Northern songs
 
2000年8月25日号
 
 

 
 
夢の水車場 エリナー・ファージョン
《ヤングアダルト・ハーフライフ大会C/季刊『SWAN』第4号(1989.1)》
 
大島 多美子
 
 むかしむかし、私が正真正銘のヤングアダルトだった頃。私は高校図書館で忘れ難い2冊の本に出会ったのでした。そのひとつは、エリナー・ファージョンの『ムギと王さま』、たしか岩波少年少女文学全集版だったと思います。
 ここで「ファージョンの作品がヤングアダルト?」という方が当然いらっしゃることでしょう。私も基本的には「?」の意見に賛成です。でも、今回は、ファージョンについて語りたい。御容赦のほどを。
 
 
 『ムギと王さま』はファージョン自選の短編集で、まさに選りすぐりといったところですが、それぞれの作品の多彩さで、私は夢中になってしまいました。民話風、ナンセンス、寓話…、ファージョンの筆のままに、笑ったり、しんみりしたり、ドキドキしたり。たとえば、ほんの14ページ足らずの掌編「ガラスのクジャク」。美しさと切なさに胸が痛くなってしまいます。

 あるいは、「コネマラのロバ」。
7歳のダニーは、とうちゃんが話してくれたロバ、雪のように白くてルビー色の眼、青いたずなに青い鞍、しっぽにバラの花のついたフィニガン・オ・フラナガンに夢中です。幻のロバの存在を信じて疑わないダニーは、フィニガンの武勇談をクラスメートに語るのですが、嘘つきよばわりされて取り乱し、事故にあってしまいます。重傷の少年はフィニガンの名前をうわごとに口ばしり、父親は自分のほら話を後悔するのですが… このシリアスな手詰りの状態もファージョンの魔法の杖が一旋すると、急転直下ハッピーエンドへと至るのです。

 ともあれ、現在は『ファージョン作品集 第3巻』として、原著どおり全27編が訳された『ムギと王さま』ですが、その豊かな物語性の他に、当時ははっきりとは意識しなかった(そしておそらくはこれが思春期の私を魅した大きな理由だとも思うのですが)<真実はそれを見る者の眼の中に>というさりげなくも強い主張に気がつきます。
 <現実の暮しの中にリアルがあるのではない、ファンタジーの中にのみリアルがあるのだ>といった、あるいはその逆の硬直した人生観ではなく、融通無下に現実とファンタジーを飛び越えてしまう… それは、おそらくは彼女のユニークな子ども時代や、一風変わった恋愛などの人生経験によるものでしょう。あとがきに記されたその略歴も関心をそそるものでした。
 
 
 『ムギと王さま』でその名を知ったファージョンですが、この時点では、ハウフやレアンダーと同じく<気になる童話作家>という存在でした。 ところが、もう一度衝撃を受けてしまうのです。『リンゴ畑のマーティン・ピピン』。1972年の出版ですから、20歳の時読んだ事になります。
 これは閉じ込められ嘆き悲しむ一人の乙女を救い出すため、さすらいの詩人マーティン・ピピンが見張りの乙女達に6つの物語を語る、といった枠にはいった物語です。
6つの物語はそれぞれラブ・ストーリー、というか毅然とした愛の物語といった風です。
 それぞれの主人公は、多くは真実の姿をかくし身をやつしています。つまり、そこにはいくつものの真実(!)が有り得るのです。
 第2話「若ジェラード」。これは捨子の羊飼いジェラードと領主の娘シアの物語です。老羊飼いに代表される世間一般の真実では、<青年と娘は彼女の意に沿わぬ婚礼の日に湖で溺れた>のですが、恋人たちの、そして語り手マーティン・ピピンと聴き手の乙女達にとっての真実は<青年はジプシーの王の息子であり、美しい花嫁と共にかつての領民達の前に再び現れ幸せに暮らした>のです。また、さらにピピンと聴き手の乙女ジョイスにとっては、シアとジェラードは、乳しぼりむすめジョイスと牧夫のマイケルの事でもあるのです、といった具合に。
 
