五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.3.22
私悪魔と戦つて勝つたのですネ
 
 3月22日
 日曜日。
 小奴からの使で目をさました。十一時半。手紙に添へて、去年の夏捉つたといふ小蝶と二人の写真を贈つて来た。
 揃ひの浴衣、立つてるのは小蝶で、左の手を挙げて胸のあたりに白い花を持つて居る。右手は、腰かけた小奴の肩。奴は右の手で、其手をとつて、横を向いて幽かに笑つて居る。小蝶といふ女には、毒がある。心の毒か身の毒か、それは知らぬが毒がある。奴はハッキリして居る、輪廓が明かである。少しも翳がない。花にすれば真白の花である。江戸のてい子さんから長い手紙が来た。一時頃、梅川から、二時から三時までの間に訪問するといふ手紙が来た。所へ上杉君が来た。昨夜十一時頃、泥酔した衣川子と梅川が米町を歩いて居た事を聞く。上杉君は、屹度衣川が梅川を姦したに違ひないと云ふ。昨夜の事を思合して見ると、成程と思はれる節の無いでもない。よしソンなら、今日すつかり白状させようと、上杉君をば横山君の室にやつて置いて、室を浄めて待つて居た。間もなく梅川が来た。怎やら浮かぬ顔をして、其癖、目が輝く。所へ鹿嶋屋の市子が遊びに来た。二十分許り居て帰る。玄関で、“お楽しみ!”などと狎戯けて出て行く。“昨夜は、私悪魔と戦つて勝つて来ました。”と梅川が云ふ。其話は、昨夜衣川が病院に来て飲んで、十一時頃梅川をつれ出した。厳嶋神社へ行つて口説いて、アハヤ暴行に及ばむとしたのを、女は峻拒して帰つて来たのだといふ。衣川は愍むべき破綻の子、その一身の中に霊と肉とが戦つて、常に肉が勝利を占めて居る男である。別れ際に、“貴女は僕より豪い。”と云つたとか。“私、悪魔と戦つて勝つたのですネ。愉快でした、愉快でした、実にモウ愉快でした、だから私、昨夜アンナに遅かつたけれど、お知らせしようと思つて伺つたのでした。”
 予は一種の戦慄を禁じえなかつた。此女は果して危険な女であると思つた。浅間しいやら、可哀相なやら。“花は怎うなすつて?”とは此日此女が此室に這入つて来て初めて出した語である!!
 上杉君と横山君が這入つて来て、一緒に梅川に忠告した。語を円曲にして、今度訪ねて来てば不可ぬと云ふ事も云つた。日が暮れても帰らぬから、お帰りなさいと云つて帰してやつた。男は男、女は女! 噫、女は矢張女であると考へて、洋燈をつけた。急に心地が悪い。不愉快で、不愉快で、たまらない程世の中が厭になつた。
 
 今明雨夜、去る八日の空前の大風雪罹災者救助の慈善演芸会が米町宝来座に開かれて、鶤寅芸妓の芝居がある筈なので、七時頃横山君と共に出掛けた。途中小泉君も同伴。“煙草屋源七”一幕。小奴の上使は巧みなもの、煙草に酔うて花道からの引込みが、殊に手際よかつた。二番目新派“乳貰ひ”奴の妾、表清が少し足らなかつたけれど、降る雪に積る思ひ、自然な所作が気に入つた。最後に所作事“喜撰”、奴は此でも喜撰にたった。
 漸く不快を忘れて一時帰つて寝る。夢が結べぬ。それからそれと考へて、果敢ない思のみ胸に往来する。つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。
 
 3月23日
 何といふ不愉快な日であらう。何を見ても何を聞いても、唯不愉快である。身体中の神経が不愉快に疼く。頭が痛くて、足がダルイ。一時頃起きて届けをやつて、社を休む。
 終日寝て暮した。隣室の横山君も不快だと云つて寝て居る。
 天井板の隙から、屋根の穴が見える。灰色に曇つた空が一寸四方程覗はれる。
 鉛の様な、輸廓の明かでない、冷たい、イヤーな思想が全心を圧して居る。同じ様な陰欝が胸の中にもあつて、時々矇々と動き出す。鮮かな血を三升も吐いて死んだら、いくら愉快だらうといふ様な気がする。小奴の写真を見て辛くも慰めた。
 夕方、同宿して居る根室銀行の鎌田昂君が来て、一寸でよいから一緒に行つてくれといふ。強ひての頼みに、雪融の悪路をゆくと、丸コへ引張込まれた。窓から港が見える。落日の色を染めた雲が低く、波高い海面を圧して、今日は艀が四艘沈んだと云ふ。その光景が目にチラツク。小静と助六。
 用は田代対見番の菊寿の問題であつた。それから、嘗て“明治の山田長政”と昨年四月頃の新聞に書かれた男が此鎌田君である事も聞いた。印度の話が面白かつた。
 鎌田が下へ行つて上つて来た時、其顔には或計画が閃めいて居た。芸者二人に秘密命令を伝へて、石川君を酔はせろと云ふ。癪にさわつたから、グイグイと飲んだ。二人を相手に無闇に飲んだ。鎌田は丸コ女将の頼みを享けて、僕と小奴の間に離間策――卑怯なる離間策を旋さんとした。噫、何と浅間しい世の中だらう。
 だまされた振をして、出て共に宝来座へ行つた。九時頃であつたらう。奴の“乳貰ひ”は昨夜よりも巧みであつた。が自分には何も見えなかつた。酔が全身に漲つて、頭が馬鹿にグラグラして、断間もなく疼く。奴は白酒などを寄越した。一寸逢つて、明朝来いといふて帰る。“人を馬鹿にしやがるな。”と幾十回繰返し乍ら、宿に帰りて寝て、疼く頭を抑へた。故もなき涙が滝の如く枕に流れた。
 
