スワン社HP Northern songs 2000年10月15日号

 
 
拉致の証拠はあるのか?
《影とのたたかい・第1回》
 
新谷 保人
 

 前回紹介した「北朝鮮に拉致された日本人を救出する北海道の会」の集まり(2000年7月7日/札幌「かでる2・6」)で配られた「拉致問題についての参考書籍」リスト。元のリストには出版年が入っておらず、代わりに本の値段が入っていました。しかし、これでは使いにくいので、出版年を入れ、さらに発行年順に並べ換えたものを掲載します。(注1)
 

 拉致問題についての参考書籍

 □ 金正日の拉致指令 石高健次著 朝日新聞社 1996.10 (朝日文庫版は1999年刊)
 □
これでもシラをきるのか北朝鮮 石高健次著 光文社 1997.11
 □
スーパーKを追え! 高世仁著 旬報社 1997.11
 □
北朝鮮拉致工作員 安明進著 徳間書店 1998.3
 □
金正日の核弾頭 宮崎正弘著 徳間書店 1998.7
 □
宿命−「よど号」亡命者たちの秘密工作 高沢皓司著 新潮社 1998.8
 □
闇に挑む! 西岡力著 徳間書店 1998.9 (徳間文庫)
 □
北朝鮮が戦争を起こす5つの証拠 佐藤勝巳[ほか]著 KKベストセラーズ 1998.12
 □
飢餓とミサイル 西岡力著 草思社 1998.12
 □
金正日への宣戦布告 黄長■回顧録 文芸春秋 1999.2
 □
娘をかえせ息子をかえせ 高世仁著 旬報社 1999.4
 □ 狂犬におびえるな 続・金正日への宣戦布告 黄長■著 文芸春秋 2000.1

 
 

 

1.横田めぐみさん

 リストをみると一目瞭然ですが、「拉致問題」を始めとする北朝鮮関係の書籍は1997年を境に爆発的に増えています。1997年から現在までの間には、深刻化する飢餓報道や核・ミサイル開発、1998年8月の「テポドン」発射などの出来事があり、そういう事象に触発されて北朝鮮や金正日に対する言論や出版点数が増えている面もあるのですが、ただ、そういう論調を注意深く追って見て行くと、明らかに「1997年」以前と以後では論調がちがう。
 1996年までは確かに「北朝鮮」へのシンパシィみたいな感情が存在していました。例えば「金賢姫はKCIAのデッチあげだ」というような。「金賢姫」がデッチあげならば、彼女の日本人化教育担当の「李恩恵」もデッチあげ、ましてや、北朝鮮が「李恩恵」を日本から拉致してきた…などという荒唐無稽な話はとうてい信じがたいといった理屈です。
 岩波新書『韓国からの通信』に代表されるような韓国の「軍事政権」イメージ、「KCIA」イメージがまだ生きている時代ですし、現役を退いたとはいえ、映画『キューポラのある街』に現れたような「在日」「祖国(=北朝鮮)」イメージもまだまだ一般の日本人の中には残っていたと記憶しています。(普通の日本人には、「北朝鮮」はそれほど日常切実なテーマではありませんから、例えば学校の社会科教師なんかでも、学生時代に読んだ50〜60年代の「韓国・北朝鮮」知識のまま現在に至っているということは充分ありうるのです。)
 また当時、マスコミが「金賢姫−李恩恵」をワイドショー・レベルで面白おかしくとりあげたことや、「李恩恵」の家族が名乗り出なかったこと
(注2)などが災いして、「KCIAやらせ説」に変な説得力を与えてしまった面も否定できません。

 しかし、このような「北朝鮮」イメージも「1997年」を境に変わって行きます。ボロボロと一般の人の意識の中からも「貧しくとも清く美しい北朝鮮」といった作られたイメージが崩れ落ちて行きました。どうしてこのような変化が起こったのか。それは、1997年の2月3日、「横田めぐみさん」の拉致事件が新聞・テレビなどで実名報道されるところとなったからです。この日からは、私たちは、「アウンサン廟爆破事件」「大韓航空機爆破テロ事件」などの時とはちがう、日本の問題として「北朝鮮」を考えなければならないポジションに置かれることとなりました。この日からは、私たちは、日本国民としての自分の生命・財産の維持に直接関係する人権問題として「北朝鮮」を考えなければならなくなったのです。

