Northern songs
 
2000年8月27日号
 
 

 
 
児童文学の<廃屋>
《ヤングアダルト・ハーフライフ大会A/季刊『SWAN』第4号(1989.1)》
 
新谷 保人
 

 久しぶりにタウンゼンドの作品『愛ときどき曇り』が出版されて喜んでいたら、次々と出て来るわ出て来るわ…いったいこれはどうしたことなのだろう。
 1970年代の作品は、ほとんど未訳。あの名作『アーノルドのはげしい夏』や『海賊の島』でさえ、岩波書店は絶版にしたままという状態が続いている中で、片方で、1980年の作品だけがこうも続々と出て来るのは、ファンとしては痛し痒しです。
 『ひとりぼっち』も『ハルシオン島のひみつ』もかなり出来の良い作品であるだけに、もっとタウンゼンドの作品を…となった時、現状では、きっと唯一発行されている70年代の作品『未知の来訪者』を手にとることになると思うのです。装丁も美しいしね…
 この事態について、控え目にではあるが、注意警報を鳴らしたい。タウンゼンドは、本屋に走ってはいけない…図書館に走りましょう。そして、『未知の来訪者』は難度Aですから、うかつに読んではいけないの。
 「控え目に」語るのは、これから語ることは、私のオリジナルな発見ではないから…知ってる人は、昔から知ってることなのね。

 

 少し長い引用になりますが、書き写します。『未知の来訪者』のラスト、来訪者たちが未来へ帰ってゆく場面です。

 三人の背後で、煉瓦の建物が突然くずれ落ちた。たった今まであったのに、あっという間に消えてなくなった。瓦礫の山が地面に残った。ほんのちょっと震動したかと思うと、運河の岸辺は草木におおわれた。そのとき、声がきこえてきた。来訪者たちがケンブリッジに到着したときにきいた、あのてきぱきした女性の声だった。
 「だめ!だめ!」と、その声が命令した。「ちょっともどりなさい!」
 草木が消え、建物がさっとあらわれた。ところが、それは新しくてさほど荒れた様子のないものだった。運河会社の名前がわきに大きくペンキで書いてあるのが見えた。
 「もどりすぎ!」女性の声がうんざりした調子でいった。「ちょっと進んで、ゆっくりと。キャサリン、集中しなさい! あなた、きいているの?集中するんです!」
<未知の来訪者>p293-294

 来訪者たちは意識の集中によって時間移動を可能にしています。彼女たちの集中の度合によって、同じ場で時間がどんどん変化してゆくわけですね。
 今「ちょっともどりなさい!」と未来の女性の声から注意されましたね。で、意識集中して過去へもどる。そして、今度は「もどりすぎ!」てしまった…
 何処へ?

 

 <ジャングル街>へ… 
 このラストでタウンゼンドが見せる不思議な技。タイムトラベルという小説の設定を借りて、自らの小説の来歴をもさりげなく過去の方向へずらしてみせた…とでも言えましょうか。

 また、見えないガラスでもふるえるように大気が震動した。建物がまたみすぼらしくなり、会社の名も消えた。あの切妻壁に切ってある中空のドアから鉄の階段が地面まで通じていた。小柄でたいへん年をとったこぎれいな青い背広を着た男が、その階段をおりてくるところだった。だが、またちょっと大気がゆれると老人は消え、階段もなくなった。つんつるてんのみすぼらしい服を着た金髪で巻き毛の小さな女の子が、開いたドアのところに立っていた。
 「ジーンだ!」ハロルド・トムソンがいった。「妹のジーンだ! ジーンの小さいときに生き写しだよ。十五年前、ぼくたちはしばらくあそこで暮したことがある。まるで昔にかえったようだ。」
 「かえっているんです!」と、ぼくがいった。
 三人の来訪者たちは、なにも見ずなにもきいていないようだった。三人とも、ひたすら精神を集中して、しっかりとだきあっていた。
 「もう一度!」と、あのてきぱきした女性の声。大気がふるえ、女の子は姿を消し、ドアはしまり、建物全体がもっと荒廃した感じになった。黒いベレー帽をかぶり、小さなスーツケースをもったやせた小男が、空き地を建物に向かって歩いてくるのが見えた。奇妙な、冷酷そうな顔の男で、見ているうちに、ぼくはわけもなく鳥肌だってしまった。だが、男が建物に近づかないうちに、また大気がふるえて男は消え、今度は二人の人間がたって、同じドアを思案顔に見上げていた。ぼくとおなじ年頃のやせて背の高い若者とふとった金髪の娘で、二人はおたがいの腰に手をかけてならんで立っていた。
 「キャサリン、どうか精神集中をしてください!」………
<未知の来訪者>p294-295

