五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.2.16
洋燈の光に友の寝顔を見つつ眠る
 
 2月16日
 今日は日曜日。十時起床。
 手紙二通、函館の斎藤大硯君と吉野白村君から来た。大硯君は総選挙まで函館日々新聞へ筆をとる事になったといふ。吉野君の転任問題は、要するに俸給問題である。
 十一時、支庁の梶君を其自宅に訪ふたが、留守。名刺と吉野君からの手紙を置いて来た。佐藤国司君を誘うたが矢張留守。斬髪して、予て毛生薬を貰ふ約のある釧路病院の俣野君を訪ふ。これも留守。今日は人間が皆家に居ぬ日だと思ふ。
 今日は正午から釧路座へ集つて、釧路北東両社合同演劇の稽古をする筈なので、行つて見ると、日景君を初め二三の人が早来て居た。芸題は“無冠の帝王”一名“新聞社探訪の内幕”ときまり、全三場、予は第一幕及び第三幕には新聞社主任記者として登場し、第二幕には大山師の乾分となりて出ることになった。(一)新聞社主筆室。(二)料理店客室。(三)編輯局。三時半頃から既に詰かけた会衆があつた。これは今朝の新聞に、定刻前に来なくては入場することが出来ぬと書いて置いた為である。新聞の勢力と云ふものは、意外に強いものと思つた。丸コへ行つて夕食を了へて来ると、既に開会に間がない。
 有馬君の琵琶は、今夜余程声がよくなって居た。ヰオリンと琴の合奏やら剣舞やらで、八時頃愈々芝居になる。僕は顔に少し白粉を施こし眉をかいた。第一幕は日景君と予との対話で幕があいた。土地喰山師花輪(北東)が上杉伯爵に伴はれて来て、此日の紙上で攻撃された事を弁解し、帰りに袖の下を置いてゆく。僕が佐藤探訪を呼んで精探を命ずると幕。第二幕は料理屋奥座敷で、花輪と其乾分たる僕が密議を擬す。隣室で佐藤が一々話をきゝ取るといふ仕組。北東の横山君の芸妓お佐勢は実に巧かった。第三幕は編輯局、模様よろしくあつて佐藤帰り来り、精探の結果を僕が書く。北東の西嶋社長の予審判事が家宅捜索に来る。僕が委細弁明して帰す。それを呼びとめて新聞記者は無冠の帝王だと威張る。幕。
 芝居は一回の稽古だにしなかったのに不拘、上出来であった。十時半に済む。それから丸コへ行つて大に飲むで、一時半帰る。
 今日は、どうしたものか、大に浮かれた。
 
 2月17日
 起きてせつ子と母の手紙を見た。社に行つて珍らしくも、小樽に居る野口雨情君の手紙に接した。今日は編輯局裡深く宿酔の気に閉されて、これといふ珍談もない。緑子は頭痛のため正午帰宅、小南子亦早退。四時頃〆切つて帰ると、角掛清松の手紙は此方へ来たいから旅費を呉れといふ。宮崎郁雨君からは、其結婚問題に就いて意見をもとめて来た。
 郁雨君へは早速返事をかいて、其昔の恋人の妹なる人に母となることを勧めた。晩餐を済して佐藤南畝氏を訪ひ、北東の横山分取案を話し、八時半帰つて来ると、モ少し先に女の方が訪ねて来たといふ。よく聞いて見ると、本行寺の娘さんらしい。今日同寺で愛正婦人会の総会があったのだが、社の都合で行けなかった。
 昨日留守中に釧路病院長の俣野君が置いて打つて呉れた毛生液を今夜からつけ初めた。
 
 2月18日
 夜、植木へ手紙書いて、風呂に行くと、工場の者が二三人来合せた。つれて帰りて、お菓子をくはしてやる。
 一時就寝。
 この日堀田秀さんから手紙が来た。
 
