五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.3.9
所謂三尺事件なる者茲に起る
 
 3月9日
 八時頃、飯も食はずに第三学校を辞した。或る漁夫が来て春採の潰家の話をしたからで。街上の雪は庇まで達して居る。衣川子を叩き起して春採行の命を伝へ、真砂町を帰ると、入口から雪へ隧道を掘つて、出て来た男を見た。生れて初めての大風雪、形容も何も出来たものぢやたい。雪は全く人間を脅迫して居る。
 社に行つたが、工場に雪が這入つて機械に故障あり、止むなく一日休刊。夕刻衣川子が来て報告、随分無惨の死を遂げたものもあるとの事。殆んど半日雪の中を歩かしたので、鶤寅へ晩餐を食いに行つた。酒は飲まなかつた。
 衣川から、今迄に三四回自分を留守中に訪ねて来た女が本行寺といふ真宗の寺の娘、小菅まさえ、三尺ハイカラと緯名された奴だと聞いた。そして鶤寅へ行く途中、真砂町の雪の中で逢つた。帰つて来て見ると、その後で訪ねて来たとの事。所謂三尺事件なる者茲に起る。
 
 3月10日
 朝、向ひの笠井病院の看護婦梅川操といふ女から手紙が来た。一度加留多会に逢つただけの人、不思議に思つて封,切ると、それは三尺娘から依頼されて、会見の日時を尋ねる手紙。返事は態とやらぬ。
 出社して、風雪被害の記事一頁書いた。田舎の新聞には惜しい程の記事と思ふと、心地がよい。
 心地よく帰つて来ると小泉君が来て居た。何日逢ふても気持のよい男である。社に使やつて十円とり、横山と三人出掛けたが、途中羽鳥に逢つて捕虜にし、鶤寅に繰込んで盛んに飲む。小奴は非常に酔うて居た。此日自分へ手紙出したといふ事であつたが、まだ届かぬ。(此夜の事を翌日“雪の夜の記”にかく)
 
 3月11日
 小奴の長い長い手紙に起される。先夜空しく別れた時は“唯あやしく胸のみとどろぎ申候”と書いてあつた。相逢ふて三度四度に過ぎぬのに何故かうなつかしいかと書いてあつた。“君のみ心の美しさ浄けさに私の思ひはいやまさり申候”と書いてあつた。今日も亦終日の大吹雪、八日程ではないけれど午后は全く交通杜絶。辛じて社から帰つた。籠城の準備の葡萄酒を買つて。
 八日以来各地との連絡全く杜絶、全道の鉄道不通、通ずるのは電信許り。
 夜に入つて雪は雨となつた。葡萄酒を飲んで小奴へ長い長い手紙の返事を長く長く書いた。俺の方では、名も聴かなかつた妹に邂逅した様に思ふが、お身は決して俺に惚れては可けぬと。
 
 3月12日
 昨夜は風雪の鳥小僧を帰して印刷出来ず、今日の新聞を今日十二時頃に漸々刷つた。其為明日ののは二頁。
 留守にまた例の三尺が来たと云ふ。
 上杉君葡萄酒を買つて来た。北東の野村、羽鳥も来た。十時まで語る。
 
