五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
 
明治41.1.13 白石社長から釧路新聞への勧め
小樽日報への復帰もと
 
 1月13日
 九時頃、山田町なる沢田君の伯父君の訪問を受けて起きた。顔を洗ふて居る所へ本田君が来た。本田君の話によれば、北門新報の休刊について、社長村上祐氏を初め、主筆上野?履氏佐々木秋渓君等皆本田君の居る小樽支社に来て、鳩首前後策に腐心して居るとの事であった。山田町の伯父さんは無論沢田君の縁談一件に関してであった。万事虚飾を避けて一日も早く迎へるといふ事にきまる。
 十二時頃、朝飯と昼飯を一緒に済まして相生町の桜庭家を訪ふと、母堂が頭痛で就褥して居られる。仕方なく帰って来た。一体保君とちか子さんとは義理のある異母妹の間なので、保君にあっては成るべく世間体を飾りたいのであるから、双方の事情上単簡に済すには、先づ母堂を説かねばたらぬのだ。
 三時頃日報社に打って宿直室で白石社長に逢ふ。(薩張僕の所へ来て呉れないが、怎して居たんです。)と喜色満面で這入つて来られた。(我儘一件があるんで怎も気が済まぬもんですから。)と迎へた。自分が旧臘我儘を起して日報を退いてから、今初めて社長に逢つたのだ。
(二三日前は、沢田君の手から頂戴したですが、何とも御礼の申様がありません。)
(イヤ何。何れまた何とかするつもりで居たんだが、……怎です、タイムスの方の話が纏りましたか。)
(否、何にもキマリません。天下の浪人です。)
(あの方の話が沢田君からあったから、自分でも出来るだけ運動して見るつもりで居たのだが、怎です、釧路へ行つて貰ふ訳に行かんのですか。実は君には御母さんや小さい小供もあるといふ事なので、釧路の様な寒い所へ行くのは怎かと思って躊躇して居たんですが。)
 恁くて同氏が十何年前から経営し来つた釧路新聞の事を詳しく話されて、結局自分は、家庭は当地に残し、単身白石社長と共に十六日に立って釧路へ行く事になつた。釧路は無論人口僅か一万の小都会に過ぎぬが、今其新聞は普通の六頁に拡張せんとして居るので、自分の責任も軽くはない。日報へ復旧してもよいと云ふ話だったが、遠からず一大改革をした後には自分の勝手で釧路に居るなり日報へ来るなり怎でも構はぬと云ふ話であった。
 十六日に立つと云ふのは、聊か面喰つた。然し必ずしも一緒に行かなくともよいと〔の〕話ではあった。予は外に何も面倒はないが、沢田君とちか子さんを二人並べて、一度でもよいから、″奥さん″と云つてからでたいと怎も気が済まぬ。此事を社長に話すと、至極喜んで呉れた。
 本田君へ寄ると、加減が悪いと云つて寝て居た。釧路行を話して、日報改革後共に携へて同紙へ這入るといふ内約を整へた。北門の如き悪徳を敢てするを否まざる新聞に居ることは同君も大に不快に思って居るのだ。斎藤君へ寄る。晩酌中であったので、早速二盃許りやらせられた。焼鮭で飯を喰つて辞し去る。同君も喜んで居た。
 家に帰りて話すと異議のあらう筈もなし。真栄町にちか子さんを訪ふと相僧留守。途中福原病院の坂で二度辷つて転んだ。
 奥村君を訪ふと病気で寝て居た。今日は怎したものか病気が流行する。沢田君へ行って十時頃帰る。一件は出来る事なら十五日にやりたいものだ。
 
 1月14日
 十一時起きる。函館の吉野君、札幌の小国君、野辺地に居る父、岩見沢の兄等へ手紙かいた。
 今朝早く桜庭君へ、昨夜書いた手紙、例の件に就いて、式を簡単にする事や、ちか子さんの月給を母堂の小遺として実家へやる事や、自分が釧路にゆく事などを認めた手紙をやって置いたので、午后一時半頃、同家を訪ふて母堂の意見をきく。確答は函館に居る一親類へ相談する迄待ってくれとの事。成程尤も千万の話なので、流石の僕も一言なく帰りて来た。
 帰つて見ると、今しがた沢田の母が結納の品を持って来て、置いて行つたとの事、自分は聊か困つた。
 奥村君を訪ふと、佐田が打つて居た。つまらぬ話で時間許り喰ふて仕方がないから、奇策を弄して奥村君を連れ出し、一緒に沢田へ行った。山田町の伯母さんも来て居て、今日の次第を話して帰る。
 夕方には桜庭君が区役所の帰りに寄つてくれて種々相談した。要するに年寄の云ふ事も通さねば、アトが面倒になるから、当分時間を延期して呉れとの事。海老名大口堂も来た。
 八時頃沢田から帰つて来ると、藤田武治と高田紅果が来て居た。大に文芸談をやらかす。十一時頃帰つて行く。高田が持つて来た長谷川二葉亭の″其面影″を読む。
 
 

