スワン社HP Northern songs 2000年11月21日号

 
 
拉致の証拠はあるのか?(続き)
《影とのたたかい・第2回》
 
新谷 保人
 

 (前回まで)
 1.横田めぐみさん
 2.証拠@
 3.『金正日の拉致指令』
 4.「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」
 5.『スーパーKを追え!』
 6.安明進

 前回(Northern songs 2000年10月15日号/No.9)は、「横田めぐみさん」の事件が発覚する1997年頃の経過を中心に書きました。北海道の会が配った「拉致問題についての参考図書」で言うと、前半の5冊がこの部分に該当します。
 

金正日の拉致指令 石高健次著 朝日新聞社 1996.10
これでもシラをきるのか北朝鮮 石高健次著 光文社 1997.11
スーパーKを追え! 高世仁著 旬報社 1997.11
北朝鮮拉致工作員 安明進著 徳間書店 1998.3
娘をかえせ息子をかえせ 高世仁著 旬報社 1999.4
 

 この間の経過を正確にまとめてある本としては、やはり、発行年がいちばん最後の『娘をかえせ息子をかえせ』でしょうか。ただ、なぜ北朝鮮が日本人拉致を引き起こしたのか?を考える時には、1950年代末期の在日朝鮮人の(北朝鮮)帰国運動の時代にまで遡って考えざるを得ませんから、そういう視点を築き上げている本としては、『金正日の拉致指令』は今なお現役の一冊であり続けます。1999年に朝日文庫の一冊として再版されています。
 

 

7.『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』

 「拉致問題の参考図書」リストにはあげられていませんが、「横田めぐみさん」の事件発覚の経過を正確にまとめてある本は、もう一冊あります。それは、拉致被害の当事者、「横田めぐみさん」のお母さんが書いた本です。

めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる 横田早紀江著 草思社 1999.10

 本当は、この本一冊だけでも、拉致の証拠は?という問いの答えになっているとも思います。これ以上に確かな何の「証拠」が必要なのだろうか。
 結局、「証拠は?」と言う人間は、拉致された人が日本に帰ってきて「私は北朝鮮に拉致されました」と言うまで信じないのだから… いや、それでも信じないかもしれない。日本人拉致を否定する人たちにとっては、それは、理性とか論理の問題ではなく、もう「信仰」の問題になっているのだとさえ感じます。たとえ目の前で帰ってきた「横田めぐみさん」がそう言っても、「私」が目をつぶれば「いや、私には横田めぐみさんは見えなかった」と平気で言えるような人たちに思えます。いくらでも目や耳をふさいで「何も見えなかった」「何も私には聞こえなかった」と、健康な口から言葉を出せる人たちであると思います。
 「証拠は?」と言いつのる、その意図は、「真相究明」などではとうていなく、単なる「時間かせぎ」にすぎないから。失言を繰り返し、いくらでもウソをついては、救出を遅らせる。
(注8)
 
 

8.証拠A

 「横田めぐみさん」事件とは別の角度から「日本人(韓国人)拉致」について書かれている本をいくつかあげておきます。

北朝鮮対日謀略白書 恵谷治著 小学館 1999.11
忘れられない女 李恩恵先生との二十カ月 金賢姫著 文芸春秋 1995.
朝鮮総連工作員 張龍雲著 小学館(小学館文庫) 1999.11
宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作 高沢皓司著 新潮社 1998.8

 また、日本人拉致のケースではありませんが、金正日の指令によって拉致された人間が書いた手記というものが存在しますので、それも紹介したい。一応は近代国家のふりをしているが、中身は、日本の戦前の天皇制システムを巧妙に物真似した軍事独裁。その当の独裁者の行動感覚・思考パターンがどれほど頭の悪いグロテスクなものかを語るものとして次の一冊は欠かせないでしょう。

闇からの谺 崔銀姫,申相玉著 文芸春秋(文春文庫) 1989.3

 さらに、本の形になっていないけれど(注9)、北朝鮮に「拉致」された息子に直接会った…という、考えてみたら、これ以上率直な証拠はないだろうという「証拠」として、次の雑誌論文をあげたい。