産経新聞1997年2月3日(月)朝刊 「北朝鮮、20年前に13歳少女を拉致…」
『AERA』1997年2月10日号(No.6) (朝日新聞社) ※発売日は2月3日
 「北朝鮮で生きている」…20年前、新潟で失踪の少女

 同じ日、国会の衆議院予算委員会で、西村真悟議員(当時、新進党)が「北朝鮮工作組織による日本人誘拐拉致に関する質問趣意書」を提出し、「横田めぐみ」の実名を出して政府にただしています。(この質疑は、後の5月の政府の公式見解「北朝鮮による日本人拉致疑惑者は、横田めぐみを含む<7件10人>」を引き出すことにつながる。)

「二〇年行方不明の娘よ」横田滋 婦人公論1997年5月号(中央公論社)
「めぐみよ、北朝鮮に拉致されたわが娘よ」横田滋 文芸春秋1997年5月号(文芸春秋)

 その後、被害者の家族の手記や当時の警察関係者の証言が堰を切ったように続きます。「李恩恵」以来、噂というか都市伝説のような形でひそひそと語られていた「北朝鮮の誘拐」話(注3)が、やっぱり本当のことだったんだとわかった時の衝撃はとてつもなく大きかった。まして、よりにもよって「13歳の女子中学生」なんて話はとんでもない話ではありました。
 この時点で、横田めぐみさんのご両親が実名を出して訴えたことの意味はとてつもなく大きい意味があったのです。その勇気(と苦渋の決断)によって、この時点までは存在していた国民の「北朝鮮の拉致」に関する判断は大きく変わりました。「拉致疑惑」ではなく、「拉致問題」になったのです。少なくとも、私の認識としてはそうです。

 
 

2.証拠@

 「拉致の証拠は?」と問われれば、人によって挙げる事例はさまざまでしょう。でも、いちばん素朴に考えて、私はこれが「証拠」だとまずは考えます。(北朝鮮『労働新聞』風の言説を真似すれば)いったい何の理由があって、普通の新潟市民がわが子の誘拐犯を「北朝鮮」と名指しで示す必要があるのでしょうか? そうすることによって、めぐみさんのご両親はなにか得することでもあるのでしょうか? 「北朝鮮」の名を挙げれば、なにかしら「事故死」や「変質者(今年の新潟の少女監禁事件のような)」の可能性を思うより、被害家族は心の平安でも得られるとでもいうのでしょうか?

 どこかの政治勢力がこれを利用したのだとしても不可解な点が多すぎます。事実の出し方が今までと全然ちがうから。「横田さん」以前の行方不明事件(拉致事件)、例えば「寺越武志さん」の場合でも、北朝鮮生存を知らせ、家族の面会の労をとったのは当時の日本社会党の代議士でした。しかし、その代議士は「なぜ寺越武志さんが北朝鮮にいるのか」について北朝鮮政府に詰めよったことなど一度もありません。代議士個人としても、日本社会党としても、調査や帰国運動を国会や市民運動で訴えたことなど一度もないのです。そんな腰抜け左翼が今さら何の必要があって「横田めぐみさん」の事件を「デッチあげ」なければならないのでしょう。
 右翼・保守勢力のデッチあげという解釈も一見もっともらしい気がしますけれど、この場合でも、その後の政治勢力の動きがその解釈を裏切っています。先の南北会談でも明らかになったように、韓国政府も日本の政府与党もやっていることは一貫して北朝鮮(=金正日政権)の「現状肯定」「甘やかし」政策であって、反共政策ではありません。「コメ」のお礼が「テポドン」ミサイルであっても、それでもまだ「コメ」を差し上げようかと言う連中が、どうして「13歳の女子中学生誘拐」のような、国民に衝撃を与えることがわかりきっている事件をあえて「デッチあげ」なければならないのでしょうか。
 右も左も、この拉致問題のようなハードな問題は敬遠したいというのが本音だと思います。これを解決するには「第二次朝鮮戦争」を行うのと同じくらいの経済的・政治的リスクを背負うかもしれないからです。現在の日本のどこの政治勢力でも荷が重すぎる…というのが正直なところではないでしょうか。政治家は普通そういう正義の問題なんかには手を出しません。金が絡めば、話は別ですが。(だから拉致問題の解決がどんどんちがう方向に歪んで現在に至っているわけです…)
 それでも手を出すのは極右・極左のようなよほどの馬鹿ということになってきますが、そこまで名推理が行き着くと論理自体が破綻してしまいます。いったい、極右や「よど号」の連中と「横田めぐみさん」のご両親と何の関係があるんだ…ということになりますから。そんなところにまで想像力を拡げるほど国民が愚かでありません。国民は国際スパイ小説を読みますけれど、だからといって「国会中継」の中に「007」や「ゴルゴ13」を読み込んだりはしないのです。国民の直感というものはもっとストレートに真相にたどり着くものと私は考えます。

