五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.2.28
夜は三時に寝て、朝は十時に起きる
 
 2月28日
 朝起きて、せつ子からと小国君からの手紙を読む。せつ子は第二の恋といふ事を書いてよこした。何といふ事なく悲しくなつた。そして此なつかしき忠実なる妻の許に、一日も早く行きたい、呼びたいと思つた。京子の顔も見えた。
 社に行つて、小僧に十五円電為替小榑へ打たせた。今日は何となく打沈んだ日だ。編輯に気が乗らぬ。心が曇りて居る。
 旋網漁業に関する社長からの特電を号外として山さして、四時頃帰る。アトは三人に委せて来た。社長へ打電して、小奴が一昨夜から胃痛で居るのへ見舞に行く。寝て居た。ぽんたは頻りに介抱して居る。随分苦し相である。心は益々重くなつて五時帰る。
 宮崎君からまた十五円来た。遠藤君が来て、第三小学校改革に関して、記事を中止する事を申込む。帰つて行つてから、宮崎君へ手紙認めた。八時頃小奴の許へ、手紙やつて、見番の出資者を訊したが、知らぬといふ返事が来た。
 
2月29日
 昨日来た日高の大嶋君の手紙を繰返して読む。下下方小学校の代用教員とは何の事だ。噫、自から人生の淋しき影をのみ追ふ人、自から日の照る路を避けて苔青き蔭路を辿る人! 大嶋君は怎して斯ういふ人だらうと、自分は悲しさに堪へぬ。去年の七月末、風もなく日の照る日の事だ、函館の桟橋で白い小倉の洋服を着た君の、背をそむけて去る後姿を見送った時の光景が目に浮ぶ。盛岡の師範学校に居る千葉春松君から、其作を浄書した“十三絃”の一葉と、謄写版刷の雑誌“満潮”一部に、丁重なる手紙を添えて送って来た。何といふ事はない、自分は無性に七八年前の白羊会時代が恋しくなつた。不来方の古城の跡の蔦の葉が見たくなった。アノ内丸の時の鐘の、蒼古の声が聴きたくなった。
 岩見沢の姉からも手紙が来た、光子は病気で小樽に行つて居るといふ。社へ行つてから、遠藤君から十二円八十銭送つて来た。宮崎君の為替も受取らした。五時〆切つて帰る。途中方々の払を済し、松屋の佐々木君から自分の“あこがれ”一部没収して来た。
 今月自分の手に集散した金は総計八十七円八十銭、釧路へ来て茲に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌なと、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。
 然しこれも不可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。
 一切の仮面を剥ぎ去った人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。
 石川啄木!!!
 
 弥生 3月1日
日曜日。
 工場の者が二人来て、起された。十一時。小野清一郎君からハガキと盛岡中学校々友会雑誌を送つて来た。間もなく永戸が正宗二本持つて来て、牛鍋で飲み初める。此男は矢張駄目だ。漸々一本平らげた所へ北東の小泉君が遊びに来た。男らしい気持のよい人間だ。相携へて鹿嶋屋へ行く。
 飲み、且つ食ふ。小泉君はお国自慢の磯節を歌ひ、且つ北東社中の機密まで赤裸々に語つた。横山をとる事議一決。さて、市子は可愛いゝ眼をして無邪気な話をする女だ。酒が廻つてから一つ宛自分の惚れられた話をする事になつて。小泉君は電車の中の束の間の恋を談つた。市ちやんは小学時代の稚い恋物語をした。四時頃帰宅。敗徳教員問題について、教員五名連署の記事中止申込書が来て居た。
 雪が頻りに降つて居る。夜また工場の者が来た。十一時前に枕についたが、二時過ぐる迄眠れなかつた。
 
 3月3日
三月三日
 朝、横山君が訪ねて来て、今夜この下宿へ来る事に決定。
 編輯は早く締切る。日景主筆が今暁四時無事鉄道操業視察を終つて帰社したので、五時から鶤寅亭に慰労会を開いた。南畝氏を初めとして、社中同人一同、小南、衣川、?水に予。校書は小蝶、小奴、ぽんた、後で妙子といふのも来た。小奴は予の側に座つて動かなかつた。酔ふて九時半頃散会。出る時小奴は一封の手紙を予の手に忍ばした。裏門の瓦斯燈の仄暗き光に封を切ると、中には細字の文と共に、嘗て自分の呉れてやつた紙幣が這入つて居た。小奴の心は迷うて居る。予は直ぐ引返して打つて玄関をあけた、奴を呼んで封筒のまゝ投げて返す。
 本行寺の加留多会へ衣川と二人で行つて見たが、目がチラチラして居て、駄目であつた。帰りに小奴に逢つた。宿には横山城東子が約の如く待つて居た。今夜から隣りの部屋に居るのだ。
 
 3月5日
 夜に入つて吹雪となつた。窓の硝子が礑めいて、飃々たる風の音、何とはなく心地よく胸に響く。城東子と連立つて鹿島屋に進撃した。追風を背に受けて、人一人通らぬ真砂町を走つた。
 既にして市子が来たが、常の如くでない。小奴に金色夜叉を置いて来た事を一晩怨まれた。
 一時頃帰つて大笑ひ。
 