「北朝鮮よ、息子はなぜ戻れない」 寺越友枝著 『文芸春秋』1999年6月号

 この事件は、1963年5月11日、石川県高浜町で漁業を営む寺越昭二(当時36歳)、寺越外雄(当時24歳)、寺越武志(当時13歳、町立高浜中学2年生)の3人が木造漁船「清丸」で漁に出港したまま行方不明になってしまった事件です。翌日、無人の「清丸」が漂流しているのが発見されましたが、3人の消息は一週間の大捜索にもかかわらず不明。手掛かりさえ何も見つかりませんでした。当日、海上は風も波もない、べた凪の状態でした。船首左側に衝突跡がありましたが、エンジンは故障しておらず、自力航行が可能な状態でした。能登半島の海岸線に何か打ち上げられるということもなく、また、他の船から救助の連絡が入るということもなく、捜索は十日後に打ち切られます。寺越家からの要請によって、七尾海上保安部は死亡認定を行い、志賀町役場は3人の戸籍を抹消しました。
 この事件が北朝鮮による日本人拉致であったことが発覚するのは、その日から23年の歳月がたった1987年1月21日です。差出人が「金哲浩」、発信地が「北朝鮮平安北道亀城市…」という手紙が寺越外雄さんの家族のもとに届けられます。3人が何故か北朝鮮で生きていることが判明したのでした。
 翌年、さっそく、寺越武志さんの母である寺越友枝さんは、当時の日本社会党の国会議員、嶋崎譲のつてを通じて北朝鮮に訪問することとなります。
(注10) 『文芸春秋』の記事には、武志さんとの再会の様子が詳しく描かれています。以後、5回にわたって、寺越友枝さんは北朝鮮に行き武志さんに会っていますが、その時々で、武志さんたちがつく「拉致された」状況説明のウソがなんとも悲しいものではあります。そして、また、「再会」の陰に見え隠れする日本−北朝鮮の「支援者」たちのいかがわしさというのも、これまた相当なものではあります。(「森喜朗」の名もやっぱり出てきますし…)

 私たち、日本の半端なインテリは、つい、こういった細部に目が行ってしまい、(頭は悪いが性根だけは据わっている)北朝鮮のつく大ウソを目の前から読み落とすのです。この場合、それは、「寺越武志さんは北朝鮮にいた!」という事実です。私は何度でもしつこく繰り返したいが、この寺越友枝さんの手記からまず第一に読みとらなければならないこと、それは「寺越武志さんは北朝鮮にいた!」という事実なのです。
 素人の書いた文章ですから、いろいろな細部から自分に都合のよい部分をひろい集めて、「拉致だ」という見解から「いや、北朝鮮の人命救助だ」という見解まで解釈はいくらでもできるでしょう。ただ、そういう解釈を述べた人間は、最終的には、13歳の日本人少年が36年間も(そして今も)北朝鮮にいなければならない事実についてまず明確に答えなければいけないと思っています。責任というものがつきまとうと考えます。ここを曖昧にした言論などというものは、寺越武志さんのためではない、何かのための「判断停止」「時間かせぎ」「アリバイづくり」でしかないでしょう。
 私もまた、そういう責任(もしも、これが「拉致」でなかったのなら、私は以後一切の文筆・言論活動を止める)において、これを「拉致」と言っています。当時の日本の海上保安部・警察に残っている記録と読み比べてみれば、これが北朝鮮工作船との「遭遇拉致」の典型的なケースであることは明白と考えます。

 この手記を読んでいて感じるのは、「子ども」が拉致されたケースの可哀想さです。成人が拉致されたケースにはない悲惨さと(これは逆説を込めて言うのだが…)「幸運」があると思う。
 「幸運」とあえて言うのは、「子ども」であったが故に殺されずにすんだことをさします。そして、「子ども」故の生命力とでも言えばいいのだろうか、身体や思想が固まってしまった成人だったらばおそらくは耐えられないような過酷な環境の激変にも、その大ショックをなんとか命がある状態で切り抜けた後は、「子ども」の方が、なんとか今目の前にある現実に対応して行こうとするように思えます。ちょうど大人の「ことば」を獲得する思春期の成長過程にあったことが幸いしているのかもしれません。
 そして、また、可哀想さの最たるものとは、まさにこの「生き残った」事実そのものにあるともいえましょう。「生き残る」とは、つまり、「北朝鮮人」となって「生き残る」ということです。拉致された「日本人」として生き残る選択肢は、「子ども」の場合、稀です。