 

 
明治41年3月22日
私悪魔と戦つて勝つたのですネ
 
 啄木の釧路滞在時の「梅川操」についての評論は、どんな啄木評伝を読んでもあまり大差ありません。まず、有名な3月10日の啄木日記、
 
 朝、向ひの笠井病院の看護婦梅川操といふ女から手紙が来た。
 
の引用から始まり、そして次に、いわゆる「三尺事件」(芝居小屋の観客席で啄木にぎゅっと手を握られた小娘=三尺ハイカラがすっかり舞い上がってしまって、その後、啄木の周辺にチラチラ現れては、この落とし前=もっと深く交際したい…を迫るというひと騒動)の解説に入ります。
 この三尺ハイカラ側の調停特使として「梅川操」は啄木の前に登場。この「三尺事件」自体は、三尺ハイカラの熱が冷めたのか、啄木側のいなし方が上手かったのかどうかわかりませんが、3月18日段階で収束をむかえて行きます。つまり、それ以降、啄木・明治41年日誌から三尺ハイカラの名はすっと消えて行く。
 だが、不可思議なのはここから。梅川操の名はその後も登場し続けるのです。それも、啄木が釧路にいた時ばかりではなく。上京した後の啄木日記にまで梅川操は登場します。(つまり、啄木とほぼ時を同じくて梅川も釧路を出た!) そして、とどめは、あの『病院の窓』。梅川操という存在がなかったなら、絶対に生まれなかったであろう傑作…
 
 兎角して一時となつた。“石川さん、”といふ声が窓の下から聞える。然も女の声だ。窓を開けば、真昼の如き月色の中に梅川が立つて居る。“お客様がありますか”“あります”“誰方?”此時奴は梅川と聞いて、入れろと云ふ。“お這入りなさい。” (3月21日)
 
 ずさんな啄木評伝ならば、「三尺事件」の収束とともにこの3月21日のあたりで「梅川操」も退場します。でも、熱心な評伝作家ならば、必ずやこの3月21日以降にこそ注目するでしょう。その、啄木をめぐる二人の女が今夜対峙しているのです。(「闘っている」とは私が書いていない点に注意してほしい…)
 
 深夜の1時、小奴は、訪ねてきたのが「梅川」だと知って、あえて啄木の部屋の中に「入れろ」と言います。小奴は闘う気が充分ですね。(つまり、三尺ハイカラと同じ、ただの普通の女…) でも、梅川操の様子がとても変なのです。
 
 何といふ顔だらう。髪は乱れて、目は吊りて、色は物凄くも蒼ざめて、やつれ様ツたらない。まるで五六日も下痢をした後か、無理酒の醒めぎはか、さらずば強姦でもされたと云つた様の顔色だ。 (3月21日)
 
 部屋に入ってきた梅川操は、明らかに何か異変が起こった様子を啄木の前に隠そうともしません。けれど、何が起こったのかは語らないのです。時々寂しく笑ったり、うつむいて雑誌などをまさぐっているだけなのですが、そうかといって、一向に帰る気配はない。
 
 たいへん象徴的な場面だと思います。もしも小奴が同じような状況であったならば、絶対にこんなことはしないでしょう。佐藤衣川のような男から力ずくで言い寄られて、いかに危険な場面を逃れてきたのか…を滔々と啄木にまくしたてるでしょう。たとえ、深夜の一時、側に梅川操がいたとしても。(かえって燃え上がるかもしれない…私と梅川と、どっちをとるの?みたいな)
 
 だが、梅川操は、それをしません。黙って啄木の前にいるだけ。梅川操は知っているのです。それが、いちばん啄木に打撃を与える方法であることを。会社もサボり始め、女に逃避するしか能がないような男には何がいちばん打撃であるかを。(都合のいいことに今日はその女も一緒だ…) 梅川の視線はまっすぐに啄木を見ています。小奴なんか、じつは眼中にない。
 
 夢が結べぬ。それからそれと考へて、果敢ない思のみ胸に往来する。つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。 (3月22日)
 
 案の定、一夜が明けた3月22日日記からは、啄木は公然と「釧路がイヤになった」「頭が痛い、足がダルイ」を語り始めます。いったい釧路の何が不快不愉快なのか…日記を読んでいる私たちには全然理由がわからないのですが、とにかく22日から日記の調子はがらりと変わるのです。梅川操の作戦はまんまと功を奏したとしか思えない。
 