 
 

3.『金正日の拉致指令』

 「横田めぐみ」さんの名前が浮上してくるまでの背景には、それまでのさまざまな「北朝鮮」追求の流れが絡み合っています。ある日北朝鮮の亡命スパイが「横田めぐみ」さんのことを証言したとか、そういう単純な話ではないのです。

 まず、1996年10月に出版された『金正日の拉致指令』。その著者の石高健次氏に代表される、北朝鮮工作員の日本潜入〜日本人拉致の実態を追求・解明する流れがありました。
 『金正日の拉致指令』の前半部分は「辛光洙(シン・ガンス)」事件の追求レポートです。これは、北朝鮮工作員「辛光洙」が日本に非合法に潜入し、日本人「原敕晃(はらただあき)」さんを宮崎市青島海岸より北朝鮮に拉致した事件。その後、辛光洙は原さんのパスポートを使い、日本人「原敕晃」になりすまして日本から韓国へ入国、工作活動中に韓国国家安全企画部によって1985年6月に逮捕されました。韓国国内の裁判記録でも「原敕晃」さんの拉致を自白しています。
(注4)
 『金正日の拉致指令』の後半部分は、何故このような「日本人拉致」が行われるのか?の解明にあてられています。1950年代末期の在日朝鮮人「帰国運動」まで解明を遡った力作です。私は、朝鮮戦争以来の北朝鮮−韓国−日本のなにかしら不透明な(不快な、不安な)関係が何に由来するのか、この本のおかげでようやく解析の仕方を教えてもらったような気がします。
 また、この本の特徴的なところですが、この本の中では「横田めぐみ」さんの事件についてはふれられていないということは大事なところです。本を読んでいない人の中には、この本によって「横田めぐみ」さんの事件が大々的に報じられ、「13歳の女子中学生」といった衝撃的な事例を使うことによって今の国民運動をあおった…と誤解している人がいるかもしれません。本を読まないで知ったかぶりをする、そういう誤解や思いこみが、例えば「どこかの政治勢力のやらせ」説や「作り話」説の原因となっているのですが、それはちがいます。この本では一言も「横田めぐみ」という名は出てこないのです。

 
 

4.「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」

「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」石高健次 現代コリア1996年10月号

 石高健次氏は『金正日の拉致指令』を出版した後、その取材ノートを雑誌『現代コリア』に発表します。ここで初めて、北朝鮮に拉致された「13歳の女子中学生」という事例が登場するのです。しかし、この時点でも、まだ「横田めぐみ」さんの名は出てきません。「新潟」といった名も出てきません。この時点では、あくまでも、韓国へ亡命した北朝鮮の工作員A(Aとするのは、後述する工作員B「安明進」とは別の人間だからです)からもたらされた証言情報、「日本の海岸から拉致された13歳の女子中学生」という段階にとどまっています。

 この「女子中学生」が「横田めぐみ」さんであることが判明するのが、同年の12月14日です。『現代コリア』を発行する現代コリア研究所の所長である佐藤勝巳氏が新潟市内の公務員宿舎で北朝鮮情勢についての講演を行いました。

 講演の後、同じ会館で懇親会が開かれた。この席で、佐藤は「うちの雑誌にこんな記事が載っている」と周囲に(石高健次氏の)記事の概要を話した。その瞬間だった。
「それはめぐみちゃんのことだ!」
「めぐみちゃんは生きていたのか!」
と声が上がったのである。
(石高健次著『これでもシラを切るのか北朝鮮』より)