 五月十二日未明から十五日までのことは、本当に何も覚えていない。
 そう武志は語り始めました。
 ―――十五日には清津の港にいた。入ったのは病院ではなく、寮みたいなところだった。一部屋を与えられて、三人での生活が始まった。食物はもちろん、酒、タバコや菓子類の配給があり、けっして悪い待遇ではなかった。
 ただ、自分は十三歳だったから、酒やタバコは必要ではない。だから菓子類は、自分にもくれてもいいのではないか、と思ったが、おじさんたちは少しも分けてくれなかった。それに部屋の掃除や洗濯、雑用を全部押しつけられたのも大いに不満だった。とにかく、すべては昭二さんと外雄さんの二人で決められた。
 武志の話によると、少なくとも罪人扱いや、日本のスパイ扱いはされていなかったということになります。
(「北朝鮮よ、息子はなぜ戻れない」より)

 今回も「時勢」を研究・反映した大ウソかもしれないが、一応書いておきます。ウソはウソなりに、「拉致」の事実を何とか言いくるめようとする無理によって、逆に、真実を語ってくれるものだから。

 話は、二十四年ぶりに手紙を出した本当の事情に移りました。
 外雄さんの結婚した相手は、小さい頃は大阪で暮らしていた帰国者でした。親戚がまだ大阪におり、そこからモノやお金を送ってもらっていたのです。だから奥さんは日本語を話せたし、何不自由なく亀城で暮らしていました。ところがなんらかの理由で、ある日、仕送りが途絶えてしまったのです。今度は外雄さんのルートで仕送りを受けよう、というのが、寺越家に手紙が送られた本当の理由だというのです。
 「外雄おじさんはいい生活をしていました。最初は、なんであんないい生活ができるのかわかりませんでした。日本からいろいろなものが送られてくるのですが、私には何もくれなかった。それが悔しかった。」
 武志は日本に手紙を送ったことも知らされていなかった、と言いました。
(「北朝鮮よ、息子はなぜ戻れない」より)

 (拉致されたというのに)記憶にあるのは、たかが「お菓子」のことなのか…と読みとるのは、あまりにも飽食に慣れきった今の日本人の読み方ではないかと思います。飢餓状態をさまよっている北朝鮮の民衆にとって、(日本の子どもなら振り向きもしないだろう)駄菓子の一切れやアメ玉の一個ですら、おそらくは北朝鮮では滅多に手に入らない「ご馳走」なのです。
 だからこそなのでいすが、こういう不自然な箇所は疑ってみる必要があります。北朝鮮で暮らすことになった直後に、何故「食物はもちろん、酒、タバコや菓子類」などという唐突な記述が出てくるのだろうか。私には、これは、「北朝鮮当局は日本人に何一つ不自由はさせませんでしたよ」「罪人扱いやスパイ扱いはしませんでしたよ」という作文朗読にしか思えません。事実は「酒、タバコや菓子類はもちろん、基本的な食物」にも事欠いたということなのではないでしょうか。
 誘拐犯が電話口に人質を出して「元気でやっているから」と言わせている状況となんら変わりないと思います。これを聞いて「ああ、元気でいたのか」「命に別状はない」と安堵するバカはいないでしょう。多くの人は、自分のことを、自分はそういう分別をわきまえている人間だと思いこんでいます。けれど、ちがうことが多い。簡単に目の前でダマされます。言いくるめられます。悔しいけれど、これが現実です。私たちはかつて「地上の楽園」という大ウソに見事にダマされた人間たちであることを忘れてはいけません。
 私がいちばん気になるのは、手記の中で、最初から最後まで、ただの一度も、武志さん自身からは家族に連絡をとろうとした痕跡がうかがえない点です。「外雄おじさん」のやっていることを身近で見ていたのなら、その「大阪」経由でもなんでも何かのメッセージを出せば「日本」と連絡がとれることはわかったはずです。もう13歳の中学2年生なのだから。そこまで「北朝鮮人」に洗脳・改造されてしまったのか?という可能性も考えられるけれど、そんなに人間の頭の改造なんて調子よくできるわけがない。おそらくは「罪人扱い」「スパイ扱い」、外部と連絡がとれない軟禁状態だったのでしょう。
 また、手記中、「外雄おじさん」を妙に悪者にした言い方も気にかかる。「昭二さん」に具体的な生活感が全くないこともたいへん気にかかる。
(注11) 家族に対する感情が、なにか日本人の家族観とはちがうように感じます。