 
 この6編は、ほとんどが昔話の装いをしていますが、ただひとつそうでない「夢の水車場」はもっと苦い味わいでこの真実を語っています。
 少女ヘレンは訪れるものもない水車場で父と二人暮らしています。17歳の時、出会った水夫にもらった貝殻。その貝を胸に当てて心の中で秘かに物語を紡ぐ。その世界では、あの若者と恋を語り、共に船出をし、星を眺め、冒険をするのです。
 一方、現実の世界では、彼女は水車場から出ることもなく、やがて父もなくなり、孤独な老嬢生活を続けているのです。
 ある日、37歳のヘレンは、彼<わたしの若衆>に再会します。そして気がつくのです。「かの女にはもう何ものこっていないのだ。男がもどってきたたために、かの女の若衆と、少女であった、かつてのかの女は失われたのだ」と。また、その想いさえヘレンが一方的に創り上げ20年間抱いていたに過ぎないのだ、というさらに苦い事実にも。ある出来事から逆上したヘレンは貝を石臼で砕いてしまいます…
 初めて読んだときの私は(17歳のヘレンですから)ここがショックだった。久しぶりに読み直したのですが、現在の私には、貝を砕くことが、そのまま現実に屈服することではないと解ります。

 『リンゴ畑のマーティン・ピピン』を書いた当時のファージョンも、やはりヘレンの年齢と同じくらいのはずです。かつての私は、ヘレンと自分を重ね、またヘレンとファージョンを重ねて、いたく共感したものでした。そのまま重なるわけではないでしょうが、やはりファージョンの心の中には、夢の水車場がゆるやかに回っていたのではないでしょうか。
 
 
■ ムギと王さま E.ファージョン 石井桃子訳 (岩波書店) 1971年
■ リンゴ畑のマーティン・ピピン E.ファージョン 石井桃子訳 (岩波書店) 1972年
 
 

 
 
速報!「道の駅」2000 第4回
 
新谷 保人
 
 
8月19日(土)
@納沙布岬灯台→A花咲灯台→59.スワン44ねむろ→63.知床・らうす→(養老牛温泉)

8月20日(日)
(養老牛温泉)→24.おんねゆ温泉→15.まるせっぷ


 母が「根室ならいっしょに行ってみたい…」とのことなので、今回は、あまりスタンプは頑張らず、根室観光とわりきって動くことにしました。

 根室は半島部の奥に位置しています。行く道も帰る道も同じ道を使わなければならない。北方四島が今も日本の領土で、海上交通が主流ならば、おそらくは「こんな便利な町はないよ」ということになるのだろうけれど、車はその逆です。知床半島みたいに、縦断道路を使って羅臼から斜里・網走へとか、逆に、北見・網走から半島を巡って釧路方面へとかといったような効率的な旅のコースも組み立てにくい。根室は、根室に行って、根室を見て、根室から帰ってくる…わけで、よっぽど根室に親戚がいるとか、国後島への墓参団とか、そういった理由でもないと、なかなか普通の北海道人では現在は行く機会がないところなんですね。私らも、今回は、もう完全に根室に一泊して、まるまる一日「根室」の隅々を走りまわるという前提で動いています。
 
