五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.1.26 愛国婦人会で演説
昨日あたりから新聞の体裁が別になつたと云つて大喜び
 
 1月26日
 今日は日曜日。朝社長からの使があつて、行くと、昨日あたりから新聞の体裁が別になつたと云つて大喜び。五円と銀側時計貰つた。十一時頃から第一小学校に開かれた愛国婦人会釧路幹事部の新年互礼金に臨席。乞はれて現代婦人に関する一場の演説をした。出席女性四十余名。
 来月の二日に、社の新築落成式の大宴会があるので準備委員長仲々気がもめる。今夜から福引の考案にかかる。
 
 1月27日
 今日、昨日の互礼会の記事と共に、演説の綱要を″新時代の婦人″と題して二面へ入れた。
 小樽なるせつ子から手紙が来た。花園町十四の内、星川丑七方へ移つたと。
 佐藤君が遊びに来た。
 
 1月28日
 今日から一面に詞壇を設け、且つ大木頭と云ふ名で、百五十行位づつ政界の風雲を書くことにした。佐藤国司氏や社長が、是非永く釧路に居てくれよと云ふ、三月になつたら家族を呼寄せるようにして、社で何処か家を借りてくれると云ふ。自分も、来て見たら案外釧路が気持がよいから、さうしようと思ふ。不取敢せつ子へ其事を云送つた。
 
 1月30日
今日は孝明天皇祭で休み。一日手紙をかき、福引のクヂを作る。社長から貰つた金で下宿料四円六十二銭払ふ。宿料十二円五十銭に布団代二円の割。
 
 1月31日
 社から日割ともつかず全額ともつかず十五円貰つた。佐藤国司氏を訪ね、十円貰ふ。せつ子から今日も手紙来た。
 
 2月1日  如月
 今日日景君の宅へ行つて晩餐の御馳走になる。帰りて来て植木せんちやんへ手紙かく。
 午前中に電為替で十八円小樽へ送り、別に一円せつ子へ。
 
 

 
明治41年1月26日
昨日あたりから新聞の体裁が別になつたと云つて大喜び
 
 この弛んだ文章は何事なのだろう…
 
 これじゃ、ただのサラリーマンのビジネス手帳。
 
 小説を書くんじゃなかったの?
 
 明治41年日記、それも釧路に入ってからの日記は、正直言って退屈です。よく読めばなにか良いところが隠れているんじゃないか…と思っていつも読み直すのですが、その度にがっかりするばかりであります。
 
世の中は欠張お正月である。天も地も、見る限りの雪も、馬橇の馬も、猫も鳥も家々の氷柱も、些とも昨日に変った所はないが、人間だけは――実にその人間だけは、とんでも無い変り様をして居る。昨日は迂散臭い目付をして、俯向いて、何と云ふ事なしに用事だらけだと云つだ風な急ぎ足、宛然葬式にでも行く人の様に歩いた奴が、今日は七々子の羽織に仙台平の袴、薩張苦が無い様な阿呆面をして、何十枚かの名刺を左手に握り乍ら、門毎にペコペコ頭を下げて廻って居る。今日になって怎う万遍なくお愛相を振蒔く事が出来るなら、何故昨日も一日笑つて居なかつたか。自分等が勝手に拵へた暦に勝手に司配されて、大晦日だと元へば、越すに越されぬ年の瀬の浮沈、笑顔をしては神仏の罰が当ると云っだ様に、誰も彼も葬式面の見つともなさ。一夜あけての今日だとて、お日様は矢張東から出て、貧乏人は矢張寒くて餒じからうに、炭屋の嬶までお白粉つけて、それを復お屠蘇で赤くするとは何の事だらう。考へる迄もなく、世の中はヘチャマクレの骨頂だ。馬鹿臭いを通り越して馬鹿味がする。 (明治41年1月1日日記)
 
 同じ1月の日記とは思えない。啄木のいちばんの良さは、その「目」の良さ、人間の一瞬の表情や無意識の動作などをパッと写しとるセンスの確かさにあるのだが、そのレンズが釧路に入ったとたんに、なんか曇ってしまった。(釧路に着くまでの汽車の中なんか、その玲瓏レンズでバシバシシャッターをきっていたのに…) 「名刺を左手に」握った商人や、「炭屋の嬶(かかあ)のお白粉」を鮮やかに切りとった、あの「目」はいったいどこに行ってしまったのだろうか。なにを食っただの、なにを買っただのしか書けない奴は、ダサいなぁ。
 
 当分、復活は無理じゃないでしょうか。(復活しないかも…)
 
次回は「2月2日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
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