 
 『病院の窓』を読みなおしてからというもの、私は、従来の啄木研究がやっている「小奴vs梅川操」という捉え方はちがうのではないか…と思うようになりました。啄木を愛した女たちという視点で捉えられるのは「小奴vs三尺ハイカラ」までです。
 梅川操はちがいます。なぜなら、梅川操は「啄木を愛した女」ではないから。梅川操は「啄木が愛した女」なのです。あえて考えるというのならば、梅川操は、「啄木−堀合節子」の系譜にある人なのではないかと私は思っています。
 
 自ら歎き人を欺いてるだけ、どちかと云へば危険な女である。 (3月13日)
 
 此女も泣くのかと思つた。 (3月18日)
 
 大学の先生は別に男女の機微の先生ではないから、こういう屈折した表現には臆病なのでしょう。額面通りに「危険な女」を受けとっているか、あるいは、賢い先生は(これはもう学問の領域をはるかに逸脱した世界であるから)あえてこの「危険な女」の解釈を試みない…といった風に見えます。また、啄木研究家は、自身が「啄木を愛した」人たちである故からなのか、あまり「啄木が愛した」というベクトルでものを発想することはないように思えます。
 
 これはとても残念なことです。「どちかと云へば危険な女」と締めくくられる3月13日の日記など、私には、こんな美しいイメージに溢れた文章は明治文学にもそうはないと感じられるのですが。
 
 此女は、嘗て何処かで見た女だと思つて考へた。そして漸々解つた。去年の七八月の頃、函館に居で、或夕方友と共に、――確か白村君と翡翠君?――公園に杖を曳いた。通りぬけて谷地頭に打つて、また公園に来て、運動場に来ると、一群の小供らと共に、ブランコに乗つて居た、誰が見てもお転婆と見える一人の女があつた。其女は此女であつた。実に此女であつたのだ。現実修飾の悲哀を、(と自分は看た、)此女は感じて居る。男を男と思はぬ様な、ハシヤイダ、お転婆な点は、閲歴境遇が逆説的に作り上げた此女の表面の性格である。然し、二十四にして独身なる此女は、矢張二十四で独身な女である。心の底の底は、常に淋しい、常に冷たい。誰かしら真に温かい同情を寄せてくれる人もと、常に悶えて居る。自ら歎き人を欺いてるだけ、どちかと云へば危険な女である。 (3月13日)
 
 「危険な女」の前段はじつはこうなっていました。なんと美しい光景ではないでしょうか。啄木にとっても、いちばん平和で、それなりに豊かでもあった大火の前の夏の函館。そして、その夕方の公園。子どもたちとブランコに乗って遊んでいる梅川ミサホ。
 
 「現実修飾」の悲哀をいうのならば、それは啄木の方。啄木は、梅川操に恋している。
 
 
 3月22日以降の啄木日記の大変調は、単純に言えば、それは啄木の「自己嫌悪」ということになるのではないでしょうか。が、それについては次回で。
 
 「梅川操」イメージをかなり的確に今に伝えている作家として、私は、「原田康子」の名をあげたいですね。『病院の窓』を読んでいる時、なぜか私は、原田康子の『愛しの鸚鵡』に出てくるあの女学生を思い浮かべました。
 
次回は「3月24日」

 
 
 
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受付期間2004年4月28日(水)まで

昨年来、「おたるの図書館」ホームページ上で発表してまいりました「今日の啄木」を一冊の本にまとめます。価格は780円(送料とも)。予約部数のみの制作です。主な内容は、

明治四十年丁未歳日誌 石川啄木著 (5月〜12月原文)
明治41年日誌 石川啄木著 (1月〜4月原文)
明治40年・函館大火 (函館/明治40年5月5日〜9月13日)
北門新報社 (札幌/明治40年9月14日〜9月27日)
小樽と樺太 (小樽/明治40年10月13日〜10月31日)
忘れがたき人人・1 (函館〜小樽/明治40年5月〜7月/11月)
小樽日報と予 (小樽/明治40年12月11日〜明治41年1月3日)
東十六条 (札幌〜小樽/明治40年9月〜10月)
浪淘沙 (小樽〜釧路/明治41年1月19日〜2月2日)
啄木とかるた <4月号予定> (釧路/明治41年2月7日〜)
忘れがたき人人・2 <4月号予定> (小樽〜釧路/明治41年1月〜)
かの蒼空に〜小説家・啄木 <書き下ろし予定> (東京/明治41年5月〜7月)

 
 

 
絵はがき通信 啄木転々
石川啄木、明治40年北海道放浪の一年間を
毎月の絵はがき通信に載せてお送りします。
啄木、22歳。瑞々しい明治の青春。
 
HP連載の「今日の啄木」をベースにして、5月1日より、毎月1日発行。
申し訳ありませんが、ご希望の方は送料分をご負担ください。無料サンプル配布中。

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
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