 3月13日
 三尺事件には弱つて了ふた。名詮自称、背の極めて低い、庇髪の、獣の如き餓ゑたる目をした女で、東京に行つて居つたといふのが自慢。歌留多を種によく男を訪ねる。今迄にもをかしな噂に上つた事一度や二度ではない。その三尺女史が今自分を繁々訪問するとは何の事だ。訪問するだけならまだよい、臆面もなく梅川その他の人に向つて僕に対して云々といふ心中を打明けるとは抑何事だ。
 夜、梅川が来た。横山と二人で応接する。結局此第三者二人に全権を委任して、一度だけ三尺を連れてくる事、其時巧く芝居をやつて将来寄せつけぬ様にする事と議一決。
 梅川は十一時頃まで居た。そして色々な話をして行つた。年は二十四、背の高くない、思切つて前に出した庇髪を結つて、敗けぬ気の目に輝く、常に紫を含んだ衣服を着てみる、何方かと云へば珍らしいお転婆の、男を男と思はぬ程ハシヤイダ女である。其語る所によると、――女の母は釧路に、父は函館に、或事情からして別れて居る。母と頑固な伯父が、ズツト以前にきめて置いた許嫁があつた。函館に居た時、父も亦或熊本生れの軍医と許嫁にした。とある夏、女は母が大病といふ電報で釧路に呼び帰されたが、大病な筈の母が波止場に出迎へて居た。本人は進まなかつたが、許嫁との縁談が漸く熟して、先づ毎日其家に行つて居る事になつた。朝に行つて夕方に帰る。然し本人は当時脚気で熊本に行つて居る軍医がなつかしくて、当の男は厭であつた。熊本から正式に申込書が来た時は、然し乍ら、断つてやつたさうな。既にして男は、女の友達なる或女と関係を結んだ。ソレが却つて当時の自分に嬉しかつたと女は云ふ。(無論これは負惜みだ。)やがて此縁は切れて、或女は此女と位置を代へた。日露の戦役が起りて、予備中尉なる男は従軍した。そして間もなく旅順で戦死した。此戦死も毫も心を動かさなかつたと女がいふ。女は東京に出た。そして造花を習つた。当時熊本生れの軍医は東京に居て、妻もあり、子もあつた。訪ねて行くと、其妻君は実に実に親切な人で、宛然妹の如く遇してくれた。それを喜んだのは此方の弱い所、嬉しいと思つて時々訪ねるうちに、細君は段々変つて来た。著しく変つて来た。女といふものは怎して恁麼ものでせうと梅川は嘆した。茲に於て、女の東京に居るべき根本の理由がなくなつた。残骸の如き女は、恨みを呑んで函館に帰つた(昨年四月?)。そして造花の先生をして居たが、火事に逢つて釧路に帰つて、上京前にも居た事があつたから再び笠井病院に入つたといふ。此女は、嘗て何処がで見た女だと思つて考へた。そして漸々解つた。去年の七八月の頃、函館に居で、或夕方友と共に、――確か白村君と翡翠君?――公園に杖を曳いた。通りぬけて谷地頭に打つて、また公園に来て、運動場に来ると、一群の小供らと共に、ブランコに乗つて居た、誰が見てもお転婆と見える一人の女があつた。其女は此女であつた。実に此女であつたのだ。現実修飾の悲哀を、(と自分は看た、)此女は感じて居る。男を男と思はぬ様な、ハシヤイダ、お転婆な点は、閲歴境遇が逆説的に作り上げた此女の表面の性格である。然し、二十四にして独身なる此女は、矢張二十四で独身な女である。心の底の底は、常に淋しい、常に冷たい。誰かしら真に温かい同情を寄せてくれる人もと、常に悶えて居る。自ら歎き人を欺いてるだけ、どちかと云へば危険な女である。
 
 

 
明治41年3月9日
所謂三尺事件なる者茲に起る/啄木とかるた(1)
 
 朝、向ひの笠井病院の看護婦梅川操といふ女から手紙が来た。 (3月10日)
 
 この朝の手紙から、いわゆる(啄木が命名したところの)「三尺事件」がスタートします。10日の日記は、こんな風に続きます。
 
 ………[梅川操は]一度加留多会に逢つただけの人、不思議に思つて封,切ると、それは三尺娘から依頼されて、会見の日時を尋ねる手紙。返事は態とやらぬ。
 
 珍しい「三尺ハイカラ(=小菅まさえ)」の写真が北畠立朴氏の『啄木に魅せられて』(北龍出版,1993)に掲載されていました。晩年の写真と思われますが、大変貴重な資料ですので丁寧にコピーさせていただきます。私もこの一枚以外、「三尺ハイカラ」の姿を見たことがありません。
 
 そして、「梅川操」写真については、(これまた異例ですが…)「3月13日」日記原文の途中に織り込みました。どうしてもここしかない!と直感したのです。
 
 1月以来ちんたら書き散らされてきた「明治41年日誌」が、この「3月13日」あたりを境として急速に締まった文章に変貌して行きます。どう考えても、ここが、真の意味での釧路〜東京へ転回点と私には思えてなりません。
 
わが室(へや)に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日
 
 
 最近の『岩手日報』にも「かるたで親しむ啄木の歌」という記事が載ってました。
 
かるたで親しむ啄木の歌 (岩手日報 2004年2月23日)
 
