思い、『全国協議会ニュース』から全文転載させていただきます。人名部分を太字で強調した以外は、一切、文章に手を加えることはしていません。 |
昭和52(1977)年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当時52歳)は、能登半島の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されている。久米さんの足どりは宇出津海岸の旅館で途絶えており、久米さんをその旅館まで連れていった在日朝鮮人Rが外国人登録法違反で逮捕され、次のように自白した。 「北朝鮮工作員から『52,3歳の日本人男性で身寄りのない者を北朝鮮に拉致すること。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて9月19日夜、能登町宇出津海岸で待っている工作員に引き渡せ』と指令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易を手伝わないかとだまして、戸籍謄本をとらせて宇出津海岸の旅館まで連れて行き、昨夜、海岸で待っていた北朝鮮の工作員に久米さんを渡した」 東京のRの自宅から乱数表、暗号解読表等の証拠も押収されているが、Rは「出国時の意思」を久米裕さんから確認できないことを理由に起訴は見送られ、外国人登録法違反でも不処分のまま釈放されている。 |
昭和52(1977)年11月15日夕刻、新潟市の中学校から帰宅する途中で拉致された。この事件は平成8年10月号『現代コリア』に朝日放送の石高健次氏が寄稿した論文で言及されていた「中学校一年生の少女拉致」が端緒となり、同年末その少女が横田めぐみさんであることが判明、翌平成9(1997)年1月23日西村真悟衆議院議員(現自由党)が政府に質問書を提出、さらに2月3日には衆議院予算委員会で質問し、橋本総理も調査中であること旨答弁した。また同じ2月3日発売の週刊誌「アエラ」と同日付けの産経新聞がこれを大きく報じた。 政府は平成9年5月1日の参議院決算委員会の吉川芳男議員(自民)の質問への答弁を通じ北朝鮮による拉致事件として認定したことを明らかにした。アベック拉致と同様無線傍受などの情報によって特定したものと考えられる。この事件は当初工作員が海岸に来ためぐみさんに見つかり、工作活動が発覚するのを恐れて拉致したと言われていた(当初この情報をもたらした亡命工作員及び亡命工作員安明進氏が聞いた話)が、その後現場の状況の調査などから、遭遇ではなく自宅近くで待ち伏せされて(個人名を特定しない、「若い女性」などの指示による)拉致されたものと思われる。安明進氏の情報は北朝鮮の工作員養成機関「金正日政治軍事大学校」の教官から伝えられたものだが、安氏によれば、「想像だが暗くて年齢が分からず、拉致してみたら子供だったので、『見つけられたので拉致した』ということにしたのではないか」とのことである。 |
昭和53(1978)年6月に東京高田馬場のベビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま拉致された。朝鮮語や政治の教育を受けた後、昭和56(1981)年7月から58(1983)年3月まで大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本人化教育係を勤める。北朝鮮では「李恩恵」と呼ばれた。 昭和63(1988)年1月、金賢姫がソウルで行った記者会見によってその存在があきらかになったが、事件後2人の子供を養子として育てていた田口さんの兄と姉が子供への影響を考えて申し出ず、特定するのに時間がかかった。 平成3(1991)年5月15日、埼玉県警は記者会見をして、匿名での報道を条件に「李恩恵」は埼玉県出身の田口八重子さんと判明したと発表し、「李恩恵が船で日本から引っ張られたと金賢姫に言っていることから、拉致の可能性も含め、刑事事件として捜査を行なう」と述べた。 その5日後の5月20日から北京で開かれた第3回日朝国交正常化交渉の日本側は「李恩恵」の消息調査を求めたが、北朝鮮側は激しく反発した。第4回から第8回までの日朝交渉では日本側は本交渉ではなく次席代表同士の実務協議の場で持ち出し、真相の究明を求めた続けた。北朝鮮側はこれを不満として第8回交渉でそのことに言及すること自体認められないとして会談は決裂し現在に至っている。 |
