五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.3.28
ビョウキナヲセヌカヘ、シライシ
 
 3月28日
 今日も休む。今日からは改めて不平病。十二時頃まで寝て居ると、宿の女中の一番小さいのが、宿の入口のドアを明けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。“ビョウキナヲセヌカヘ、シライシ”
 歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。
 日景君も度量の狭い、哀れな男だ。が考へて見ると、実にツマラヌ。電報を見て、急に頭がスッキリした。これだ、これだ、と心は頻りに躍る。横山を呼んで話した所が、何処までも一緒に行くと云ふ。
 反逆の児は、……噫。
 先つ函館に行つて、日々新聞に入らんと考へた。船でゆく事、歌留多は梅川に置いて行く事、などまで相談一決。 これで自分は釧路に何の用もない人間になつた、と思ふと。嬉しい、心から嬉しい。
 小奴へ手紙やつた。甲斐君が来て、色々話す。電報を見せると北海旭に来てくれぬかと云ふ。話半ばにして小奴が来た。かねちやんを連れて。甲斐君は座をはづす。
 話はしめやかであつた。奴は色々と心を砕いて予の決心をひるがへさせようと努めて呉れた。“去る人はよいかも知れぬが、残る者が……”と云つた。一月でもよいから居てくれと云つだ。僕の為めに肘突を拵へかけて居ると云つだ。此頃一人で写した写真がまだ出来ぬと云つだ。これが一生の別れかと云つだ。否、々、また必ず逢はうと云つた。何処へ行つても手紙を呉れよと云つた。……………
 明日の午后奴の家を訪問する約束をして、夕刻別れた。
 衣川が一寸来て行つた。
 下へ獣医の大森君が来て居て、一寸来てくれと云ふ。行つて小国君の話をして、酒を三杯洋盃で飲んで来た。少しく酔発して感慨多少。酔に乗じて次の如きものを書いた。
    “さらば”
 啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷中の趣味を解し、觴を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天上の楽となす。既にして酔さめて痩躯病を得。枕上苦思を擅にして、人生茫たり、知る所なし焉。
 啄木は林中の鳥たり。風に随つて樹梢に移る。予はもと一個コスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所を知らず。噫。
 予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを袂別の辞となす。
 
 十時頃甲斐君が来た。再考の余地なきかと云ふ。無しと答ふ。明日早速旭川の本社へ照会して見ると云ふ。多分出来るとの事だ。旅費も三十円位は出すと云ふ。かくて一時頃まで語つた。僕の休んで居たのを、世上では早く不平病だと云ふて居るさうな。異様なる感情を抱いて枕に就く。
 
 

 
明治41年3月28日
ビョウキナヲセヌカヘ、シライシ
 
 先つ函館に行つて、日々新聞に入らんと考へた。船でゆく事、歌留多は梅川に置いて行く事、などまで相談一決。 (3月28日)
 
 相談?誰と?
 
 この頃の啄木日記には、一瞬、これは啄木の書き間違いなのか?といった箇所が時折現れます。例えば、あの有名な、小奴と梅川操が対決した3月21日の夜の場面などでも、
 
 夜が闃として、人は皆鼾のモナカなのに、相対して語る四人の心々。 (3月21日)
 
といった記述が急に来る。「四人」? 啄木、小奴、梅川の3人じゃないのか…
 
 じつは、もう一人、ここにいるのです。それが「横山城東」。
 
 横山城東は2月までは釧路の北東新報社の記者でした。啄木の遊び仲間です。2月16日の釧路新聞社・北東新報社合同の文士劇では、「北東の横山君の芸妓お佐勢は実に巧かった」なんて書いてありますね。
 この頃啄木は遊ぶ金欲しさに宮崎郁雨に宛てて「50円」(!)の金をねだるのですが、この時の借金の口実が、ライバル紙の「北東新報社の取りつぶし」でした。しかし、例によって、実際に北東新報社打倒に何か動いた様子はほとんどありません。(当たり前。芸者遊びの金が真の目的なんだもの…)
 唯一、啄木がやった「取りつぶし」策動らしきことといったら、この、北東の横山城東の釧路新聞社への「引き抜き」になるのでしょうか。(小樽日報社でやった技をまたやっている!) でも、これを「引き抜き」と言っていいものかどうか…
 