 これは、寺越武志さんが語った言葉の形をとってはいるけれど、100%北朝鮮当局の検閲が入った「公式発表」なのだという認識が必要です。現時点では、こういう言い訳で「拉致はなかった」ということにしたい…と画策しているのです。でも、どんなに手を換え品を換え言葉を言いつくろっても、二度と取り消せないことがひとつだけある。それは、日本から行方不明になった「寺越武志さん」がそこにいる!ということです。そこ、北朝鮮にいるじゃないか!ということです。
 「証拠があるのか?」と言う人は、平壌に行って寺越武志さんに会ってくればいいでしょう。そして、寺越武志さん本人に「あなたは拉致されたのか?」と聞いてみればいいのではないか。愚かな人間には「人間の愚かさ」をそれくらいには身に滲みて知る罰があると私は思う。

 雑誌論文まで手を拡げるのはいささか私の手にはあまることなので、この論文手記の紹介ひとつで止めておきます。
 また、私がここでやらなくとも、すでに恵谷治氏が『北朝鮮対日謀略白書』で手際よく様々の資料を雑誌記事段階まで含めてまとめています。あえて誰も再度やる必要がないくらい「日本人拉致」問題について完璧にまとめられた本です。
 『北朝鮮対日謀略白書』が出版された1999年11月までは、この一冊で必要文献を遡ることが可能でしょう。これ以降の最近のニュースについては、私はインターネットを利用しています。よく使う関連サイトについては、いつかまとめて紹介したいと考えています。

 

 《影とのたたかい》「拉致の証拠はあるのか?」は、次回、もう一回だけ続きます。今回で書ききろうとしていたのですが、筆力がなく、次回に持ち越しになりました。現在、予定している章としては、

 9.『忘れられない女』
 10.『朝鮮総連工作員』
 11.『宿命』
 12.『闇からの谺』

の4冊をとりあげようとしています。もし時間がゆるせば、最近の「米朝交渉」、特にオルブライトの発言内容とか、昨年の『ペリー文書』にもふれてみたいと考えています。
 
 

 

(注8) 森の「第三国発見」発言に関して、当然「拉致被害者の会」から抗議・会見要求が出されました。その政府関係者との申し入れの席上、拉致被害者の家族のひとりから、こんな声まであがっています。
増元 小渕さんの時代から国は硬軟両様と言ってきたが軟ばかりで硬がない。国会議員に何人か聞いても金正日体制を壊すのが怖いようだ。もし怖いからできないというなら、私たちに犠牲になって欲しいと言ってもらいたい。拉致が金正日によって指示されたことは分かっている。金正日体制が残っていたらかえってこないと思う。
 「金正日が怖くて拉致された日本人の救出ができないのなら、私たちと拉致された子どもたちに、日朝国交回復のための人柱になれと本音をはっきり言え」とまで言われているのです。ここまで言われたら終わりだよな… 河野の表情なんかを見ていると、つくづくと、わが国の戦後教育の成果を思わずにはいられません。体力も知恵もなく、ただただ卑怯。増元さんの言うとおり、本当に金正日が怖いのだろう。(昔は、自民党にも外務省にも、なにか卑怯者には卑怯者なりの作戦とか勝算があって、こういう外交になっているのかな…と思っていた時期もあったのですが。買いかぶりだった。街で署名活動をやっている人たちからは、今の日本の四〜五十代のサラリーマンたちが署名用紙を差し出された時に見せる一様にオドオドした不思議な態度がよく話題にあがるのですが、役人たちの人生もこれに変わらないレベルなのだと思います。)