 
明治41年1月13日
白石社長から釧路新聞への勧め
 
 真栄町にちか子さんを訪ふと相僧留守。途中福原病院の坂で二度辷つて転んだ。
 
 山のように積もった雪の中の生活。故郷の岩手も雪は降るでしょうが、たぶん街中でこんなに積もった雪にまみれて暮らしたことはないだろうから、啄木一家もなかなか大変だと思います。(雪かきなんかしてたんでしょうかね…)
 
 16日に釧路に発つことが決まり、俄然、身辺が慌ただしくなってきた啄木。16日の出発じゃあ、三日前の10日に桜庭ちか子の家に押しかけて直談判したような話は、普通は、これはもうなかったことに…となって行くのではないか。一週間で結婚話がまとまるほど「青鞜」な世の中じゃないですからね、当時の小樽は。
 
 でも、なかなか当の本人は、そういうことがわからないというのも真実です。あと一ヶ月で定年退職って人が突如「じつはこんなアイデアがあるんだけど…」と言い出すとか、後輩に「たのむ!これだけは俺のライフワークなんだ」とか押しつけて行く光景とか、昔サラリーマンやっていた時によく目にしました。しかし、その多くは実現しなかった。三ヶ月も経てば、誰が何とか長だったなんてことみんな忘れます。辞めるまでに残した仕事がすべてだよ。「歌だけがのこる」。
 辞めて行く当人は、一種、黒沢の『生きる』みたいな高揚感の中にいるから「グッドアイデア」や「ライフワーク」に見えた…ということではないでしょうか。ほんとうに良いアイデアだったならば、現役時代の中で必ず誰かがやっているでしょうし… ライフワークだったのならば、それは自分で墓場まで持って行くべきものですから。
 
 
 前回に続いて座談会「明治北海道と啄木」を引用します。啄木研究について、いくつか基本的な、けれど重要な概念を提出しているのですが、今回がいちばん大事なところかもしれません。一般の「啄木」理解でいちばん陥りやすい誤解が、まさにここかもしれない。
 (例えば明治41年1月13日、啄木は、朝、沢田君の伯父や本田君の訪問を受けてからというもの、相生町の桜庭家〜小樽日報社・白石社長〜本田君〜斎藤君〜家〜真栄町の桜庭ちか子〜福原病院の坂で二度すべって転ぶ〜奥村君〜沢田君へ…と十時頃に帰宅するまで精力的に動きまわっていますけれど、この一日の中に、「短歌創作」なんて時間は5分間だって入ってはいないんですよ。)
 
 
本林 さっき渡辺さんがおっしゃった「かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ」という歌ね。あの「声の荒さ」を掴まえるのは――北海道にいる人はしょっちゅう聞き慣れているから何とも思わないかもしれないけれど、あれは異邦人というか旅人の感じですよね。
 私らでも旅行していて夜行車なんかに乗っていると、例えば青森から金沢に来る途中、新潟あたりで朝になって目がさめると、すでに訛が違う。そういうときの感じを啄木はパッと掴まえるんだな。
渡辺 旅人のほうが見えるということは、ありますからね。
 
    (中略)
 
岩城 それと啄木の歌は全部東京で作られているから、北海道を詠んだ歌は回想的なんですね。
本林 そう。距離がある。
渡辺 それもよかったんでしょうね。
本林 北海道を歌ってもそれは地理的にも時間的にも距離をおいたところで歌われている。ところが小説を書く場合も距離を持たなきゃならないのでしょう。
渡辺 そうです。
本林 それが啄木の場合には自然的に距離ができる。郷里の場合もそうですね。渋民村も。回想の中から、ああいう歌が生まれてきている。小説家だったらその体験の場で、書いている時点においてもうすでに距離を保ってものを見ている、あるいはそういう習練が必要なんでしょう……。
渡辺 ただ作家の場合も、今恋愛していちばん燃えてる女のことを書いても、大体失敗するんですね。何年か経って、その女の痘痕(あばた)もえくぼも両方見えて、もう恩讐の彼方に、憎いとか、あのやろうとかいうことも超えて、それで初めてしっかり書ける。だから作家にも距離感は大切ですね。
岩城 それは、東京へ来てから北海道の雪が書ける、とおっしゃったこととも関連しますね。
渡辺 ええ。
(岩城之徳著『石川啄木とその時代』より「座談会・明治北海道と啄木」)
 
 
 そう。啄木の歌は(特に「忘れがたき人人」は)「東京」という時間の中で生まれてきた歌なのです。「東京」を生きる自分を詠った歌。「東京」に生きる自分の中に残っている「北海道」。
 
 「北海道」を生きている歌ではありません。
 
 だからこそ、今、「北海道」を生きている私に、「北海道」の(特に「北の人人」の)何かとてつもなく大事なことをつたえてくれる。天使の遺言。私に残った「東京」。
 
 
啄木の息が「戦中・戦後の啄木研究書の中で最高峰といってよい」とまで褒めている『国文学 解釈と鑑賞』平成16年2月号「特集・啄木の魅力」(至文堂)、私も本日ゲットして来ました。たしかに、こちらの三粋人経綸問答も大変なパワーです。ちょうど座談会話題が続いているところなので、間をおかず近日中にご紹介したい。
 
次回は「1月15日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り