 聴衆の中にいた新潟県警の警察官たちは、二十年前の少女行方不明事件を忘れてはいなかったのです。そして、ここからの流れが、冒頭の「1997年2月3日」につながってくるわけです。1月23日には、石高健次氏が当時川崎市に住んでいた横田夫妻にこの一報をもって赴きました。
 石高氏(朝日放送報道部)、横田夫妻とも、これを一過性のスクープとして騒ぎ立てるつもりは毛頭ありませんでした。最低限、その情報をもたらした工作員Aに直接会って、詳細に真偽を確認しなければ何も始まらないということは誰でも考える筋道でしょう。ただ、この時点で、韓国政府側は、何故か、この工作員Aの公表をしぶります。
(注5)
 工作員Aへの面会要請が進展しない状態のまま、一週間後の2月に入って、事態は思わぬ方向から急展開します。スクープを待ちきれないマスコミや国会議員が動き出してしまったのです。それが「1997年2月3日」。
 
 

5.『スーパーKを追え!』

 2月3日の同日午後、成田空港の本屋で、高世仁氏は、この日の『産経新聞』と『アエラ』2月10日号(発売日は2月3日)を買っていました。その足で、テレビ朝日『サンデープロジェクト』放送用の「ニセドル札事件」取材のためソウルに向かいます。2月4日、ソウルで、北朝鮮からの亡命者「安明進(あん・みょんじん)」にインタビューをするためでした。

 亡命者のインタビューには、安企部の職員が同席するきまりになっている。私は同席した職員に、「ニセドル札事件」とは別の問題について最初に質問したいと告げて、成田空港で買い込んだ新聞と雑誌の記事をテーブルに置いた。「この少女が、北朝鮮に拉致された疑いが出てきたのです。何か知っていることはありませんか。」
 記事に掲載された何枚かのめぐみの写真を見て、しばらく見比べていた安明進は、目を下に落としたまま、ボソッとした声で答えた。
「この女性には見覚えがあります」。
(高世仁著『娘をかえせ息子をかえせ』より)

 それぞれの人が、それぞれの立場から追求してきた「北朝鮮」が、ついにひとつの像となって立ち現れた最初の瞬間です。

 高世仁氏のルートは、1996年3月にタイで起こった「ニセドル札(スーパーK)事件」からの「北朝鮮」追求でした。これは、当時、カンボジアとベトナムの国境で、ある男が拘束されたことに端を発します。容疑はタイでのニセドル札使用。この男とは、1970年に日航機「よど号」をハイジャックして平壌へと渡った赤軍派のひとり、「田中義三(たなか・よしみ)」です。スーパーKの偽造については、北朝鮮の国家がらみの関与が疑われていました。また、東南アジアを使ったマネー・ロンダリングの実行部隊には、ついに北朝鮮の工作員にまで落ちぶれてしまった「よど号の連中」の姿が確認されたことになります。
 高世氏が安明進を知ったのは、この「ニセドル札事件」取材の過程でです。安明進は、かつて北朝鮮で工作員のための訓練を受けていた時、その労働党中央直属のスパイ養成所である「金正日政治軍事大学」で、この「田中義三」を見たことがあるという。再度、その部分をきちんと安明進にインタビューしたいということでソウルに飛んだのが、この2月3日であったわけです。

 
 

6.安明進

 ここまで経過を書いてきて、非常に不思議な気持ちになります。
 先の項で、私は、横田夫妻が娘さんの実名報道に踏み切ったことを「勇気」と書きましたが、実際には、かなりの苦渋の決断を、マスコミやテレビ・ジャーナリズムから強いられたことは想像に難くないところです。国会で質疑を行った議員だって、100%の義侠心だけで行っているわけではないでしょう。あるいは、20年間堪え忍んでいたことが、「実名」を出すことによって、一挙に「証拠隠滅」のような最悪の結果をもたらすことになるかもしれない。「横田めぐみ」さんがこの世から本当に行方不明になってしまっても、テレビのキャスターや国会議員はなんら傷つくことはないだろうけれど、横田夫妻にとっては本当にとりかえしのつかないことになってしまう。
 なんと残酷な仕打ちなのだろうと思う。そうは思うけれど、20年間堪え忍んできた人たちに「21年目も堪え忍べばよいのだ」とは私は口が裂けても言えない。
(注6)
 辛いことだけれど、「実名」は突き進まなければならない道だったのだろう。私たちは、時として、他人にこんな残酷なことをも強いたり強いられたりする存在であることをただただ肝に銘じるばかりです。
 マスコミが取り上げなければ、国会議員が取り上げなければ、2月3日の『産経新聞』はなかっただろう。高世仁氏が成田空港で『産経新聞』を手にすることもなかっただろう。2月4日、安明進は淡々と北朝鮮情報を語っていたことだろう。そして、私たちは、北朝鮮に生まれた一青年の来歴を知ることもなかっただろう。