 「青い背広を着た」最初の老人は『海賊の島』のカイトじいさん…
 ふたりめの「巻毛の小さな女の子」は、ハロルド・トムソンが「ジーンだ!」といっているのだから、これは『ぼくらのジャングル街』のジーンですね。
 ベレー帽の男…
ここが読み取れると味わいがガラリと変わってきます。これ、『アーノルドのはげしい夏』の敵役、もう一人のアーノルドこと、ソニー・スミスなんですね。

 『未知の来訪者』は、発行された時にすぐに読んでいるのですが、それほど大した作品とは思いませんでした。むしろ、『アーノルドのはげしい夏』という傑作を書いた作家が、どうしてこんな中途半端なSFを書かなければならないのか…と思ったくらいです。
 岩波の「あたらしい文学」シリーズに入ったこともあって、意外と人目につきやすく、最初にこの作品を手にとった人が、タウンゼンドってこんなものなの…と思われると困るなという感じ。まあ、事情がわかってくると、これだけ味わいが変わってくる作品というのも珍しいのですが。

 今回、『ひとりぼっち』に触発されて、タウンゼンド論を書こうと全作品を読み返したんですね。で、『アーノルドのはげしい夏』を読んでいたら「あら…」ということになった。
 『アーノルドのはげしい夏』で、ソニーの素性を探ろうとして、ピーターがソニーを追跡する場面を読んでいた時です。なんとソニーのゆく街は<コブチェスター>なんですね。降りる駅は<ピータールー駅>、バスで<ウィガン道路>を越えて、<カメリア・ヒル><ハイビスカス通り><運河通り>と歩いてゆくではないか。もう、ここまで読んで来たら、出てくるものはあれしかない…

………道をくだりきった、焼け跡のような空き地の向こう側には、あたりの新開発と正反対のものがあった。運河沿いに、一列だけ、古い家がならび、その後ろに鉄橋の柱がそびえていた。
<アーノルドのはげしい夏>p159

 わたしの場合は『アーノルドのはげしい夏』の再々読あたりでやっと気がついた…
 で、最近の『ひとりぼっち』に読みかえりますが、ダンとオリーブが隠れていた建物もやはりこの<廃屋>なのですね。処女作の『ジャングル街』シリーズから、すでに20年の月日が流れているにもかかわらず、まだ書き込まれなければならない<廃屋>というのは、じつに、ただものではない。
(注1)
 で、きわめつけは、この『未知の来訪者』のこの過所。深く恥入ってしまいました。いったい、わたしは『未知の来訪者』の何を読んでいたんだろう…と。

(今、原稿を書きながらリバプール・サウンズのCDをかけっぱなしにしているんだけど、ちょうどこんな感じ。ひとつひとつの音の輪郭がクリアで、昔よりはるかに自分背後に1960年のリバプールを感じるんだけれど、そうなっちゃうと、今度は1960年代のわたしのトランジスタ・ラジオから流れてきた音、あれは何だったんだと…)
 

 ハロルドが「十五年前、ぼくたちはしばらくあそこで暮らしたことがある」と言っていますね。
 『ぼくらのジャングル街』の時、ハロルド8歳、ジーン6歳。ちなみに、ケビン13歳、サンドラ12歳、ディック14歳です。トニー(アンソニー)・ボイドはまだ牧師補、シーラ(本ではシェイラとなっている)・ウッドローはケビンたちの学校の教師をしています。
 『さよならジャングル街』は、ケビン15歳だから、『ぼくらのジャングル街』から二年後の事件であることが判る。その二年の間にトニーとシーラは結婚し、本のラスト部分でふたりの赤ちゃんも登場しますね。

………トニーはセント・ジュード教会にもどってきてるんだ。古い牧師がやめたんで、いまはトニーが教区牧師さ。あの人をもどして、はやいとこ牧師にするには、前がつかえてたんだな!
<さよならジャングル街>p131

