五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.2.7
小静の事を少し書いて置かうか
 
 2月7日
 四時半頃、帰らうと思つて社の玄関まで出ると、弥生で.代用教員して居た時代の同僚遠藤隆君の訪問をうけた。一緒に下宿に帰りて、飯を喰ふ。昨年十月当地に来て、第三小学校に出て居るといふが、実に意外な邂逅であつた。第三学校は当町で一番成績の悪い、醜聞の多い学校だ。一つ内情を聞かうと思つたが、仲々話さぬ。乃ち社長から貰ふた時計を五円半に質に入れて来て、共に出かけた。喜望楼の五番の室は暖かであつた。芸者小静よく笑ひ、よく弾き、よく歌ふ。陶然として酔ふて、十二時半帰宿。喇叭節の節が耳について居て、眠を妨げられた。
 今日なつかしくも函館の宮崎君から、手紙が来た。釧路の人となつて以来、何だか余りに人間の世界から離れた様な気がして居るので、手紙といふ手紙のなつかしい事。
 
 2月8日
 今日は時計が無いので、何となく張合がなかつた。習慣といふものは恐ろしいものだ。
 昼頃、一寸支庁へ行つて、第一係首席の梶君に逢ひ、第三学校の事を談じて、四月迄には校長其他二三を動かすといふ言質を得た。吉野君を釧路の学校へ呼ぶことを話して、至急交渉する事を頼まれた。
 今夜は、函館なる宮崎吉野二君へ長い手紙を認めた。宮崎君へは、自分が今感じて居る所謂現実暴露の悲哀について詳しく書いた。
 虚無といふ語が、此頃漸々恐ろしくなくなつて来た。“自然主義が処世上について人間を教訓し得る語は、唯勝手になれといふ一言のみだ”と書いた。
 
 2月9日
 十時起床。今日は日曜で休み。
 十一時から、第一小学校で開かれる釧路婦人会総会に臨んだ。集るもの僅かに二十名足らず。相不変時間には二時間半の懸直があつた。午后四時済む。此会でも愛国婦人会でも大に紙上で刺激を与へて発奮させる必要がある。
 午后五時から、釧路に於ける新聞記者の月次小集で、梅月庵といふへ行つた。会する者総て十三名、社の四人とタイムス支社の太田君と、実業新報の古川君、北海旭の甲斐君だけ欠席で、北東からは西嶋君、小泉君、花輪君、横山君、高橋君、それから何とか云ふ虫ケラの様な奴と商況記者一人。鶏鍋をつついて飲んで、飯を喰つた。七時半散会。随分無意味なものだ。
 その帰足を米町へ曲げて、三四人で初めて釧路の劇場宝来座を見た。林一座とか云ふ田舎廻り、見るに足らぬ。芸者小静が客と一緒に来て反対の側の桟敷に居たが、客を帰して僕等の方へ来た。三幕許り見て失敬して、古川君と小静と三人で、梅月庵といふ小集の際の会場であつた蕎麦やでそばを喰ふ。酒二本。古川が芸者論やら新聞論を初めたので坐がさめた。帰つて枕についたのが十二時半。
 