昭和53(1978)年7月7日午後7時40分頃、福井県小浜市の海岸に近い国道沿いのレストランを出た後、拉致された。地村さんは当時23歳の大工見習い、浜本さんは当時22歳。海岸を見下ろす展望台に地村さんの乗っていた軽トラックが鍵のかかったままで残されていた。2人は9日前に結納を済ませたばかりで、自らの意志で失踪すべき理由はない。金賢姫は招待所(拉致された日本人から工作員教育を受けた秘密施設)の世話係の女性から「ある招待所に日本人で大工仕事を上手にこなす男性がいた」と聞いたと証言しているが、地村さんではないかと推測される。 |
昭和53(1978)年7月31日、午後6時に新潟県柏崎市の海岸から250メートル離れた図書館で待ち合わせをした後拉致された。蓮池さんは当時20歳で帰省中の中央大学の学生、奥土さんは当時22歳の美容指導員。蓮池さんは夏休み後に提出するレポートを書き上げたばかりで、奥土さんは職場の店長に「コーヒーを一杯飲んだら帰るわ」といって出かけており自らの意志で失踪すべき理由はない。海岸近くに林があり、そのあたりで拉致されてゴムボートのある地点まで移送されたものと思われる。 |
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残したまま拉致された。市川さんは当時23歳で鹿児島市の電電公社(現NTT)職員、増元さんは当時24歳で事務員。車はロックされ、助手席には増元さんの手提げバックとカメラが置いてあった。バックの中にはサングラス・財布・化粧道具などがそのまま残され、車内はまったく荒らされた形跡がなかった。なお、市川さんについては安明進氏が金正日政治軍事大学で何回も目撃し話をしたこともあると証言している。 |
昭和55(1980)年6月20日、北朝鮮工作員辛光洙らによって宮崎県青島海岸から北朝鮮に拉致された。原さんは当時49歳で、李三俊・在日朝鮮人大阪府商工会理事長の経営する中華料理店「宝海楼」の店員をしていた。その後辛は原さんになりすまし日本に入国。パスポート、運転免許証、国民健康保険証まで取得し、海外にも出て対南工作を続けていた。辛は昭和60(1985)年2月、原さん名義の旅券を持って韓国に入国し逮捕され、韓国当局の取り調べによって原さん拉致事件が明らかにされた。辛は平成11(1999)年12月31日恩赦で釈放され、金大中政権の「非転向長期囚送還」によって9月2日北朝鮮に送られた。 |
昭和38(1963)年5月11日、石川県志賀町に住む寺越昭二さん(当時36歳)、外雄さん(同24歳)、武志さん(同13歳)は漁に出て行方不明となり、船だけが沖合いで発見された。昭二さんは寺越嘉太郎さんの二男、外雄さんは四男、武志さんは長男太左衛門さん・友枝さん夫婦の息子。 失踪から24年後の 昭和62(1987)年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮で生活している旨の手紙が届いた。太左衛門さんと友枝さんは8月、平壌を訪れ外雄さんと武志さんに会った。昭二さんについてはこのとき昭和43(1968)年に病気で亡くなったと伝えられた。友枝さんはこのとき以来度々北朝鮮を訪問、武志さんに会っている。外雄さんは平成6年秋に亡くなった。 安明進氏はこの事件と推定される事件について先輩工作員から聞いており、それによると昭二さんと思われる人物は拉致の現場で抵抗して射殺され海に沈められたとのこと。また、安氏は武志さんと思われる人物が金正日政治軍事大学の中(物資の集積をする基地)で働いているところを直接見たと言っている。 |
昭和45(1970)年3月に起きた赤軍派グループによる日航機ハイジャック、いわゆる「よど号事件」の犯人の一人、岡本武の夫人である。独身だった犯人たちを結婚させるため、色々な手段が使われたが、福留さん以外は結婚は考えていなかったとしても全員が主体思想研究会などの親朝団体の会員ないし何らかの関係を持っており、少なくとも北朝鮮までは自分の意志で行った人々である。福留さんだけはモンゴルにあこがれて渡航の方法を調べていたことなどを利用され、騙されて出国し、拉致された上で無理矢理結婚させられた。昭和51(1976)年のことである。 その後岡本と福留さんは北朝鮮からの脱出を企て逮捕され、収容所に送られたという。もともと岡本の妻は現地の女性ということになっていた。それをジャーナリストの高沢皓司氏が日本人福留貴美子であるとつきとめ、平成8(1996)年8月7日の朝日新聞が報じたが、その2日後によど号グループが流した情報と思われる「福留さんは岡本と共に昭和63(1988)年頃事故死した」との報道が各紙に報じられた。本当の生死はまだ分からない。なお、福留さんは拉致された後に一度帰国し、友人の家に立ち寄ったことがある。何らかの工作活動に利用されたものと推定される。 この事件に関し金子善次郎衆議院議員(民主)が平成12(2000)年11月1日に提出した質問主意書への12月5日付政府答弁書では「昭和五十五年六月に出国した後、親在まで行方不明となっている」となっており、事実と異なっている。これがいかなる意味を持つものか、現在調査中である。 |