 あるいは、この「古い牧師」というのが『ひとりぼっち』のパーシィ・パーヴィスなのかな?とも考えたのですけれど、ちょっと教会の場所がちがう。やはり、『海賊の島』のハリー・ウォレス牧師でしょうね。

 ジャングル街ストーリーの中では一番古い年代を描いた作品が『海賊の島』です。(注2)
 ここに出てくるトニー・ボイドは17歳の神学生、シーラ・ウッドローは小説の中で9歳の誕生日を迎えることになります。
 <屠場>と呼ばれるジャングル街でも最低辺のスラムに住むシーラたち。シーラ、ロッド・リッジウェイ、そして、なんと!若き日のウォルター・トムソンがここで登場します。
 ウォルターは、『ぼくらの…』と『さよならジャングル街』では敵役の準主役でも言ってもいい人ですね。ハロルドとジーンの実の父親、兄のクリフのこどもケビンとサンドラをひきとって面倒を見ている。その彼がまだ独り者だった時代が『海賊の島』です。

 「元気をお出しなさいよ。」と、ベティがいった。「とにかく、頭の上に屋根があるんだから。それ以上は夢で楽しむほかないわ。ときどきわたしがするみたいにね。いなかのコテッジ、ジェニーも元気になってる、それから、たぶん子どもがあとふたりね………それだけいればたくさんだと思うけど。」
 「たくさんだとも!」と、クリフォードがいった。
 「男の子ひとりと、女の子がもうひとり。わたしがほしいのは、ふたり。これから生まれるふたりをなんてよぶか、もうわかっているの。ケビンとサンドラ。………
<海賊の島>p125-126

「ねえ、ちょっと考えてごらんなさいよ、クリフ。」と、ベティがいった。「ヨークシャーにいるあなたの弟のボブをべつにしたら、わたしたちの血縁はウォルトしかいないのよ。道路を横切るにもよく気をつけた方がいいわ、わたしたち。わたしたちに何かあったら、ウォルトに小さなジェニーがまかされることになるのよ。」
 「ケビンとサンドラはいうまでもなくね。」と、クリフォードがいった。………
<海賊の島>p128

 いま、読み返していると、こういう何気ない描写にドキリとさせられる… 
 そうか、ウォルターの兄のクリフとベティの一家に何かがあったのだろうか!何かあった…だから『ぼくらのジャングル街』では、すでにケビンとサンドラは孤児となっていた。ウォルターにひきとられた。ウォルターの連れ子のジーンとハロルドの面倒を見ている。そのウォルターの内縁の妻の名はドリス…
 えっ、ドリスという名は『ひとりぼっち』に出てくるぞ、あのバンク・ハウスで売春をなりわいとしていた若き日のドリスなのだろうか?ドリスは、物語の最後で<屠場>のフランク・リッジウェイといっしょになる…
 ところが、このリッジウェイという記号もなかなか厄介で(あー、しつこい!)『海賊の島』でウォルターたちチンピラの親玉の名がリッジウェイ… 名前こそロッドとフランクでちょっと違うが、姓はリッジウェイなのだった…

 

 話が混乱してくるので、<廃屋>が登場する作品群の発表年代を見ながら、ここで問題を少し整理しましょう。
 

 発表年代

 1961年 ぼくらのジャングル街
 1965年 さよならジャングル街
 1968年 海賊の島
 1969年 アーノルドのはげしい夏
 1970年 さよなら、教授さん
   ………
 1977年 未知の来訪者
 1983年 ひとりぼっち

 

 ▼物語が扱っている年代

 1918年 第1次大戦終わる
 1919年 ラザフォード、陽子発見
 1920年 恐慌襲来
   

   「海賊の島」 「ひとりぼっち」
     ………
   
「ぼくらのジャングル街」
   「さよならジャングル街」

 1929年 ランカシア大罷業
 1931年 恐慌激化

 

 物語が扱っている年代でいうと『海賊の島』の方が1920年代初頭で、20年代後期の不況が深刻化してくる時代を描いた『ぼくらのジャングル街』よりも古い。けれど、作品の発表年で行くと『ぼくらのジャングル街』の方が先、処女作なんですね。