 安明進の『北朝鮮拉致工作員』は、出版されるやいなや「日本人拉致」の有力な証拠としての面ばかりが強調されています。たしかに、金正日政治軍事大学の卒業生であり、その先輩に金賢姫などを持つ彼でなければできない証言に溢れていて、この本を読むことによって、私たちは、例えば金賢姫の本に書かれていた不思議な一節、

 また、拉致された人のなかには、まだ高等学校に通っていた少女もいたという。その女生徒は金持ちの娘だったのか、自分のものを洗濯することさえできなかったという。
(『忘れられない女−李恩恵先生との二十ヶ月』金賢姫)

といったような記述が、今にして思えば「ああ、これは横田めぐみさんだったんだ…」ということに気がつくわけです。(注7) 第一級の証拠資料であることは間違いない。

 ただ、私は、この本を、単に拉致事件の証拠資料として読むのは大変もったいないとも感じているのです。
 2月4日のインタビューでも、安明進は、本名も顔もテレビに出さないことを希望していました。これは、もちろん、北朝鮮に残っている家族に及ぶ影響(収容所送り→死亡)を考えての行動です。横田夫妻の会見要求も、最初は、頑として拒否していました。

 「そんなこと、とてもできません。私自身は直接手を下していないとはいえ、拉致実行犯の側に身を置いていた人間です。どの面下げて彼女の両親に会えますか」。
(高世仁著『娘をかえせ息子をかえせ』より)

 安明進の証言の信憑性を云々する前に、ひとりの人間としての、その感情の正常さを見てほしいと私は切に願っています。

 私はそういう彼女の両親に会うのが怖くて、それまで何回も対面を拒んできたのだ。私は拉致の当事者ではないが、同じ組織の一員だった。その私が会ってしゃべることは罪であると思ったからだ。
(『北朝鮮拉致工作員』安明進)

 亡命者たちは必ずどこかでこの過程をくぐらなければならないのです。北朝鮮の一民衆であった時、何を思うこともなく行っていた「日本からの帰国者家族」への仕打ち、日常生活の中で当たり前のことのように存在していた「公開処刑」(←「火あぶりの刑」なんてものでさえまだ存在している!)の風景、そういう蘇るひとつひとつの記憶が、韓国に渡ってきた亡命者たちを呵みます。この《罪》の意識にうち勝って、なおかつ正気を保った人間であることは、私たちが想像する以上に過酷な作業なのではないでしょうか。
 私はこの本を初めて読んだ時、自分が、あまりにも今まで、金正日とその手下たちとか、日朝友好議員とか、よど号とか、そういう人間の愚かさのようなものばかり見てきたために、自分の北朝鮮観ばかりでなく、人間観そのものがかなり歪んできていたことにハッと気づかされたりもしました。
 「安明進」は解毒剤です。行方不明の娘の手がかりのためなら玄界灘だろうと何だろうと渡って来る親の気持ちの前に、結局、最後は、横田夫妻に会わざるを得なかった安明進の決心。それがどうしても必要なことだから、(北朝鮮の家族の危険はわかっていても)顔や実名を公表し、自分が『北朝鮮拉致工作員』であったことを正直に書いて行く安明進の姿は、私には「朝鮮人」とか「日本人」といった有り様を越えた、最後の「普通の人間」の有り様を思わせます。会ったことはないけれど、そして、これからも会うことはないだろうけれど、私は、どこか深いところでは安明進と連帯していたい。

