五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.3.14
かくて此三人を“ビスケット会”と
 
 3月14日
 夜、歌留多会を開く。来会者、小泉、横山、羽鳥、野村、高橋、平尾、佐藤、と僕。久し振で腕は鈍りて居たが、自分が一、佐藤が二、横山が三。男許りで騒いでる所へ梅川が来て、遂々一の株を奪れた。
 女は一番遅くまで残つた。僕も横山も眠さうな顔したので三時半やうやう帰る。
 
 3月15日
三月十五日
 日曜日、第三小学校の児童学芸会へ午后一時から臨席。半日を天真燭慢の裡に遊んで夕刻帰宿。
 梅川と三尺が来て歌留多。小泉佐藤らも一寸来て帰つた。横山が巧く芝居をやつてくれて、三尺は、モウ之で満足だから今後来ぬと云ふて帰る。十時頃。横山と共に二人を送つて打つて、帰りに波止場の先の荷揚場へ行つた。十五夜近い月が皎々と照つて、ヒタヒタ寄せくる波の音が云ふ許りなくなつかしい。船が二隻碇泊して居る。感慨多少。名刺を波に流した、二人も流した、芸者の名刺も流した。潮が段々充ちて来た。自分らは、梅川の袂に入れて行つたビスケットを噛つて、“自然”だと連呼した。月が明るい。港は静かだ。知人岬の下の岩に氷交りの波がかかると、金剛石の如く光る。光る度に三人は声を揚げて“呀”と叫んだ。三人! 二人は男で一人は女! 三人は“自然”だと叫ぶ。三人共自然に司配されて居る。そして寧ろそれを喜ぶものの如くであつた。噫、自然が、自然が。此夜の月は明かつたが。“三月十五日は忘れまい”、と一人が云ひ出した。“さうだ、忘られぬ”と一人が応じた。かくて此三人を“ビスケット会”と名づけた。“ビスケット会は自然によつて作られ、自然を目的とす”と誰やらが云ひ出した。“毎月十五日には、お互何処に居ても必ずビスケットを食ふことにしませう”と女が附加した。二時頃月を踏んで帰つて寝る。
 三尺事件の前篇は、ビスケット会で結末になる。まだ後篇が必ずある、必ずあると云ふ様な気がして、我知らず眠つた。
 
 3月16日
 起きて見ると腹中形勢不穏。朝飯に章魚を喰つて愈々痛み出した。社を休む。何にも面白い事が無い。夜九時過ぎ、何か美味い物が喰ひたくなつて横山と共に近所の蕎麦屋へ行つた。隣室に小泉君と羽鳥が来た様子だつたので、横山と相談して、昨夜小泉君が名刺(女名の)で歎いた復讐をした。うまく行つて哄笑ひ。
 帰つて寝る。
 
 3月17日
 十二時起床。何とはなく不快で今日も休む。灰神楽に逢つた鉄瓶の尻みたいな顔をして、永戸が一寸来て行つた。
 夕刻、日景君が衣川子と共に来た。一緒に晩餐を認める。与謝野氏の手紙と“明星”が社に来て居たといふから、女中をやつて取寄せる。今月の応募歌題“瓶”の撰者を事後承諾で僕にして居る。手紙には、自然主義が大体から見て文壇の一進歩だと書いてある。
 梅川が、小さい花瓶に赤いリボンを結べて、燃ゆる様な造花の薔薇一輪をさしたのを持つて来た。日景君が散々椰楡する。
 日景君は自分の初恋の話をした。失恋といふ事は、恁麼男の性格まで変へるのかと思ふ。軈て帰つて行つて、佐藤と梅川残る。
 二人が帰るといふので、門口まで送ると、戸外には霜かと冴ゆる月の影、ウツカリ下駄をつツかけて出た。心地がよい。誰の発議ともなく、復、此間の晩の浜へ行つた。汐が引いて居て砂が氷つて居る。海は矢張静かだ。月は明るい。氷れる砂の上を歩いて知人岬の下の方まで行くと、千鳥が啼いた。生れて初めて千鳥を聞いた。千鳥! 千鳥!
 月影が鳴くのか、千鳥の声が照るのか! 頻りに鳴く。彼処でも此方でも鳴く。氷れる砂の上に三人の影法師は黒かつた。
 
 

 
明治41年3月14日
ビスケット会/啄木とかるた(2)
 
 潮が段々充ちて来た。自分らは、梅川の袂に入れて行つたビスケットを噛つて、“自然”だと連呼した。月が明るい。港は静かだ。知人岬の下の岩に氷交りの波がかかると、金剛石の如く光る。光る度に三人は声を揚げて“呀”と叫んだ。三人! 二人は男で一人は女! 三人は“自然”だと叫ぶ。三人共自然に司配されて居る。そして寧ろそれを喜ぶものの如くであつた。噫、自然が、自然が。 (3月15日)
 
 私は、3月15日の「ビスケット会」の文章は、かなり不思議な文章だと思っています。岩手山頂に立った宮沢賢治や保阪嘉内たちが感極まって雄叫びを上げているのならともかく、これは啄木日記ですよ。つい先日まで、小奴がどうしたこうした…といった調子でやっていた日記が、なんで急にこうなるんだ!
 