 仮定するに、タウンゼンドにとっての<ジャングル街物語>というのは、『ぼくらのジャングル街』で始まり『さよならジャングル街』で一度は完結した世界ではなかったのでしょうか。
 『海賊の島』とは、その後、タウンゼンドによって書き込まれた<ジャングル街物語>なのだと理解できます。そして、ここでの書き込みについては、タウンゼンド本人でも意識しなかったような大発見が横たわっているのです。(ほとんど児童文学界のラザフォードとでも呼ばれるべき発見!)
 つまり、この『海賊の島』で、タウンゼンドは、年代やシチュエーションをほんの少し前にずらすことによって、微妙な人間の成長の問題を書き込める手法を手に入れた!
 年代の設定を10年前にちょっと「もどりすぎ!」にするとどうなるでしょう。私たちは、軍隊(第1次大戦)から復員してきたウォルター・トムソンやリッジウェイの「青春」を見なければならなくなるし、戦争孤児(であろう)シーラ・ウッドローが十歳以上も歳上の「青年」トニー・ボイドによせる思慕の不思議さに立ち会うことにもなるのですね。
 『ぼくらのジャングル街』や『さよならジャングル街』は、その意味では、単純明解な児童文学でした。ケビンやサンドラの成長は、単純な子どもから大人への自立的な流れであり、時間は一方的でした。
 けれど、その時間の上に、『ジャングル街』のウォルターやシーラたちの違った流れの時間を重ねてゆく時、読み方は変わってきます。ちょうど『未知の来訪者』で、20世紀の人間が来訪者たちを見つめていると頭がクラクラしてくるような状態と同じになってくるわけです。

 『ジャングル街』だけならば、わたしたちは、ウォルターの人間としての未熟さや家庭人としての無能さを嗤えたでしょう。けれど、彼にも青春があり、その青春とは、彼が軍隊からもどってみれば、スラムの家庭は壊れ、慢性的な経済不況下で失業の日々を生きなければならない青春であったことを知った時には、もう嗤えません。
 『ジャングル街』では、さりげなく良識の世界の住人として描かれているミス・ウッドロー。けれど、彼女が、キャプテン・カトラスの空想にしがみつくしか生きる術がないスラムの子シーラであることを知った時には、心穏やかではいられません。シーラは、どうしてキャプテン・カトラスの物語を捨てて、トニー・ボイドという現実を選んだのか…

 

 これを呼びたければ、「ヤングアダルト領域」とでも呼んでさしつかえないのではないでしょうか…
 『海賊の島』の主人公は確かにゴードン・ドッブズ12歳の成長物語(児童文学)です。が、それに目をとられていると、まわりのあちこちにちりばめられている異質な時間のオーバー・ダブ(ヤングアダルト領域)が見えなくなりますね。
 このタウンゼンドの予期せぬ手法の大発見は、以後の英国の児童文学を決定づけたという気がします。こうやって「ヤングアダルト」は可能にするのだよ…とタウンゼンドはひかえめに言っているような気がします。(だから私、イギリスのヤングアダルトは信じます。確かにそういう世界を構築している。)
 『未知の来訪者』のラストで、ハロルドが「ジーンだ!」と叫ぶ場面は、だからわたしには万感の思い。わたしたちもハロルドも、この場面でジーンの幻、15年前の<ジャングル街物語>(児童文学)を目のあたりにしているわけだから… 
 『未知の来訪者』だけが、架空の<コブチェスター>ではなく、実在の「マンチェスター」という名を使っている唯一の<廃屋>もの作品でもあることで、タウンゼンドの意図は明瞭だと思います。
 また、この物語がケンブリッジではじまり、マンチェスターのあの<廃屋>で終わるという点も見逃せない。これは、自己の原点を遡るタウンゼンドの姿そのものなのではないでしょうか。
 『未知の来訪者』というのは、だからわたしには『海賊の島』以来はじまったタウンゼンドの<ジャングル街/廃屋>への追体験願望のひとつの到達点と映ります。

 

