五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
明治41.2.21
市ちやんと鶤寅の小奴は仲々の大モテで
2月21日
日景君に起された。秋浜融三君から、今度の日曜に出釧して逢ふと云ふ手紙が来た。
今日は急しい日であつた。明日の紙上に附録とすべき釧路発達状態一覧の統計を編んだ。午前中に視察隊の一行が来て、一緒に社の前で撮影した。緑子は一行を案内して安田の炭山などへ行く、自分は午後四時漸々斧を揮つて編輯を締切つた。
沢田君と共に帰ると、北東の横山城東が来た。別室で話して、今日先方を退社された事を聞いた。理由は、僕の方へ運動したからといふのださうな。両三日中に此下宿へ来る事、そして僕の方へ入社する事を決定した。
刑事の三浦君も訪ねて来た。七時沢田君と共に、有志発起の視察隊歓迎会に望む。会場は喜望楼。来会者約八十名に上り、仲々盛会であつた。樽新の坂牛君、タイムスの小川君、道庁属にして詩人夜雨君の見たる横瀬君らに逢ふ。市ちやんと鶤寅の小奴は仲々の大モテで、随分と面白い演劇もあつた。帰りに一行の密なる三浦屋を訪ねて、小川黙淵君と築港問題について談る。
少なからず酔ふて居た。十二時眠る。
2月22日
一行と共に日景君も今朝七時旭川に向けて出立した。出社すると函館の西堀秋潮君から絵葉書が来て居た。
小奴が佐藤君を今朝訪ねて、何か僕の事を云つたとかで、少し油をとられて大笑ひ。四時に締切る。今夜は、二十日に初号を出した実業調査会機関の“釧路実業新報”創刊祝で、南畝氏の招待をうけ、同人と共に六時鶤寅に行つた。北東からは西嶋社長と花輪君、タイムス支社の太田君、北海旭の甲斐君、外に神稲葉君らで、小蝶に小奴に春吉、小奴のカッポレは見事であつた。
釧路へ来てから今夜程酔うた事はなかつた。十時半景気よく送出されて帰宿、その儘枕についた。此日社から今月分俸給二十五円受取つた。
2月23日
今日は日曜日。秋浜融三君が来るか来るかと待つたが、遂に来なかつた。岩手の小笠原迷宮君から珍らしく久振の手紙が来た。
夕方、林君が来て、晩餐を共にした。
夜、南畝氏を誘うたが留守。タイムス支社の太田君を誘うて十時頃話す。誠に角のとれた人で、十二になる娘のきくちやんは可愛い児である。
2月24日
朝から晩まで、“雲間寸観”を初めとして三百行も書く。終日筆を放たずに、昼飯を喰ふのも忘れた。
五時頃締切つて帰ると、秋浜君から、昨日来られなかつた詫状が来て居る。林君から明朝立つて札幌に帰るといふ手紙と共に、煙草一箱を贈つて来た。
九時頃、衣川子を謡ひ出して鶤寅亭へ飲みにゆく。小奴が来た。酒半ばにして林君が訪ねて来て新規蒔直しの座敷替。散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。小奴はぽんたと二人で、老婆を雇つて居る。話は随分なまめかしかつた。二時半帰る。
小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活溌な気持のよい女だ。
2月25日
社から帰ると夕飯、詞壇の歌をかいて居るところへ横山君が来た。晦日には愈々此下宿へ来るといふ。一緒に出掛けて、鶤寅へ行つたが、室がないとの事で仕方なく、或る蕎麦屋へ行つた。小奴へ手紙やつて面白い返事をとる。
一時頃まで喰つて飲んで、出かけると途中で変な男に出会した。跡をつけて見たが二時間許り、時間を空費したに過ぎなかつた。
2月26日
自分の対北東策は着々として成功して行く。誠に心地がよい。
朝起きて和賀君からの手紙と岩崎君のハガキ、社に打つて松坂君の手紙。帰つて来て向井君の旭川出張先からのうれしい手紙と、昨日打電して置いたに対する宮崎郁雨君からの三十五円の電報為替を受取つた。友の厚意は何と謝する辞もたい。
小南衣川?水三子に誘はれて、鹿嶋屋に行つた。今日はオゴラセられた。市ちやんの踊。
十一時頃、小南?水と鶤寅へ進撃、すぐかへる。
2月27日
電為替を受取つたので、気持がよい。夕刻鹿嶋屋へ寄つて、佐藤南畝氏を訪ふ、快談一時間。帰りに衣川、小南、?水三子に逢ひ、つれて帰りて一緒に牛鍋の夕飯。遠藤君が来て居た。三人が帰ると、工場の福嶋が来たから金を呉れて探訪にやる。遠藤君と鶴寅に行つた、中家正一(第三学校教員)といふ人が来て初対面、大に飲む。すずめに大に泣きつかれる。
明治41年2月21日
市ちやんと鶤寅の小奴は仲々の大モテで
この時、小奴、19歳。市子が16歳。彼女たちの写真を見ていると、なにかしら今の私たちが考える芸者さんのイメージとは少しちがうものを感じます。テレビは言うまでもなく、映画館すらない時代(釧路に初の映画館ができるのは啄木が釧路を去った翌年の明治43年)、当時の「芸妓」は、今の地方ローカル局の人気キャスター姉ちゃんみたいなもんかな…とも思いますね。地方に出張で行った時なんか、昼間の民放テレビやFMでワーキャー騒いでいるアナウンサーとか名物キャスターたちのワイドショー番組なんかを目にすることがありますけれど、あんな感じじゃなかったのかなぁ…スタジオでの大宴会が夜のお座敷に変わっただけの話で。
(小奴) (市子)
だから啄木は厭がったのではないでしょうか。小奴たちの人柄がどうこうという問題ではなくて、こういう田舎のドンチャン騒ぎの中で「東京から来た人」として便利に使いつぶされ、地方レートで適当に値踏みされて行くことを警戒したのではないでしょうか。これを止めさせる方法は今も昔もひとつしかありません。夜逃げです。
啄木のとった作戦は大筋で正解だと思いますよ。ぼやっと小奴たちと活動写真を観ていたら、今日の啄木はありません。浅草の夜の孤独にトゥルビヨン号の飛行を観ていればこそ、「見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に/飛行機の高く飛べるを。」という美しい詩は生まれたのだから。
そして、釧路には、釧路でなければ生まれえなかった美しい詩が。これは、昭和26年、釧路新聞社の旧社屋を訪れた金田一京助と小奴(近江じん)の写真です。啄木死して、すでに40年ばかりの歳月が流れています。
なんか…胸を打つ一枚ですね。
次回は「2月28日」
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
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