 名刺を波に流すという儀式(?)もよくわからないけれど、
 “三月十五日は忘れまい”
 “さうだ、忘られぬ”
 (此三人を)“ビスケット会”
 “ビスケット会は自然によつて作られ、自然を目的とす”
 “毎月十五日には、お互何処に居ても必ずビスケットを食ふことにしませう”
という展開には、おじさんお手上げです。若い人のやることはよくわからない…
 
 ま、しんねりむっつりの芸妓話なんかよりは、はるかに爆発していて心地よいですけどね。この調子でどんどん文体が壊れていってほしいっス。釧路の日記で初めて「おもしろい!」と感じましたね。啄木、若い!
 
 
釧路啄木歌留多(かるた)を復活 (釧路新聞 1999年4月12日)
 20年ほど前に啄木の“一人百首”として釧路で選歌され、かるたとして親しまれた「釧路啄木歌留多(かるた)」の頒布版を制作し、釧路の文化的な財産を掘り起こして将来的に観光振興にもつなげようという動きが市民有志の間で進んでいる。啄木歌留多制作実行委員会で、国際啄木学会釧路支部長の鳥居省三氏を代表に文学関係者など14人がメンバー。釧路の書家石原清雅さんが新たに書き起こした頒布版の制作、普及に取り組んでいる。
 
 
 
 左の写真は釧路の「港文館」附近。ここの車止めの石に「啄木歌留多一人百首」の一組が嵌め込まれています。上(左)の一枚が取り札、下(右)が読み札です。この取り札が問題。なんと「木」でできているんです。どうです。北海道の底力にぶったまげたでしょう!
 
 「啄木歌留多一人百首」は、北海道によく見られる「小倉百人一首」を模しています。これ(右下)です。北海道のおもちゃ屋さんならどこでも売っていますよ。かえって内地式の紙の「小倉百人一首」を探す方が難しいような気がする。(店員さんに説明しても、たぶんわからないだろうから…)
 余談ですけど、私、内地に用事で行く時は、おみやげの品としてこの「百人一首かるた」を愛用しています。旅行鞄に入れると重たいですけどね…
 
 なぜ北海道の「百人一首かるた」は木でできているんだろうか?も、じつはこの「重さ」が大きな理由なのではないかと私は思っています。ゲームのやり方が尋常じゃない。ボヤッとしていると、向こうからウエスタン・ラリアットが飛んで来るかるた大会ですからね!
 
 夜、歌留多会を開く。… (3月14日)
 
 梅川と三尺が来て歌留多。… (3月15日)
 
 啄木たちがやっていた明治41年・釧路の「かるた」については、次回で。
 
次回は「3月18日」
 

 
(仮題)
 
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受付期間2004年4月28日(水)まで
 

 昨年来、「おたるの図書館」ホームページ上で発表してまいりました「今日の啄木」を一冊の本に
まとめます。価格は
780円(送料とも)。予約部数のみの制作です。主な内容は、

 □ 明治四十年丁未歳日誌 石川啄木著 (5月〜12月原文)
 □ 明治41年日誌 石川啄木著 (1月〜4月原文)

 ■ 明治40年・函館大火 (函館/明治40年5月5日〜9月13日)
 ■ 北門新報社 (札幌/明治40年9月14日〜9月27日)
 ■ 小樽と樺太 (小樽/明治40年10月13日〜10月31日)
 ■ 忘れがたき人人・1 (函館〜小樽/明治40年5月〜7月/11月)
 ■ 小樽日報と予 (小樽/明治40年12月11日〜明治41年1月3日)
 ■ 東十六条 (札幌〜小樽/明治40年9月〜10月)
 ■ 浪淘沙 (小樽〜釧路/明治41年1月19日〜2月2日)
 ■ 啄木とかるた <4月号予定> (釧路/明治41年2月7日〜)
 ■ 忘れがたき人人・2 <4月号予定> (小樽〜釧路/明治41年1月〜)
 ■ かの蒼空に〜小説家・啄木 <書き下ろし予定> (東京/明治41年5月〜7月)

 
 

 
予約受付中!
受付期間2004年5月31日(月)まで
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り
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