 
 根室までの行きのコース。今回は神田日勝の絵が見たい関係で「札幌〜道央道(高速)夕張IC〜日勝峠〜鹿追町〜帯広〜釧路〜根室」という「日勝峠ルート」となりました。帯広市の隣町が鹿追(しかおい)町。「神田日勝記念館」はここにあります。
 絵は素人なので神田日勝の絵のどこが良いのか好きなのかを上手く表現することはできないんですけれど、なにかしら昔から好きなんですね。
 これがたとえば木田金次郎(有島武郎の『生まれ出る悩み』のモデルになった人です)、この人の絵が置いてある岩内の木田金次郎美術館に行っても、絵は美しいと思うけれど、それ以上の親近感は感じることはあまりないんですけどね。でも、なにかしら、神田日勝だと態度がちがってくる。絵だけじゃなくて、記念館にある子供時代の家族写真とか小学校の賞状に至るまでのすべてのものが、その記念館(神田日勝ワールド)にとってなくてはならないものみたいに感じる時がありますね。
 <同時代>ってことなのかな… 今回、記念館の内部が妙に居心地良い。で、感じたものは、自分が思春期だった頃の、あの「時代の気分」なのでした。あの、1960年代から70年代に移って行く高度成長期の高揚感なんですね。そして、帯広にいた神田日勝もまた、1970年に32歳で死ぬまで、あの時代の空気の中で生きていた。
 そして、ここが特徴的なのだけれど(私の「親近感」の由来でもあるのだけれど…)、あの「時代の気分」を、神田日勝は、新宿や池袋のガード下ではない、帯広・十勝の「北国の青い空」の下で展開してしまったという、ある種のミスマッチ感覚なんですね。で、才能ある人はやっぱりちがう。神田日勝の場合は、このミスマッチを大化けのプラスの目で出してしまった!ということではないでしょうか。
 
 
 その昔、1969年の夏、札幌の街を反戦デモしていたのは私ですけれど、デモのシュプレヒコールは北国の青空に吸い込まれ、アカシアの並木を渡って来る風は涼しく、街を行き交う女の子たちは屈託なくわらい、大通り公園の親子連れは幸せそうだった。
 いったいオレは何やってるんだ…どこに戦争や不幸があるんだ…何なんだ、オレは…という気になったものですけれど、神田日勝記念館は、今一度、あの時の感情をまざまざと思い出させてくれましたね。(笑) あの時代、なんの才能もなかったけれど、それでも乏しい才気や暇をかき集めてでも、なにか自分の「作品」を生み出す方向へ歩んでいた方が正解だったかなとか思ったりします。
 都会でチヤホヤ生きていなかった分、神田日勝は真面目です。才能があるのに、それに気づかず、さらに努力する。今回は展示していなかったけれど、『室内風景』という作品なんかものすごいですよ。「室内」の壁紙代わりに貼ってある新聞紙の「トクホンチール」とか「パールライス」といった新聞広告の文字や写真まで精密に描きとっている!しかも壁紙の陰影を付けて。なんか、この「時代」の一字一句まで俺は絶対に描き漏らさないぞ!といった執念のようなものがありますね。こういう執念が何に由来するのか本当に不思議ですけれど。でも魅力的。
 どうしても『室内風景』の時期の神田日勝が注目されてしまいますけれど、記念館の展示を見ると、習作時代の風景画も、晩年の抽象画もいいんです。若死にする最後まで、神田日勝はどんどん自分のスタイルをためらうことなく進化させていったことがよくわかる。この逡巡のなさはモロに「北海道人」ですね。こちらの感情は私にもわかりすい。私もそうです。
 
 
 これを書いている8月23日、根室の温根沼(オンネトー)で、なんと鱒をとる刺し網に熊がかかった…というニュースがとびこんできました。いやー、さすがは根室ですね。

 その温根沼を通り、根室に着いたのが夕方の6時。札幌からえんえんと9時間くらいかかって着いた計算になります。途中、「札幌−夕張」間は高速を使ってズルしていますから(25分で夕張に行けるなんて夢のよう…)実際には根室まで北海道横断をするには10時間くらいかかるのかな、2000年8月の北海道では。