 2月19日
 この日、本道鉄道冬季操業視察の新聞記者一行歓迎委員として、緑子旭川に向った。新聞上一切の責任がこの一身にある。
 二十二日の新聞に附録とすべき統計の調査を命じて、午後二時〆切る。風邪の気味で筆とる気にも成れぬので、ブラブラ出掛けて第三学校の後の窪地に遠藤君を訪ねた。夕食を喰つて帰りて、浦見町に南畝氏を訪ねる。讃井君も来て居た。色々話して九時帰る。
 
 2月20日
 起きて楊枝をつかって居る所へ、内国生命の林?君が来た。初対面の挨拶よろしく、一寸気持のよい男で、八字髯が長い。
 出社。昨夜遅く書いた“増税案通過と国民の覚悟”を載せる。
 夜、また林君が来た。操業視察隊一行の出迎は失敬して、一緒に鹿島屋に飲む。市ちやんは相不変の愛嬌者、二三子といふ芸者は、何となく陰気な女であった。強いてハシャイデ居る女であった。十一時出たが、余勢を駆って、鶤寅へ進撃、ぽんたの顔を一寸見て一時半帰る。
 室に入つて見ると、誰かしら寝て居る者がある。見るとそれは沢田天峯君であつた。小樽日報特派員として視察隊一行と共に来た沢田君であつた。話はそれこれと尽きぬ。桜庭嬢の事も聞いた。母者人が頑固なため容易に物にならぬといふ話。それから室蘭で金六といふ芸者に惚れられた事、札幌で生れて初めて遊廓に遊んで、松が枝といふ太夫の美しかつた事、……午前三時半枕に就く。
 枕を並べて寝て、えも云はれぬ心地がする。なつかしいものだ、友達といふものは。
 洋燈の光に友の寝顔を見つつ眠る。
 
 

 
明治41年2月16日
洋燈の光に友の寝顔を見つつ眠る
 
 この頃の小樽の様子。
 
 沢田によると、釧路に行ったら早く家族を呼び寄せるようにして、それまでは生活費を月十円以上は送るように約束させていた。しかし、その約束はまったく果たされなかったのである。沢田が留守宅を訪ねてみると、障子も襖もない空き家同然であった。昔の借家は、障子や襖、畳などは入居してから自分で買い揃えるものだったのである。行灯と火鉢だけで、母と妻と娘は三人で寒々と身を寄せ合っていたという。啄木からの送金がないために、障子などは今朝売り払ったと母が言い、節子は下を向いたまま目に涙をいっぱい溜めていたという。畳も売ってしまったのだが、今日だけはと借りているとのことであった。一銭の送金もなく、節子は二、三日おきに沢田の母親の元に来て、米や木炭、漬物などを借りていくようになったという。 (理崎啓著「詩人の夢」)
 
 
(家族が住んでいた小樽の住居)
 
 同じ頃、釧路の啄木。
 
 沢田が釧路を訪問した折り、啄木の元を訪ねたことがあった。部屋は調度品もなにもない八畳間で、ランプを載せた小机と硯箱、インクの瓶が一つあるだけで、書籍は一冊もなかったという。ほとんど本も読まなかったのであろう。部屋でいくら待っても啄木は帰って来ず、朝八時頃になってようやく現れた。芸者と遊んでいたのだと照れながら話したという。 (同書)
 
 そうですか…
 
 しかし、啄木日記には、真夜中に帰って来て三時頃まで沢田と話し合ったとある。沢田が嘘をついても何のメリットもないのだから、啄木日記の虚偽は明白である。ここでもやはり、日記の操作が見られる。 (同書)
 
 明治41年日記、釧路2月20日。
 
 枕を並べて寝て、えも云はれぬ心地がする。なつかしいものだ、友達といふものは。
 洋燈の光に友の寝顔を見つつ眠る。
 
 うーん、かなり末期症状という感じですね。もはや、言葉もない…
 
 
次回は「2月21日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
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