田中さんは昭和24(1949)年生まれ、神戸市東灘区に住む身寄りのないラーメン屋店員だった。店を経営していた韓という朝鮮人が工作員で、「海外旅行に行く」と言って誘われ、昭和53(1978)年6月6日に成田を出国、ウィーンに向かった後消息を断っている。ウィーンで拉致されモスクワを経由して平壌に至ったと思われる。 以上のことは、北朝鮮工作員の指導の下日本国内で活動していた地下工作員、張龍雲氏の証言によって明らかにされた。張氏は朝鮮総連系在日朝鮮人の張氏は昭和47(1972)年以来 、在日地下組織「洛東江」のメンバーとして活動してきた。また、この事件については平成8(1996)年12月12日の兵庫県議会警察常任委員会で大前繁雄県議(当時)が質問しており、大橋県警警備部長は「当該人物の行方については、拉致された可能性も含めて慎重に調査をしている」と答弁している。 |
小住さんは北海道出身で昭和36(1961)年に行方不明になっていた。昭和55(1980)年頃北朝鮮に拉致されたと推定されている。昭和55年6月、朴という工作員が小住健蔵名義のパスポートを取得、海外に6回にわたって渡航していた。朴は昭和60(1985)年に指名手配されたが、現在も逮捕されていない。朴は小住さんに成り代わる前、小熊和也さんという男性を拉致しようとし、この男性が病死したため小住さんをターゲットにしたとされている。 |
有本さんは昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から帰国する予定の当日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届いた。その後10月中旬にコペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。Iさん(男性)は札幌市出身、ヨーロッパ旅行中の昭和55(1980)年に消息を絶ち、昭和63(1988)年9月6日に実家に手紙が届いた。そこには有本さんの写真や住所と熊本市出身の留学生(京都外大大学院生)Mさん(男性)の名前などが書かれていたという。手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「Iより 平壌にて」と書かれていた。最近になってこの手紙に有本恵子さんとIさんの間にできた子供と推定される乳児の写真が添えられていたことが分かった。 |
※以下の氏名未詳者については、氏名の記載されている被拉致者、あるいは後掲の「可能性のある事件」の失踪者と重複している可能性もあります。 |
安明進氏の証言で何人かの新たな日本人被拉致者が明らかになったが、そのうちの一人。男性で時期は1970年代末から80年代初め。北海道で電気製品を配達する仕事をしており、その仕事の途中で拉致された。届けた荷物の領収書に拉致する対象であるとする符丁が書いてあったという。身長は160センチ弱。 |
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた女性の日本人教官。二人とも現在の年齢で40代後半ぐらい。Bさんは髪が肩くらいまでの長さ。色白、少し老けて見えた。Cさんは横田めぐみさんより少し背が低い。後述Dさんとよく話をしているのを見かけた。 |
安明進氏が金正日政治軍事大学で見かけた男性の日本人教官。めがねをかけていた。30代前半に見えた。身長170センチ位。体格がいい。 |
安明進氏が平成2(1990)年10月頃爆破訓練用の模擬放送局で見かけた女性。身長160センチ以上で、当時30代半ばに見えた。タバコを吸っていた。 |
1991年8月、安明進氏が訓練中にけがをして入院した915病院で会った。同じ入院患者の女性。当時30代半ばに見えた。 |
安明進氏が915病院で盲腸手術を受けようとしていたとき見かけた男性。70歳近くに見えた。 |
田口八重子さんが、1979年頃平壌市内の大聖山遊園地の食堂でお見合いさせられた相手。当時40歳ぐらいに見え背が低かった。田口さんは入り口から入ってくるその男性を見てそのまま席を立ってしまったという。金賢姫が石高健次氏に証言している。 |
よど号関係者のかなり確実な情報によると、よど号グループがヨーロッパ等で拉致した日本人は上記(17)〜(19)を含んで合計20人だという。すなわち残り17人の拉致被害者が存在することになる。 |
