五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.4.9
東京行きが決まる
 
 4月9日
 十時起床。湯に行つて来て、東京行の話が纏まる。自分は、初め東京行を相談しようと思つて函館へ来た。来て、そして云ひ出しかねて居た。今朝、それが却つて郁雨君の口から持出されたので、異議のあらう訳が無い。家族を函館へ置いて郁雨兄に頼んで、二三ケ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作的生活の基礎を築かうといふのだ。
 一時頃から郁兄と二人で公園から谷地頭まで散歩。断片的生活といふ事が話題に上つた。さうだ、自分の今更の生活は実に断片的だ。
 夕、吉野君宅で御馳走になる。九人の家族。この冬、妹なる人に銀鍔を縁日に売らせて、吉野君……詩人白村が、それを暗い所から見て居たといふ。――自分が去年の秋函館を去る日に生れて、浩介といふ名をつけた児が、大分大きくなつて居た。
 吉野君を見て、生活といふ事が如何に痛切な事であるかを、今更の如く感ずる。
 八時頃三人で岩崎君へ推かけた。時に警鐘の音、郁雨白村の二君は直ちに駆け出した。自分と正君とは十二時過ぐるまで語つて、枕を列べて寝た。社会的生活が人を卑しくするといふ事について談つた。
 岩崎君の姉君とし子さん! 嘗て沢田君の夫人たりし人! 淋しき婦人! 自分はそれについて何事をも云ふ事が出来ぬ。
 
 4月10日
 九時起床。斎藤大硯君を日々新聞社に訪問。帰に小便が出たくなつたが便所が無い。池田座の前に“竹内一郎一座”の幟が立つて居たので、一計を案じ出し、“竹内君が居るか”と云つて這入つて打つて小便して出た。宮崎君宅で昼飯。宮崎君も善い人である。父上も善い人である。母上も善い人である。姉なる人も善い人である。何故なれば斯う善い人許り揃つてるであらう。
 三時頃出て、途中で弥生学校の遠山〔二字空白〕、日向操の二女史に逢ふ。具足〔で〕弥生校を訪問して高橋すゑ、森山けんの二女史を見た。一寸小林茂君を訪ねる。斬髪。吉野兄の跡を追廻して東川校で逢ひ、トある蕎麦屋で飲んで語る。それから郁兄宅に帰つて三人で話す。小南ふる夜。
 
 4月11日
 晴れたる日。郁兄と大森浜を歩む。波の面白さ。岩崎兄を誘ふて三人で谷地頭を散歩。夏堀君を訪ねる。岩崎君宅で夕飯を食つて語る。帰りに郁兄頻りに胸が淋しいといふ。せつ子、山本へ手紙、大嶋小国植木金田一ヘハガキ書いて一時寝る。
 
 4月12日
 今日は日曜日。吉野君来る。郁君の代議士候補談に花が咲く。山背吹いて打湿つた日。夕刻、小雨を犯して吉野兄宅に行き、九時頃ヅブ濡れになつて帰る。
 枕の上で一時迄語る。“平凡”中の犬の話から栗原先生の話、大嶋君の話。やがて性格大気説を自分は説く。海峡新聞の計画、太平洋大学の空想。
 
 

 
明治41年4月9日
東京行きが決まる
 
 「さうだ、函館へ行かう」と書かれた「4月2日」日記から一週間。もう、啄木の目に映るすべてのものは<函館>の街なのであって、ここには<釧路>のかけらもないんだ…という事実が急速に啄木の思考を変えて行きます。みるみる文体が変化して行く。もう操作しなければならない現実もないし、借金リストは一度リセットされたも同然の状態だから、啄木の心はなぜか明るい。
 
 単純に考えても、同じ四月とはいえ、釧路と函館では気候的に一ヶ月くらいの開きがあります。「4月2日」の釧路にはまだ雪が残っていますし、朝晩は零度近くまで冷える。かたや、「4月12日」の函館は、もう水芭蕉も終り、人々の関心も今年の桜話題に移ろうか…といった世界ですからね。冬の東京からサンフランシスコへ一気に飛行機で飛んだようなものですか。
 
 枕の上で一時迄語る。“平凡”中の犬の話から栗原先生の話、大嶋君の話。やがて性格大気説を自分は説く。海峡新聞の計画、太平洋大学の空想。 (4月12日)
 
 太平洋大学ね… 「東海の小島の磯の」太平洋大学なんでしょうか?
 