 長々と書いてしまった…
でも、これで、うかつに『未知の来訪者』を手にとってはいけない理由が、少しははっきりしたと思います。

 もちろん…タウンゼンドの小説は、こんなに単純なわけではありません。<廃屋>だけが売りものの作家ではない。
 <廃屋>系列の他にも、『北風の町の娘』のリルから『愛ときどき曇り』のジェニーまで流れる<北風少女>の系列もあるんですけどね。
 あの『アーノルドのはげしい夏』で聴こえるフレーズ Sea,sand,stone,slate,sky …というタウンゼンド独特の原子理論もありますしね。

 『北風の街の娘』について書きたい!が、これをやると文章がまた長くなるのでやりません。長らく絶版でもありますし…(学研は今すぐ再発しなさいよ!) タウンゼンド論には二方向があって、この「廃屋/コブチェスター」を書いていると、もうひとつの「ラザフォード/北風少女」も書きたくなってくるのですけれど…
 
 
 


(注1) 最初、『未知の来訪者』のあのラスト場面の四番目の幻は、『ひとりぼっち』のダンとオリーブかな?とも思っていました。でも、オリーブが<ふとった金髪の娘>であるとは思えないし、また、ふたりが<おたがいの腰に手をかけてならんで立っていた>なんてもっとおかしい。あるいは、これは、二人の実の両親、プルーデンス・パーヴィス(ラン)とベンジーの若き日の姿なのかな?とも考えたけれど… 
 よくわからない。いちばん妥当なのは、まだ、未訳の<廃屋>ものがあるのでは?というところでしょうね。『とげのあるパラダイス』(偕成社)なんかを見ると、この四番目の幻は『さよなら、教授さん』のようですね。1970年代のタウンゼンド作品がほとんど翻訳されていないので、よくわからないです。

(注2) 『海賊の島』の冒頭には、「一九四六年の春だった…」という一節があり、タウンゼンドは、第二次世界対戦直後の話に設定を変えています。
 「第一次対戦直後」では、作品が発表されていた1960年代のイギリスでも、ちょっとインパクトに欠ける設定なのでしょうか。描かれている時代は、紛れもなく1920年代なのですけれど…
 今の日本のヤングアダルトたちに「朝鮮戦争の特需景気…」とか言っても解らないのと同じでしょうね。「朝鮮戦争」というところを「ヴェトナム戦争」に設定を変えるようなことだと思います。
 同じような操作を、よくタウンゼンドは行います。例えば、ハロルドが「十五年前、ぼくたちはしばらくあそこで暮らしたことがある。」ということも、ハロルドの年格好や『未知の来訪者』の時代設定から考えて、15年前は「第二次対戦直後」になるはずですからね。

 
 

 
ジョン・ロウ・タウンゼンドの本 (小説/邦訳のあるもの)

  ■ アーノルドのはげしい夏 神宮輝夫訳 岩波書店 1972年
  ■ 愛ときどき曇り 神宮輝夫訳 晶文社 1988年
  ■ 海賊の島 神宮輝夫訳 岩波書店 1968年
  ■ 北風の街の娘 亀山竜樹訳 学研 1963年
  ■ さよならジャングル街 亀山竜樹訳 学研 1965年
  ■ ハルシオン島のひみつ 斉藤健一訳 福武書店 1987年
  ■ ひとりぼっち 神宮輝夫訳 晶文社 1988年
  ■ ぼくらのジャングル街 亀山竜樹訳 学研 1961年
  ■ 未知の来訪者 神宮輝夫訳 岩波書店 1981年

 
 

 
2000年8月27日号 あとがき

■今回の『Northern songs』は三部作仕立てになってしまいました。当初は「8月26日」「27日」は一本で組むつもりでワープロ作業などを行っていたのですが、最後のアップ間近の段階になってファイルの容量オーバーになってしまいました。HTMLファイルに容量オーバーがあるなんて考えてもいませんでしたけれど。

■この『児童文学の<廃屋>』の文章が長すぎるせいなんですけれど、まあ、わらってゆるしてください。今、昔書いたものを改訂・復刻している最中なので、つい読み込んだりしてしまいます。それで、もう一度だけ化粧し直せば…なんて思ったりする、要するに「親馬鹿」なんです。でも、こんな復刻でも、なにかこれがきっかけで、図書館の棚でファージョンやタウンゼンドの本を手にとる人がひとりでも出てくれば本当にうれしいことだと思いますね。<新谷>