 根室の灯台は「納沙布岬灯台」も「花咲灯台」もよかった。(ここに「落石(おちいし)灯台」も入れて、根室三連発にすればよかったのに…)
 特に今回初めての「花咲灯台」はすばらしかった。灯台の下の奇岩「車石」のある海岸まで降りて行けます。すると、要するに、ここは岬全体が「車石」なのだということがよくわかる。太平洋とオホーツク海を分かつ波はあくまで荒く、目の前に「ユルリ島」なんかも見えたりして、すばらしいロケーションでした。納沙布ばかり行かないで、根室行ったら、こっちの太平洋側も必ず行くようにしましょう。ここから落石を通って温根沼に抜けるルートもグッド。
 ドラマ『北の国から』で、蛍が年上の医者と不倫して、人の目を逃れて二人でひっそり暮らしていた…というのが、ここ落石海岸の診療所ですが、なんとなく倉本聡のセンスがわかりますね。広い北海道、隠れて住むところなんかいくらでもありそうですけれど、やっぱり蛍が住むとなるとここでしょう。根室本線が終点に近づく、そのひとつふたつ手前の小さな駅…、よくぞこんなドンピシャのロケーションを探してきたものだと感心します。(倉本聡の北海道理解度は深い。半端な道産子作家なんかではとても歯が立たない。)
 
 
 二日目に泊まった「養老牛温泉」はふつうの温泉です。この前紹介した十勝の「晩成温泉」がかなりのインパクトなので、こちらの名前もかなり期待される方がいるかもしれませんが、それほど頑張る筋合いではない。強いて言えば、摩周湖にいちばん近く、だからといって弟子屈(てしかが)町の温泉街みたいな騒がしさはない…といったあたりが長所なんでしょうか。本当に夜なんかビターッとした静けさよ。あと、周辺の牧場風景が、いかにも「北海道」という感じのキマった風景です。有名な「開陽台」も近くにあるくらいですから。
 じつは、昔、私が「北海道」ドライブに目覚めた初期の頃にここに来たことがあるんですね。で、なにかしら「養老牛はよかった!」という想いがいつも頭の隅にあって、それで今回、思い出の地再訪ということになったのだけれど。宿泊中、風呂に入ったり、おみやげ売り場をのぞいたり、いろいろあれこれしたんですけどね、何が「よかった!」のかついに思い出せなかった。
 まあ、温泉なのかな… 風呂は、北海道温泉研究の第一人者、松田忠徳先生も名著『北海道とっておきの旅』で褒めているくらいの文句なくの一級品ですから、そういうことにしておきましょう。
 

 
2000年8月25日号 あとがき
 
■「速報・道の駅2000」も、いよいよ「オホーツク一気取り」を残すのみとなりました。連載もあと1回で終了です。先日、石勝峠を越えている時に、我が愛車ファミリアもついに走行距離「10万q」を越えました。ずいぶん乗ったものだな…と感無量。

■埼玉県の新座市に住んでいた頃は、所沢の職場との往復に3年間毎日使っていました。でも、その3年間でも走行距離は5千qも行っていなかったのです。時速に直すと、ほとんど時速15〜20qくらいの世界でしょうか。通勤に片道1時間半くらいかかっていましたけれど、そのほとんどは信号待ちの渋滞だったりします。自分の車がはたして時速100q以上出せるのかどうか知りませんでした。(だって、そんなスピードで走れる道路なんてどこにもないのだから…)

■そんな東京郊外ベッドタウンの平凡な家庭用ファミリアだったのですが、こっちに来て、本当に運命の大転換。冬タイヤなんてものも経験してしまうし、瞬間最大時速で150q近く出したこともある。距離メーターはメキメキ上がって、ついに大雪山の峠で10万qを迎えることになってしまった。まさか、こんなことになるとは思ってもみなかったですね。もう廃車寸前のご老体ですけれど、今までの健闘をたたえて「道の駅2000全駅制覇ステッカー」は君に貼ってあげよう。新車には貼らないことを私は約束する!

■…とかなんとか言って、来年もこのファミリアに乗っているかもしれないけれど(笑) 私、面倒くさいんです。次の車はどんな車にしようか…とか考えるの。そういうのが楽しくてしようがないという人もいますけれど、楽しいか?そんなこと。車なんて走れれば何でもいいじゃん。暴走族のゴキブリ車とか、家族にもてあまされたようなアウトドア・オヤジが乗ってる四駆でなかったら、もう何でもいいよ。裏の生協の家電売場で売ってれば、それがいちばんね。<新谷>