五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.1.10 桜庭ちか子君を訪問して沢田主筆との結婚を勧める
釧路新聞原稿の前金10円
 
 1月10日
 午前の中に小国君が日報の札幌支社に入る件が決定。午後同君の札幌に帰るを送って、石原の宿まで行き、一緒に晩餐を認めた。
 日が暮れると、すぐ出懸げて、真栄町に桜庭ちか子君を訪ふ。永く永く忘られぬ此夜の事は成るべく詳しく書いて置かねばならぬ。
 女史は今歳二十五になつた。区役所に居る学事の桜庭保君の異母妹で、今潮見台小学校に教鞭を採って居られる。天性画が好きで、所謂才色兼備の、美しい、品格のある婦人。嘗て予が小樽日報の三面をやって居た時、確か昨年拾月末の頃であったと思ふ、三面に入れる挿画を此人に頼む事になって、其以後二三回逢つたのであったが、予の知る限りに於て最も善良なる婦人の一人である。奥村君嘗て評して″共に泣き得る女″と云つた。
 沢田君が日報へ来た当座から、予は此二人を好一対の配偶だと思って、それとなく沢田君の心を探っても見たが、無論何の異議のあらう筈がない。其後沢田君自身が奥村と共に彼女を訪問したと聞いて、密かに喜んで居たのであったが、昨夜谷鯉江の一件を聞いてから、急に此問題は急ぐ必要があると感じた。
 打つて案内を乞ふと、迎へたのが彼女自身。坐に就いて、其れや此やの話から八時頃まで盛んに予の主張に就いて論じたが、イザ本問題となると仲々緒が見付からぬ。これは何日そ例の赤裸々の方がよいと思って、遂々口を開いた。
(実は、今夜は少しお伺ひしたいことがあって、お訪ねした次第なんですが、……)
(甚?事か存じませんが、若し出来る事なら何でも……)
(別に六ケ数い問題ではないんですけれど、少し云ひ難い問題なんですがた。)
(若し私で出来ます事なら何卒……)
(実は其少なからず云ひにくいんです。詰り其何ですな、其、怎も云ひにくいんです。)
(…………)
(貴女は、結婚なさらんですか。)
 彼女は少なからず驚かされた様であったが、暫しあってから、
(思懸けないお話で、何と急にお返事してよいか解りませんけれど、私は当分まだ学校の方をやって居たいと思つて居るのでムいますが……。)
(然うですか。それは大に困ります。実は僕大に勇気を鼓して、今夜此事をお話に参つたのなんで……。初め、其何でした、成人の事をそれとなく詳しくお話した上で、詰り其人の性格や経歴を充分虚心平気の裡に聞いて頂いた上で、今申上げ〔た〕問を発しようと云ふ心算だったのですが、先刻から堅い事許り喋つたものですから、怎も然う円曲な云方をすることが出来なくなって、遂其単刀直入と出かけた次第です。……其当分御結婚なさらぬと云ふのは、一体怎した理由なんでせう。)
(別に理由と申しても無いのですけれど。……アノ若しお差支が御座いませんければ、 ――と思悩んで――其お語を聞かして頂く訳に参りませんでせうか。)
(何も差支は無いですがな、……)
(そんなら何卒聞かして頂きたいものですが……)と彼女は余程思込んだらしい。
(僕に一人の友人があるです。)と、予は、沢田君に関して知って居る限り、少時東洋風の豪傑肌な男であったのが、或事件によって急に性格の一変した事、其事件は、岩崎君の亡き姉との恋が許嫁と云ふ段取にまで進んで居たのを、其人が病死した事で、其後其故人の姉なる人と婚したが、何の同情なき家庭は、遂に昨年函館大火に及んで、沢田君の悲しき決意と共に破れた事、其他様々細かい点まで話して、(それは外でもない沢田君なんです。……怎でせう。貴女は此男に同情して、そして此男を不幸から救って下さる訳に行かんでせうか。最も此事は今夜沢田君と何の相談なしにお話するのですが、詰り、万々一御承諾を得難い様な時には、私たけの秘密として葬らうと思ふからですが、然し沢田君の貴女に対する心持は、私充分友人として知尽して居るのです。)
 彼女は暫く考へて居たが、(恁那事申上げてよいか怎か解りませんが、実は沢田さんから昨夜お手紙を頂戴いたしたのです。それで若しやと思って只今御話を願った訳でムいますが、……此事に就いて実は母と相談したいと思つて、今夜来て呉れる様にハガキを出して置きましたが、参りませんです。先刻貴兄がお出の時に、実は母かと思ったのでした。)
 予は沢田君の機敏なる行動に、聊か驚いた。然し其手紙といふのは、単に″自分は貴女と結婚する事を人から勧められて居る。其為虚心で御交際する事が出来ぬ。自分は嘗て結婚について苦い苦い経験を持って居る。だから之を全部貴女にブチマケテ、自分の心に曇りをなくして交際したい″と云ふ意味に過ぎなかった。此単なる手紙によって母とまで相談する彼女の心理を忖度して、予は水心あれば魚心だと観測した。そして自分が沢田君の心を忖度して云つだ事が此手紙によって確められたと云ひ、切に決意を促がし、且又、自分自身の敬服する貴女を是非自分の知つている人に嫁したいからと頼み、沢田君の孤独を救はむことを求めた。彼女は胸襟を披いて種々一家の事情を語り、兄とは義理ある我が母を、如何にもして自分が引享けて養ひたいと思って今迄独身でやって来たと話した。予は此事によって一層彼女の美しい心を感じた。
 然し予は、(何れ母や兄と相談してから。)と云ふ彼女の、並大抵の返事に満足しなかった。沢田君が既に意を決して手紙まで差上げ、自分の心を打明けむと云ふに至りては、貴女の心一つで彼は再び以前の深い苦痛を繰返さねばならぬかも知れぬ。自分は無論然らざらむことを祈るが、万一然うであるとすれば、友人たる予は何とかして其苦痛を出来るだけ軽く彼に感ぜしむる様な手段を採らなければならぬ。問題の調不調は別として、茲で単に貴女一個のお心を、友人なる私にまで洩して貰ひたいと迫つた。予は辞を尽して説いた。彼女は深く深く考へた末遂に
(私一人では、喜んでお享け致します。)
と云って、静かに俯向いた。洋燈の光が横顔を照して、得も云はれぬ。ほつれ毛が二筋三筋幽かに揺いで一層の趣きを添える。予は恰も恁う夢でも見てる様な気がした。そして大に喜び、且つ感謝した。
(尤も沢田君と雖ども生きた人間だから欠点があるですがな。例へば、沢田君は去年火事後に擬似赤痢をやって以来、腸が弱いです。これも一つの欠点ですな。それから之は就中大なる欠点で、僕も仲々朝寝をしますが、沢田君は或は其点に於て僕以上かも知れないです。)と云った所が、彼女は幽かに美しい歯並を見せた。(僕は大いに愉快です、満足です。僕は、其、国の盆踊を知りて居るんです。これは函館の未曽有の大火の晩に踊つたので、頗る履歴付な踊なんですが、今度それを踊って御覧に入れます。それは頗る巧いです。)
 恁くて、前夜来たと云ふ谷と鯉江が、今後毎日曜に会いたいと云つた事を、如何にすべきかと云ふ事に就いて話し合った末、自分は満心の愉快を覚えて辞して帰つた。午后十時。
 