 なにげない日記の一節からも伸び伸びとした感覚が伝わってきます。啄木自身、気づいたんではないでしょうか。やはり文学はこれだ!ということに… 暗く冷たい現実をそのまま書くだけではダメなのだ、浪漫な夢をいくら並べてもダメなのだ、そこに「蟹」がいなければ文学は成立しないんだということに。
 
 北海道漂泊の一年、啄木は二葉亭の翻訳・小説をかなり読んでいますが、事ここに至って、ついに文学に開眼したのではないかということを思わせます。それは、自然主義小説の技巧に目覚めた…というようなちゃちなものではない。もっと大きな、偉大な<文学>作品がいつも持っている、その平明さ、単純さ、平等、真摯みたいなものについに行き当たったのではないか。
 
 後年、私たちが啄木文学としてよく親しむようになる、ある種、あっけらかんとした明るさ。
 
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 
 例えば、私たちは、どんなに啄木が「われ泣きぬれて」と書いても、そこに必ずや何とも言いようにないユーモアや明るさを読みとってしまいます。たぶん、それが啄木の文学の偉大なのではないでしょうか。「われ泣きぬれて」という情感までなら、多少の文才があれば誰でも書けるでしょう。その辺の学生でも公務員でも小娘でも書けるでしょう。でも、「東海の小島の磯」や「蟹」は書けません。そんなに文学は甘くない。そして、そこからが文学の何かなんですから。(俺は書ける…、俺は書いた…と思っている人は、きっと習練が足りないか、基本的にバカなんじゃないかと私は思っています)
 
 一年間読んできた二葉亭は無駄ではなかった! 二葉亭の作品が持つ優れた<文学>の感化力に、<釧路>で覚えた爛れるほどの情感が混じり合った時、ついに啄木の文学が産声をあげた。
 
 
 だから、この明治41年4月の函館は、昨年5月に青函連絡船で降り立った函館ではありません。ここは、これから啄木の文学が始まる<函館>なのです。そして、東京での客死へまでダイレクトにつながった、ここが、啄木の「東海の小島の磯」の<函館>なのです。
 
次回は「4月13日」

 
 
この一年間の連載に、新たに書き下ろし「ミサホ(東京/明治41年5月)」を加えました。
 
 
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受付期間2004年4月28日(水)まで

昨年来、「おたるの図書館」ホームページ上で発表してまいりました「今日の啄木」を一冊の本にまとめます。価格は780円(送料とも)。予約部数のみの制作です。主な内容は、

明治四十年丁未歳日誌 石川啄木著 (5月〜12月原文)
明治41年日誌 石川啄木著 (1月〜4月原文)
明治40年・函館大火 (函館/明治40年5月5日〜9月13日)
北門新報社 (札幌/明治40年9月14日〜9月27日)
小樽と樺太 (小樽/明治40年10月13日〜10月31日)
忘れがたき人人・1 (函館〜小樽/明治40年5月〜7月/11月)
小樽日報と予 (小樽/明治40年12月11日〜明治41年1月3日)
東十六条 (札幌〜小樽/明治40年9月〜10月)
浪淘沙 (小樽〜釧路/明治41年1月19日〜2月2日)
啄木とかるた <4月号予定> (釧路/明治41年2月7日〜)
忘れがたき人人・2 <4月号予定> (小樽〜釧路/明治41年1月〜)
ミサホ 小説家・啄木 <書き下ろし予定> (東京/明治41年5月)

 
 

 
絵はがき通信 啄木転々
石川啄木、明治40年北海道放浪の一年間を
毎月の絵はがき通信に載せてお送りします。
啄木、22歳。瑞々しい明治の青春。
 
HP連載の「今日の啄木」をベースにして、5月1日より、毎月1日発行。
申し訳ありませんが、ご希望の方は送料分をご負担ください。無料サンプル配布中。

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り
400円(送料共) ※スワン社で取り扱っています