(注9) じつは、「本」の形でも出版されています。
再会 世界と日本を考える会編 嶋崎譲事務所 1987.11
本屋さんで取り引きされる本ではないみたいだし、発行部数も少なそうな小冊子ですが、石川県立図書館にでも問い合わせたら読めるのではないでしょうか。(と言いながら、自分では探したことはないけれど…読んで怒り狂うことがわかりきっているような本をあえて読むだけの暇がない。) 日本社会党というか、日本の日朝友好議員というか、その手の人間たちがどんな代物であったかがよくわかる。「日朝友好」と称して何をやっていたか(今でも同じことやっているけど…)を語ってくれるでしょう。

(注10) この北朝鮮行きは、当時、北朝鮮が1987年の秋から解禁した一般観光ツアーに便乗して北朝鮮に渡ったものです。そのツアーの第一陣グループにあたる。寺越友枝さんの目から見れば、「日本社会党・朝鮮問題対策特別委員会事務局長」の「嶋崎譲先生」が尽力してくれて北朝鮮にまでようやく渡れた…となるのだろうが。しかし、私から見れば、「嶋崎譲先生」はただの北朝鮮観光ツアーの「セールスマン」ですね。北の連中との連係プレーよろしく、金正日プロデュースの「北朝鮮観光」に、まんまと自分の観光費用まで寺越家に押しつけてちゃって、ずいぶん楽な営業している国会議員なんだなぁ…と思います。この時のツアーの中には、作家の関川夏央もいました。その見聞については、彼の著書、
退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか 関川夏央著 新潮社(新潮文庫) 1996.4
の「北朝鮮マジカル・パッケージ・ツアー」などの章に詳しく書かれています。この本、今回は「拉致問題」のテーマが中心なので、なかなか紹介するチャンスもないかと思いますが、かの名作『ソウルの練習問題』と相まって、韓国・北朝鮮(と、そして日本)の人たちとは何なのか?を考える時には避けられない一冊です。力作です。しかし、それにしても…本当にマンガ『坊っちゃんの時代』の一場面じゃないけれど、背負っているそれぞれの宿命の星が、ある時、こんな形で、同じ北朝鮮行きの飛行機の上で交差したりすることがあるのですね。

(注11) 安明進の『北朝鮮拉致工作員』によれば(又聞きの、確度の低い伝聞情報だと断っていますが)、
 とにかくそうして(能登半島の海岸をめざしていた侵入スパイは)陸地へとむかっている時、工作船とは知る術もない小さな漁船がこちらに接近してきたのに気づいた。
 侵入スパイは、その漁船に乗っていた日本人−三〜四名ほどと言われた覚えがある−全員を拉致しようととっさに決めた。ところが、彼らの中の一番年配の日本人が頑強に抵抗してきたので、その場で射殺し、残りの人々を強制的にスパイ船に拉致したという。
と書かれています。

 
 

2000年11月21日号 あとがき
 
「J2ダイジェスト」のお休みについて

どうも、猛毒です。
まずはなんの前触れもなくJ2Dを一時閉鎖してしまって、ご迷惑がかかった方にお詫び申し上げたいと思います。いくらこのサイトが私物だと言っても、ここでの出会いやおしゃべりを楽しみにしていた方にとって申し訳ないことをしました。
こんど閉鎖するときは…って何度もあったら困るんですが、告知して時間をおいてすることにします。理由も明らかにしないままに閉じたせいで多くの方を混乱させてしまってすいませんでした。
一時閉鎖にいたった理由なのですが、ひとえにワタシがサイト運営にいきづまったためです。例の大宮サポが掲げたダンマクに関するスレッドが、だんだん酷い状況になり、一部の方々によってスレッドが流されてしまいました。このことが非常に議論をよんでワタシの管理姿勢までもが槍玉に挙げられるに至って、非常に悩みました。「いったいこれは誰のためのサイト」かと。
そんな中、一通のメールをもらいました。内容は「試合があった日ぐらいちゃんと更新してください。よろしく」
以上でした。「やってられるか、ボケ」こらえがきかないワタシはこれでキレてしまい、J2Dを一時閉鎖することにしました。