 啄木生誕祭・啄木かるた大会(実行委主催)は21日、玉山村渋民の村中央公民館で開かれ、村内の小中学生94人が啄木文学の一端に触れながら競技を楽しんだ。
 小学校(低学年、高学年)と中学校の部に分かれ、個人と3人1組の団体戦が繰り広げられた。啄木記念館学芸員の山本玲子さんが上の句を読み上げると、参加者は真剣な表情で札を追った。
 「啄木かるた」は石川啄木の歌から100首を選んで作られた。啄木の歌をどれだけ覚えているかが勝負の鍵を握る。
 中学校の部個人戦で、80枚という圧倒的な記録で優勝した久保有希子さん(巻堀中3年)は「友達と優勝目指して練習してきたかいがあった」と笑顔を見せた。
 今大会に一般からの参加者がいなかったこともあり、啄木記念館の嶋千秋館長は「さらに参加者の輪が広がってほしい」と願っていた。
 個人戦入賞者は次の通り… (以下略)
 
 啄木のかるた大会は全国いたるところで行われています。例えば、釧路では。
 
本行寺の門信徒会報が創刊40周年 (釧路新聞 2003年1月6日)
 
 本行寺(釧路市弥生町2)で1972年から発行している門信徒会報が、2003年1月号で創刊40号を迎えた。創刊号発刊後しばらく休刊したが、82年に再開後は、年約2回の発行を続けている。特別法話や日曜礼拝、信徒たちの思いをはじめ、啄木かるた大会の模様なども紹介され、「門信徒会運動」の活性化に貢献してきた。創刊当時から編集に携わってきた菅原幸仁住職は「過去の人の血、汗、涙を土台に、新しく今を大切に生きなければならない。会報発行も同様、先人の軌跡をしっかりと受け継いでいく」と語っている。
 
 本行寺は「三尺ハイカラ」の家ですね。啄木との縁を大事に守って、境内には私設の啄木資料室もつくられています。(釧路には本当にこういう人たちが多いなぁ…)
 
 
 夜、歌留多会を開く。… (3月14日)
 
 梅川と三尺が来て歌留多。… (3月15日)
 
 明治41年・釧路の「かるた」って、いったいどんな感じなんでしょうね。今で考えると、若い人が貸スタジオに集まってバンドの練習でもやってるような感じだろうか。
 
 啄木たちがやっていた(だろうと思われる)北海道独特の「下の句かるた」については次回でとりあげます。説明するのにもうちょっと勉強が必要。(私も子どもの頃から「これが百人一首だ!」と堅く信じて生きてきましたから、やろうと言われれば今でもできるんですけど、ただ、それを内地の人にわかるように説明するってのは意外と難しいのよ…あまりにも日本の伝統美からはかけ離れた植民地の室内格闘技なもんで。)
 
 「啄木歌留多一人百首」が「楽天フリマ」に出てますね。さすが珍しものだけあって、けっこうなお値段だ…
 
 「啄木」×「かるた」のキーワードで検索していたら、こんな「啄木かるた」を見つけました。 「中原淳一啄木かるた」。 そういえば、これ、函館の文学館で売ってるの、見ましたね。「啄木」×「中原淳一」×「かるた」という意外なコラボレーションでしたが、妙に函館の街の佇まいにマッチしていたのを思い出します。
 
次回は「3月14日」
 

 
(仮題)
 
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受付期間2004年4月28日(水)まで
 

 昨年来、「おたるの図書館」ホームページ上で発表してまいりました「今日の啄木」を一冊の本に
まとめます。価格は
780円(送料とも)。予約部数のみの制作です。主な内容は、

 □ 明治四十年丁未歳日誌 石川啄木著 (5月〜12月原文)
 □ 明治41年日誌 石川啄木著 (1月〜4月原文)

 ■ 明治40年・函館大火 (函館/明治40年5月5日〜9月13日)
 ■ 北門新報社 (札幌/明治40年9月14日〜9月27日)
 ■ 小樽と樺太 (小樽/明治40年10月13日〜10月31日)
 ■ 忘れがたき人人・1 (函館〜小樽/明治40年5月〜7月/11月)
 ■ 小樽日報と予 (小樽/明治40年12月11日〜明治41年1月3日)
 ■ 東十六条 (札幌〜小樽/明治40年9月〜10月)
 ■ 浪淘沙 (小樽〜釧路/明治41年1月19日〜2月2日)
 ■ 啄木とかるた <4月号予定> (釧路/明治41年2月7日〜)
 ■ 忘れがたき人人・2 <4月号予定> (小樽〜釧路/明治41年1月〜)
 ■ かの蒼空に〜小説家・啄木 <書き下ろし予定> (東京/明治41年5月〜7月)

 
 

 
予約受付中!
受付期間2004年5月31日(月)まで
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り
400円(送料共) ※スワン社で取り扱っています