亡命工作員の証言によるもので、1999年3月14日付産経朝刊及び週刊朝日3月26日号に掲載された。1980年代半ば、西日本の海岸と言われる。柔道と思われる格闘技にかなり熟達した男性。人物を特定して拉致された事件。 |
Jさんとは別の工作員の証言だが同じように1999年3月14日付産経朝刊及び週刊朝日3月26日号に掲載された。20代の男性で、浜辺近くでデートし、女性と別れた後で襲われたという。 |
以下の事件はあくまで「拉致の可能性のある失踪事件」であり、前に述べたような確定的事件ではありません。北朝鮮による拉致でなく、日本国内で無事見つかればそれにこしたことはありません。その意味で北朝鮮に関係ないものでも構いませんので以下の失踪された方々について何か情報がありましたらご連絡下さい。なお、救う会関係者のところには他にも多数の拉致の可能性のある失踪事件についての情報が寄せられていますが、ここでは一定の拉致可能性が推定される事件のうち、ご家族がリストに載せることを承諾されたもののみを掲載してあります。 |
函館市に近い道南の町に居住していた森洋子さん(昭和19年5月15日生まれ)は昭和38(1963)年9月20日夜函館市内で行方不明になった。この事件は次の新木さんの事件と同様元参議院議員秘書の兵本達吉氏(救う会全国協議会幹事)に、新木さんらの事件についての『正論』原稿が発表された後、ご家族から相談があった。時期は一般の拉致と離れているが、寺越事件の起きた同年である。 |
新木さんは埼玉県川口市に住む銀行員だった。昭和52(1977)年5月21日(当時29歳)外出して以来行方不明。自殺、家出の原因等は全く存在しない。この事件については前述兵本氏に家族から相談があり、兵本氏は多数の拉致及び拉致疑惑事件を取り扱ってきた経験から本件が拉致の可能性が高いとしてもう1件の事件とともに月刊『正論』平成11(1999)年1月号に寄稿した論文「私が直感した拉致疑惑『新たな二件』」で明らかにした。兵本氏によればこの事件は埼玉県警の段階で疑惑事件の一つと認識しているとのことである。 |
前上昌輝(まえがみ・まさてる)さんは実家が京都市にあり、北海道を旅行中の昭和52(1977)年9月22日、旭川駅の荷物一時預かりにザックを預け、以来消息を絶っている。11月初旬、実家に男性の声で電話が入った。声の主は低い声で「前上昌輝の家の者か」とだけ尋ねた。電話に出た母親が「昌輝のことを知っているお方ですか」と数回叫んだが、それには答えず「また電話する」と言って電話を切った。以来手がかりは全くない。昭和32(1957)年7月16日生まれ、身長173cm。 この事件には北朝鮮による拉致と思われる要素は現在のところ見つかっていない。ただ、時期が久米裕さんの拉致(9月19日)とほとんど同じであり、この時期から拉致事件が頻発している点からすると可能性も否定できない。 |
松本京子さんは事件当時29歳。昭和56年10月21日夜8時頃、当時は母の三江さんと二人暮らしだった。週何回か通う近くの裁縫学校に向かう途中失踪する。三江さんは何時まで経っても帰ってこないので、兄の孟さんに連絡した。孟さんは、事件の暫く後から朝鮮に拉致されたと認識していた。しかし、警察には取合ってもらえないと思い、北朝鮮による拉致ということは口に出さなかった。 現在まで救う会鳥取の調査で次の点が判明している。 1、海の方に向かって、何人かの足跡があったこと。 2、女性のつっかけ(サンダル)があったこと。 3、その時、男が2人いたこと。 4、当時警察で無線の傍受をしていたらしいこと。 事件の現場は境港市との市境に近く、境港は北朝鮮の拠点の一つでもあり、地理的条件、環境など色々な条件は横田めぐみさんのものとよく似ていること。 この事件が分かった発端は救う会鳥取の妹原事務局長が警察関係者から鳥取県内で3件の北朝鮮拉致疑惑事件があるとの情報を受け、うち一件が米子市内での事件であることが分かったことによる。しかし、前述の金子善次郎議員質問主意書に対する政府答弁書ではなぜか失踪日時が「昭和52年10月21日」とされており、拉致事件との認定はされていない。 |
敬美さんは昭和42年生まれ、剛さんは昭和45年生まれの朝鮮籍の兄弟。父親の高大基が北朝鮮工作員で、昭和48年失踪したのを母親の渡辺秀子さんが探しに上京し、勤めていた北朝鮮工作機関のダミー会社であるユニバーサルトレーディングを訪ねた。既に高は北朝鮮に行っていたが、発覚するのを恐れた工作員が母子を監禁、秀子さんを殺害し、二人の子供を北朝鮮に拉致した事件。これについては月刊『文藝春秋』平成12年12月号に掲載された朝日放送石高健次氏の論文「母子『拉致・殺害』北朝鮮工作組織を暴く」に詳しい。 |