 帰つて見ると、留守中に恰度沢田君が来て、白石社長からの厚い好意なる――釧路新聞に書いて呉れろといふ原稿の前金として、――十円を置いて行つたとの事であった。
 予は大体の事を母や妻に話して早速沢田君を訪ふた。幸ひまだ起きて居たが、仔細を話して同意を需めると、賛成の不賛成のと云ふ段ではない。初めから彼の心は然く決心して居たのであった。且つ彼女の事は山田町の伯母からも、以前から勧められて居るとの事。一時半に帰って寝た。
 
 1月11日
 昨夜の事を考へると、何となく楽しい様な心地がする。世の中が急に幾何か明るくなって、一切の冷たい厭な事が、うら若い男と女の心によって暖められた様だ。運命と云ふ事が切りに胸中を往来する。
 八時少し過ぎに奥村君を訪問して、借りて居た金を返し、昨夜の話をすると、奥村君も手を打って喜んだ。実に思がけない頼母しい男だ。午后、出かけようと思ってる所へ、大硯君が来て、三時半頃まで居た。樺太へ行って宗教を剏めようと大に気焔を吐く。矢張僕等と同じに、空中に楼閣を築く一人だと思ふ。
 相生町に桜庭保君を誘うて、赤裸々にちか子さん一件の話を出す。向ふでも隔てなく話してくれて、一家の経済的事情から何から皆聞いた。要するに本人の意表如何にあるので、自分等に於ては決して束縛はせぬ、が事情はこれこれだと云ふ。暗くなってから帰って来た。
 予は此事件には天祐があると信ずる。既に当事者二人の心に相許してあれば、現下の社会主義と同じで、問題研究の時代でなく、其実現方法研究の時代であるのだ。奥村君と共に沢田君を訪ふと、沢田君は小児の如く喜んで居る、母君も大に喜んで居る。
 話に興が湧いて午前三時帰って来た。男と女の問題や、埋もれたる天才の話は、深くも三人の心を楽ませた。予は白沢末蔵の話をしたのであった。それから、此日沢田君が山田町の伯父伯母を誘うて、一件の話をすると、これも大喜びで、一切僕に運んで貰へと云ってるとの事であった。
 