 思いおこせば、金賢姫に「日本語」や「日本人」を教えたのは李恩恵でした。
 『北朝鮮拉致工作員』には、金正日が、金賢姫の『いま、女として』の一節を読んで、烈火のごとく怒り狂う様が描かれています。それは、金賢姫が自白を始めたきっかけが、市内見物で「ソウルのミョンドン市場の賑わい」を目撃し、市場で売られている品物の豊富さを目の当たりにして、韓国の経済的勝利や北朝鮮当局のウソを確信したが故であった…という有名な一節です。怒った金正日は、韓国に潜入した工作員が動揺しないように、金正日政治軍事大学内にソウルの街並みをそっくり真似たレプリカの「ソウル市街」を作り、拉致してきた韓国人をその「市街」に配置したりしました。
 しかし、そうした工作員教育そのものが、また新たな「金賢姫」を生み出すのです。安明進は、このレプリカ「ソウル」を知ることにいたって、韓国の「繁栄と自由」を確信したのです。
 彼は韓国へ亡命した。そして、今、横田恵さんのご両親に前に立っている。私には、「安明進」や「金賢姫」の存在それ自体が、遠い横田めぐみさんや李恩恵からの、20年の歳月をかけて届けられた手紙なのではないかと感じることがあります。まだ生きている…というメッセージに思えます。

 
 

 

(注1) 『北朝鮮日本人拉致の背景』佐藤勝巳著<現代コリア>は書誌事項が不明なので除外します。これはパンフレットか何かでしょうか。

(注2) 韓国報道などで「李恩恵」の似顔絵や日本人名までとっくに発表されていたのに、なぜ「李恩恵」の家族は名乗り出なかったのか、今でも不思議です。「李恩恵」は埼玉県の人です。親はもちろん、「李恩恵」が卒業した学校の担任教師まで、行方不明の事実を知っていた人は多いと考えるのですが、何故どこからも言及がなかったのでしょう。当時、私は埼玉県の公務員で学校関係にも近いところにいましたが、このことについて(噂レベルにせよ)声があがったなどということは皆無でした。

(注3) オウムの事件が発覚するまで、私は「坂本弁護士一家失踪事件」は「北朝鮮」の仕業ではないか?と思っていました。新聞報道がなくとも、口コミレベルで「誘拐」の話はいろいろなところから入っていたのです。特に、1978年7月から8月にかけて連続して起こった男女アベックの拉致事件については、知る人は予想外に多い。その内の1件には、拉致に失敗した事例もあり、現実に難を逃れたアベックもまだ健在です。また、連続事件の被害者アベックの中には創価学会の会員もおり、そういう学会員のルートでも情報が流れる。私が日本人拉致に関心を持ち始めたのは、その被害アベックのひとりに、私の母校でもある中央大学の学生がおり、彼が帰省中、その町の図書館で学校のレポートを仕上げたまま、突然不可解な行方不明になった…というニュースがきっかけでした。当時、その町の図書館にも警察の捜査協力依頼が来て、図書館利用者のプライバシー問題とも絡み、図書館界では少しばかり注目が集まった事件です。

(注4) 2000年6月の南北会談によって、8月には、韓国国内の「北朝鮮スパイ・非転向長期囚」が北朝鮮へ送還されましたが、この中に「辛光洙」の名前も入っていました。日本・韓国の拉致被害家族や日本警察などの「日本への辛光洙引き渡し要求」をふりきる形で、南北政府の見事な連携で「辛光洙」をまんまと北朝鮮に帰してしまったのは記憶に新しいところです。(辛光洙は北に帰って「民族英雄」になったそうだけれど、もう来年には証拠「隠滅」させられているでしょうね。南北統一の馬鹿騒ぎの影で、日本や韓国の報道カメラの注目がなくなったら、北朝鮮が辛光洙に何をするか、少しでも金正日や北朝鮮の本を読んだことがある人なら誰だって知っていることです。)

(注5) この工作員Aは、2000年10月の現在に至っても、まだ表に出てきません。どういう理由によるものかわかりませんが、この事実は、「拉致疑惑」を唯一「疑惑」の段階にとどめる根拠になっていると私には映ります。(バカな日朝友好議員たちは本を読まないからまだ気づいていませんけれど…)一日も早く「拉致」の決定的・最終的な証拠としての登場を願います。現在、韓国は、金大中がその正体を現して金正日と手を結んだ状態ですので、北からの亡命者や離散家族・拉致被害者(家族)に対しては、かなり強い口封じの圧力がかかっていると聞いています。なんとしても生き残って、いつか表に出てきてほしい。私は、もしも朝鮮と日本の人たちが歴史的和解をすることがあるのならば、その契機は、金や謝罪じゃない、この「拉致問題解決」「被害者救出」のような努力を通じての人間の連帯しかないと思っています。