■J2ダイジェスト。スワン社が計画している「読書会BBS」のアイデアは、じつは、ここからもらいました。図書館で行う読書会形式にぴったりの掲示板です。そして、この掲示板は、システムもすばらしいけれど、それにも増して、運営する哲学がすばらしいといつも思っているのです。管理人の「猛毒」氏は、個人的には「浦和レッズ」サポーターだそうですが、凡百のサポーターたちが自分の愛するチームのホームページを立てて、その出来映えをあれこれ競いあっているところを、ぐぐっとE難度。なんと「J2」そのもののホームページで立ち上げてしまったのですね。かくして、北のコンサドーレから南のトリニータまで、多くのサッカー・ファンが毎日のように往来する一大広場となりました。今年のJリーグは、オリンピックの年でもあったことも相まって、久しぶりに「海外」に行っていたサッカー・ファンの目を「日本」にとり戻した珍しい年だったと思いますが、その原動力の何割かには、この「J2ダイジェスト」的な哲学の人たちの存在があったことは疑いようがありません。今年度の「埼玉」が生み出した最大のヒットではないかと私は思っています。

■J2ダイジェスト。私も時々はカキコしていました。警戒心が強くて、なかなか書いたりはしない方なのですが、ここは、なにか自然に発言ができるいいサイトでしたね。そんな心地よいサイトだったのだけれど、人気が出てくると、やっぱりいろんな人が集まってくるわけで、掲示板が荒れてしまうことも出てきました。引用した扉の「猛毒」氏の文章も、じつは、こういう事情があってしばらく「メンテナンス中」にしてホームページを閉鎖していたわけです。その再開後に、扉に掲げられるようになったのが、この文章です。

■読書会BBS。早く立ち上げたくて、10月中せっせとシステムの設定を行っていたのです。が、ある日、マニュアル途中の注意書きに目が行って、のけぞってしまった。「※プロバイダによっては自作CGIを受け付けないところもあります。例)Page-on…」 ガーン!私のプロバイダ、まさに、その「Page-on」なのでありました! こんな大事なこと、脇の注意書きなんかに書くなよ!表紙に大書きしておくれ!

■読書会BBS。その後、二転三転して、ある時期はプロバイダを換えようかとも思ったのだけれど、今現在は、短大のホームページの容量を少し分けてもらって、図書館ホームページが独立するまで、そちらに居候するという方向で計画が進んでいます。図書館ホームページ自体もじりじりと皆様を待たせてしまって大変申し訳なく思っていますが、今少しお待ちください。私たちも、「20世紀の課題は20世紀中に解決する」覚悟で努力中です。(こんなにすばらしいものなのに、なんでわからないんだ!っていう焦りもちょっとだけあります。ああ、早く本の話がしたい…)

J2Dを運営するのはやりがいがあります。たくさんの人が来てくれれば純粋にうれしいし、応援してくれる人のためにコンテンツを更新するのはHP製作者にとっての喜びです。ただ、どうしても譲れないものもあります。それはワタシの良心の自由です。
ここでいう「良心」とは「自分の心に誠実であること」です。
なんども書きますが、ここはプライベートサイトです。公式なJ2リーグのサイトではありません。ですから、記事はおろか各コンテンツ、掲示板の方向性に至るまで立場的に中立なものは無く、すべて管理人個人の指向するものが反映されます。またそうであるからこそ、管理人は自分のサイトが評価されたときに喜びを感じることができるのです。
ワタシの書き込み削除行為を「言論統制」だとか「こりゃあ考えちゃうなあ…」などと言って批判する人たちはまったくもって「自由」を履き違えてるとしか考えられません。ホントウに言論の自由を享受したければ、自分でサイトを立ち上げるなり、本を書くなりして意見を述べるべきです。他人の家に入って好き放題放言し、つまみ出されてどんな文句がいえると言うのでしょうか。
「郷に入っては郷に従え」。J2Dで発言するからにはJ2Dの流儀にしたがってもらいます。それがイヤならこんなサイトには来ないほうがお互いのためです。

■文章はまだまだ続くのですが、この後は、ご自分で「J2ダイジェスト」に入ってお読みください。「読書会BBS」が始まった場合、管理人は私がやります。各スレッドで意見を立てた人にも、もちろん、自分の意見と名前(ハンドル・ネーム)には責任を持ってもらいますが、最終的な判断は私が行うつもりです。「読書会BBS」立ち上げ直前の時を迎えていますので、この「猛毒」氏の意見にはたいへん教えられるところがありました。ありがとうございます。さあ、「本の話」をしよう! そして、ちょっと遅れましたが、浦和レッズ、昇格おめでとう! <新谷>