 3月6日
 夜、北東の小泉奇峰君と語る。朝に四合、夕に四合、酒がなければ生きて屠られぬといふ男で、常に都の空を慕うて居る。男らしい、邪気のない、少しも隔てのない男だ。
 
 3月7日
 今日は記者月例会、早く締切つて富士屋にゆく。会する者十一名、月番幹事の永戸が一番殺風景で、一番遅く来た甲斐君が一番愛嬌を振巻いた。席上、記者倶楽部建設(予算三千円)の件を決議。旋網漁業組合から一千円出させるといふ軍略。それから趣意発表を兼ねて資金造成の演劇会をやる事も決し、真下相談として、九時頃から花輪君、青川君、衣川と四人鶤寅亭に飲んだ。
 
 3月8日
 日曜日。十一時半起きたが、戸外は凄まじとも何とも云はん方なき大風雪。
 第三学校に児童学芸会がある筈だつたので、一時頃、蛮勇を揮つて独り行つだ。途中二度許り雪中に立往生せんとして漸く辿りついたが、会は一週間延期。夕刻、人々の止めるもきかで帰らうとしたが、少し来て歩けなくなり、再び学校に引返して遂々泊つた。布団四枚に男八人。夢も結び難き大荒で、戸が脱れて硝子の壊れる音凄じかつた。
 此日の風雪で春採其他に多数の潰家及び圧死者が出来た。
 
 

 
明治41年2月28日
夜は三時に寝て、朝は十時に起きる
 
 退屈そうな毎日。この十日の間で唯一おもしろかった出来事は、8日の、暴風雪をついて第三学校の児童学芸会取材に出たのはいいが、学校から戻るに戻れなくなって、結局一晩、布団四枚に男八人が雑魚寝をして雪に閉込められた…という記事くらいかな。でも、これも、文章の味わいとしては、なんか啄木フレーバーとはちがう種類の面白さではないかとも思いますけれど。(椎名誠じゃないんだから…)
 釧路に来て、ほぼ一ヶ月。酒も覚え、夜遊びも板についてきて、文才も適度に錆びついてきたみたいですね。いい色、出してます(笑)
 
 
 まあ、遊び呆けている啄木はうっちゃっておいて、この弛んだ時期を利用して野口雨情の文章『石川啄木と小奴』について考えてみたい。青空文庫はこちらです。
 
 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。 <中略>
 そこで我等扈従記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼(まるまんろう)で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。
 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢は二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は
『小奴とは君かい。』
と聞いてみた。すると
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さうに私の顔をみる、私は
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』
『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』
『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』
 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。
『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』
『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処にゐらつしやるのでせうか。』
 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。
『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』
『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。
 (野口雨情「石川啄木と小奴」より)
 
 以前に引用した『札幌時代の石川啄木』をお読みになった方なら御存知だと思いますけれど、野口雨情の「啄木」に関する記憶は滅茶苦茶です。九割がた間違っている。この『石川啄木と小奴』も、一見すると、生前の石川啄木を伝える貴重な資料にも見えますが、なかなか一筋縄ではいかない野口証言ではあるのですよ。
 九割がた間違っているのだが、でも、間違いや勘違いをかき集めてみると、意外や意外、当時の「啄木」像のかなり鮮明なデジタル再生に成功している!みたいな、変な効果があるのです。雨情の文章には。いわば啄木伝説における「ゴクリ」役とでも申しましょうか。(指輪の正しい在処だけは知っているんだよね…)
 
 例えば、文中、小奴は言う。「東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません」と… これなんか、典型的な雨情パターン。小奴は、啄木が東京のどこにいるか、知ってるはずですよ。だって、同じ明治41年に東京で啄木に会っているのだから。
 
 明治41年 12月1日 釧路の小奴、逸見豊之輔と上京、啄木を蓋平館に訪ねる。
 (石川啄木全集・第8巻「伝記的年譜」より)
 
 要するに、野口雨情はからかわれているんです、小奴に。皇太子の北海道行啓にくっついてきた番記者サラリーマンに、プロの接客女性が、そう簡単に手の内を明かしてくれると思う方がどうかしている。小奴は酔っぱらいのお相手をしているだけなんですよ。
 
 
 けれど、なぜか憎めない野口雨情。
 
 この宴会の後、雨情は小奴から「石川さんのお話もお伺ひしたうございますから、お帰りに私の家によつて下さい、人力車でいらつしやればすぐでございます。小奴」という手紙をもらう。
 
 で、家へ駆けつける。「小奴ショー」第2部の始まり…
 
『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』
と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、
『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。
 (野口雨情「石川啄木と小奴」より)
 
 けれど、なぜか憎めない野口雨情だ。(あまり面白いので、次回もこの「石川啄木と小奴」話題を続けます。)
 
 この明治41年は閏年で、今年と同じように2月29日があります。最初の考えでは、29日で一度「今日の啄木」を区切って、3月1〜8日でもう一本原稿をあげようかとも思っていたのですが、別の事情ができて(私事です)急きょ3月8日までをまとめました。長い文章になって申し訳ない。
 
次回は「3月9日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
 
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