(注6) 食料支援から入ろうが、戦争の謝罪から入ろうが、「国交正常化」〜「戦争賠償金(経済援助)」の道がもたらすものは、結局、拉致された人たちの見殺しであろう。一時的にせよ、永久的にせよ、「拉致問題の棚上げ」を日本の方から匂わせれば、このメッセージへの理解は、人質の身代金交渉に無条件で応じた…ということではないだろうか。身代金をまんまと手に入れた誘拐犯が次に考えることはわかりきっていると思います。

(注7) こういった整合性の前には、北朝鮮『労働新聞』や日本の左翼・朝鮮総連が主張する「韓国安企部デッチ上げ」説などほとんど戯言でしょう。それでもまだ、これを安企部のつくり話なのだと主張したいのなら、そういう人は、彼我の学力の差をもっと痛感すべきだと思いますね。安企部が「ノーベル文学賞」(←平和賞ではありません)くらいの偏差値だとしたら、片方は、金正日と同じ「中卒」程度の作文なのだということに。辛光洙のことを「われわれや総連とは何の関係もない人々である」「南朝鮮のかいらい安全企画部が反共和国、反総連の口実をねつ造するために(南朝鮮が)仕組んだ計画的な謀略事件」と言っていたのは当の『労働新聞』でした。それで、今回の「民族英雄」ですからね。万引き小学生の口答えじゃないんだから…もっと勉強しろと言いたい。黄長■が亡命した直後にも、「これは安企部による《拉致》である」(←本当に《拉致》という言葉を使った)と書いたのも『労働新聞』でした。語るに落ちるとはまさにこのことだ…
 
 

 
2000年10月15日号 あとがき

■次回も「拉致の証拠はあるのか?」を続けます。あと、最近、南北宥和ムードを笠に着た、日本の政治家・学者たちのあまりにもひどい発言が目につきますので、関連して「食料支援は行うべきだ」にもふれたいと考えています。
Je suis tres triste de regarder le match Shinohara vs Douillet. et ai perdu le respect pour votre pays qui accepte avec plaisir le jugement de l'arbitre completement faux. (私は篠原対ドゥイエの試合を見て残念に思っていますし、完全にに誤った判定を喜んで受け入れるあなたの国に対する敬意も失ってしまいました。)
■ちょっと前の話題になりますが、オリンピック柔道の篠原選手について。決勝戦にふさわしい最高に美しい技が決まった!と思ったのに…あんなことになるなんて。毎日稽古して、身体も作り、精神も鍛えて、強くなった最後の最後であんな結末が待っているんだとしたら、小さい子どもは誰も「柔道やりたい!」なんて言わんだろうよ…そう、思いましたです。
■試合が終わった瞬間から、Yahoo!の掲示板などに抗議のメールが殺到し始めました。私も、試合後、「どこかで今の試合のことコメントしていないかな…」とインターネットに入っていった一人ですが、その試合後15分くらいの時点で、すでにメール数は500件を越えていました。その後も、1時間くらいの時点で簡単に3000件を突破して行きます。最新メールを1件読んでいる間に、5〜6件のメールが飛び込んでくる。読んでも読んでも追いつかない掲示板というものを初めて目にしました。
■内容もどんどんエスカレート。上に引用したフランス語文章も、
 >国際柔道連盟に抗議する!
 >フランスの柔道連盟に抗議する!
 >日本語の抗議文で相手に届くのか?
 >翻訳サイトはこちらに
 >トルシエの通訳の人に頼もう!
 >私はフランス大使館に送りました…
 >私の作ったフランス語抗議文です
といった流れの中で拾ったメールです。「あの審判はニュージーランド人らしい」→「ニューランド政府に抗議する!」→「明日、ニュージーランド大使館前でデモをします」→「国交を断絶せよ!」という調子ですからね。ちょっと怖かった…
■そうした「暴動の夜」「狂乱の一夜」が明けて、朝の新聞を見た時には、もっとビックリしました。「ミスジャッジ」、その一言なんですもん。
■そーですねー、そう言われてみれば、なんか、戦争の初期にはそんな事件もあったかなぁ…
昨夜半からの、インターネットの中の「日本」で起こった、シドニー暴動、ニュージランド大使館の焼き討ち、フランス連合軍との世界大戦勃発… そこから、朝ご飯の匂いのする、テーブルの上に朝刊が置いてある、NHKの7時のニュースがついている朝の「日本」に帰ってきた身には、これから職場に行かなければならないのがとっても辛かったです。<新谷>