 2月10日
 目のさめたのが十一時。驚いて飛び起きて、朝飯もソコソコに済まし、社にゆくと不取敢昨夜の話が出た。お安くないと云ふ、いや高くもないと云ふ。こんだ事から段々釧路の事情が解つて来る。
 小静の事を少し書いて置かうか。彼自身の語る所では、生れは八戸、小さい頃故郷を去ったといふ。両親は今此町に居て、姉なる小住と二人で喜望楼の抱妓になって居るが、家には二才になる小供があるとの事、一昨年から昨年へかけて半年許りも脳を煩らうたと云ふが、成程其目付が、何処か恁うキラキラして居て、何となき不安を示して居る。そして札幌の大黒座で堀江四郎、川上薫、稲葉喜久雄等と共に壮俳になつて居る朝霧映水と云ふのが、彼女の兄だと云ふ。兄は声がよくて、且つ三味線や唄は、妹が師匠から稽古するのを、聞いて居ただけに覚える程、芸にさとい方ださうな。……人の話によると、彼女の二才になる小供といふのは、雲海丸(運開丸〜)の船長とかの間に出来たのださうたが、今丸コの芸妓十人中、芸にかけては小静の右に出るものなく、又顔から云つても助六の次であるといふ。そして脳を悪くした為めに、時としては不意に卒倒する事があるさうで、今、知れ渡って居る弗旦は笠井病院の万沢医学士と、モ一人は仲買商の富士屋と云ふ男なさうな。又彼女自身は、北東新報の社長たる西嶋君から、嘗て結婚を申込まれたが、断って了つたので、その所為か北東紙は常に悪感情を持つた記事を掲げると喞して居た。
 今日漸やく今月の“明星”が来た。
 夕方宿に帰ると、せつ子と母から弁解の手紙が来て居た。今夜と明晩、新夕張炭山の惨事の為めに、北東社が催した慈善演劇会があって、社中の者のみで演ずるといふから、七時頃釧路座へ見に行つた。随分不真面目なものだ。記者だけでやった中幕“編輯局の光景”で横山君の芸妓お佐勢だけは実に巧かった。記者席の向ふの桟敷には、鹿島やの市子や丸コの初子が来て居て、其処へ行く男の方が、芝居其物よりも多く人の注意を牽いて居た。十一時帰る。
 今月の文芸倶楽部は発売禁止になつた。それを鈴木正実堂から特別を以て持つて来た。巻頭生田葵君の“都会”、普通の事件を新らしく書かうと云ふのが同君近頃の立場らしい。此篇の如きも其意味に於て幾分の成効をして居るが、禁止になつたのは多分此うちの或部分が余程赤裸々な書方をしてる為であるらしい。
 
 

 
明治41年2月7日
小静の事を少し書いて置かうか
 
 今日の「小静」。この後11日の「三尺ハイカラ」。まあ、普通に、啄木先生、北の行状記として笑って読めばいいのかもしれないけれど、なんか、いつも不愉快なものを感じてしまう。釧路の啄木はなぜか苦手です。(やはり、出が札幌のピューリタンだから?)
 
その膝に枕しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり   (一握の砂)
 
 たぶん、不愉快のやって来たるところは、こういうことなんだと思います。自分のことしか考えられない男。自分の幸せが大事な人間。いい学校で学んだ知識を自分の幸せのためにしか使えなかった奴。そんな人間の卑小さが厭だった。一生かけて、そんなことでしかないのか…という落胆。そんな人間がこの世に存在することは知っているけれど(そして私も結局そんな人間なのかもしれないが)、それでも、そんな人生がいいか悪いかは全然別の問題だよ。
 
 啄木は、ちがいますよ。「思ひしはみな我のことなり」と書けるだけの知性がある。度量もある。そこら辺の、人生語りたい先生たちとは人間の基本構造がちがう。ただ、なんと言うのかなぁ、この当時の「自嘲」ムードが堪らないと私は感じるのです。函館も札幌も小樽も、東京に出て行った啄木ですら、私は人間が生きてることへの「かなしき」を感じたことはないんだが、釧路の啄木については「かなしきは」を感じますね。空虚さ…と言ってもいいが。
 
 
 詩人の夢 啄木評伝 理崎啓 著 (日本文学館,2004.1)
 小樽啄木会に何冊か寄贈できていたので、1冊スワン社に分けてもらいました。驚いたことに、昔勤めていた学校の先生だそうで…(こんなこともあるのね) お住まいも私が昔住んでたところのご近所だし。子どものPTAなんかで一緒になっていたかもしれないですね。(ほんとにこんなことあるのね…)
 というわけで、依怙贔屓でこの本をご紹介しているのではありません。読んで一発でこの本はいい本だと思いました。特に、啄木入門書としては、現時点でトップランクの本ではないですか。帯に「全ての青年諸氏に贈る」と書いてある。その心意気やよし!自分が「青年」だと思う人はみんな読みましょう。(50でも「青年」は成立しました!)
 スワン社資料室でも急きょ受入れますから、地元の図書館が買わなかったら、こっちにリクエスト出してください。『明星』同人たちの「大逆事件」への対応など、きわめて今日的な発見〜問題提起に満ちています。啄木の思い出や楽屋話が書いてあるのではない。今、この2004年の冬を生きる青年「啄木」について書いてある。
 
次回は「2月11日紀元節」

 
 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
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400円(送料共) ※スワン社で取り扱っています