 2月21日に横山は釧路新聞入社運動のかどで北東新報社をクビになります。行き場所のない横山は啄木の関荘に転がり込む。では、すんなり釧路新聞に入れたかというと、答えはノー。全然…といってもいいかもしれません。社長の白石にも、主筆の日景にも何の根回しもしていないんだもの。完全に啄木の独断先行、一人妄想。(懐かしの小樽日報パターン!) 事が起こってしまった後であれこれ理事の佐藤国司に相談に行ったりしていますが、これだけ会社のラインを無視した子どもの振るまいが通用するはずもないのでした。
 そんなわけで、横山城東は、3月21日の日も、関荘に、啄木の隣りの部屋にいたのでした。一説には、横山の下宿代も啄木が面倒を見ることになっていたという話です。(まあ、一人分だろうと二人分だろうと、払う気なんかない、はじめから踏み倒すつもりの下宿代ではありますが…)
 
 しかし、例えば3月21日の夜の場面でも、実際に横山がその場にいたかどうかは別の問題です。(私はいなかったんじゃないかと思ってますけど…) 啄木はよく日記を「創作」しますからね。特に、話題が下半身のことになった時などに頻繁にアリバイづくりの操作・創作を行います。以前、小樽の沢田信太郎が訪ねてきた時も、実際は夜通し遊び呆けて朝帰りしてきたところを啄木下宿に泊まって待っていた沢田に見られるわけですが、日記には、夜の11時に帰ったら沢田君が来ていた…と書くわけです。「洋燈の下で友の寝顔を見るのはいいものだ」などと、いけしゃあしゃあと書くわけです。
 釧路時代の啄木日記では「横山」をアリバイづくりのために便利に使いますから、あんまり信用してはいけません。また、4月2日にまとまった現金(15円)を手にするまでの啄木は、完全に素寒貧の状態です。日記には「先つ函館に行つて…」などといろいろ書いていますけれど、結局は何の現実性もない啄木ひとりの頭の中の妄想に近いものではないかと私は思います。
 
 
 “ビョウキナヲセヌカヘ、シライシ” (3月28日)
 
 啄木にはいつも好意的だった社長の白石義郎も、ここに至って、ついに見限ったというところでしょうか。啄木の文才を惜しみ、小樽日報を辞めた啄木に釧路新聞社を斡旋してくれた白石義郎。何にも増して大事な人なのに、その人からも愛想をつかされてしまった。これでは釧路にいられない。
 
 前回、啄木が釧路を離れざるを得なくなった原因として「沢田信太郎(の手紙)」と「梅川操」をあげましたけれど、これらはあくまで私の邪推です。一般的な定説としては、この釧路新聞社においての、特に主筆・日景安太郎との軋轢などがいわれていますが、それについては明日。
 
次回は「3月29日」

 
 
 
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昨年来、「おたるの図書館」ホームページ上で発表してまいりました「今日の啄木」を一冊の本にまとめます。価格は780円(送料とも)。予約部数のみの制作です。主な内容は、

明治四十年丁未歳日誌 石川啄木著 (5月〜12月原文)
明治41年日誌 石川啄木著 (1月〜4月原文)
明治40年・函館大火 (函館/明治40年5月5日〜9月13日)
北門新報社 (札幌/明治40年9月14日〜9月27日)
小樽と樺太 (小樽/明治40年10月13日〜10月31日)
忘れがたき人人・1 (函館〜小樽/明治40年5月〜7月/11月)
小樽日報と予 (小樽/明治40年12月11日〜明治41年1月3日)
東十六条 (札幌〜小樽/明治40年9月〜10月)
浪淘沙 (小樽〜釧路/明治41年1月19日〜2月2日)
啄木とかるた <4月号予定> (釧路/明治41年2月7日〜)
忘れがたき人人・2 <4月号予定> (小樽〜釧路/明治41年1月〜)
かの蒼空に〜小説家・啄木 <書き下ろし予定> (東京/明治41年5月〜7月)

 
 

 
絵はがき通信 啄木転々
石川啄木、明治40年北海道放浪の一年間を
毎月の絵はがき通信に載せてお送りします。
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HP連載の「今日の啄木」をベースにして、5月1日より、毎月1日発行。
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啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
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