 1月12日
 十一時に起きる。楊枝をつかつて居ると寒雨君が来た。昨夜の相談では二人で行く筈だったが、それでは話が新らしくなるといふので僕一人行く事になり、一時頃相生町に桜庭君を訪ふ。幸ひ、日曜だ。
 話は要するに昨日の復習だ。昨夜家内相談の結果、母は不束者だから人様の家庭に入りて巧くやれるか怎か疑問だと云ぶが、要する〔に〕本人の心次第である。妹は兄や母が行けといふなら行くと云ふて別に進んでも居ないが、其理由が解らぬといふ。僕は、御令妹の然う云はれるのは誠に尤も千万の事だ、其所が乃ち御令妹の御令妹たる所以であって、義理ある兄に遠慮してる所に、其美しい性格が躍動して居る。それを察せぬとは無粋な話ではないか、と云った。三時頃保君を同道して真栄町に行つた。
 不図門口に出たちか子さんの笑顔は美しかった。這入つて話が初まる。谷が其卑しい希望を挫かれたので何等か返報するだらうと云ふのが、大部兄貴の心を痛めて居た。予は醇々として説いた。醇々と云ふよりは寧ろ堂々と、断々と説いた。
(一昨夜はアンナ御客を致しましたが、)とちか子さんが云ふ。(考へて見ますと自分は欠点だらけの不束な女でムいますから、却って沢田さんに御迷惑では居らつしやらないかと心配で心配で堪りませんのでムいます。ですから若しも只此儘末長く御交際して頂くのでムいますと大変安心なのでムいます。)
(婦人の生命は愛です。婦人から愛を取り去れば、残る所は唯形骸許りです。随つて妻になる資格は、何も面倒なものは要らない、唯愛一つさへあれば充分であると思ふです。
 尤も、貴女が沢田君並びに其家庭に同情して下さらむのなれば、幾何申上げても致方がないのですが、……然し先夜貴女の御洩し下すつたお言葉から考へるに、決して然うではあるまいと僕は思ふですがな。)
(それはモウ御同情は充分……充分に致して居りまするのでムいます。)と切々に云って仄かに其美しい顔を染めた。
(そんなら、それで何も面倒な事はムいません。既に母君及び兄上の御考が貴女次第となつて居るのですから、貴女は其唯一つの財産、乃ち其深い美しい同情の御心だけを持つて沢田君の家庭の人になって頂きたいです。沢田君は無論それ一つの外何物をも要らんです。貴女は手も足も途中に捨てて行つても宜敷い。其心一つで沢田君の落寞たる家庭に春が来ます。僕は頼むです、深く頼むです。)
(若しも、)と云つて顔を上げて眼を輝かしたが、俯向いて、そしてシドロモドロの声で云つた。(若し私の凡ての欠点を御許し下さるなら、御言葉に従ひます。)兄貴も聊か面喰つた様であったが、尤早之以上に云ふ所はない。予は、本問題の骨子が只今の御一言で明瞭に解決を告げたから、アトは之に附帯した事件の解決だけである。然しそれは、今日きめるのも少し慾が過ぎるから、今日はこれだけで喜んでお暇をする。鶴の如く首を長くして待ってる人もあるから。と云って辞した。日は既に暮れて居る。雨さへ催した温かい日で、道の凍付いた雪が解けて、ザクザクする。
 帰りて飯を済まして、早速沢田君を誘うて、委細復命した。山田町の伯母さんも行つて居て、見合も何も要らぬから至急キメテ呉れと喜ぶ。九時半頃帰つて来て寝た。
 日報の三面に小樽新聞の松田作嶼君が来たと云ふ話をきいた。
 媒人は急がしいものである。
 
 

 
明治41年1月10日
桜庭ちか子君を訪問して
 
 ふーっ!長いなぁ…天下の浪人、啄木。時間がいくらでもあるので日記書きまくっています。しかも、小説の練習を兼ねた日記帳ですからね。読んで付き合っているだけでも大変。(おまけに、新谷は今風邪ひいてダウン中なのでホントに苦しいっす…)
 同じく、この旧かな長文がつらいという人は「1月19日」号まで待ってください。今、スワン・バージョンで小説『ちか子抄』を制作中です。現代語訳…とまでは大げさなものではありませんが、自分自身の理解のために、なにか日記に出てくる一挿話を「小説」の形に変形してみるような実験をやってみたかったのです。
 
 「短編小説」として成立したとすれば、渡辺淳一の言も正鵠を得ていた!ということになりますね。
 
 
渡辺 僕は啄木の作家としての才能には疑問をもっているのですが、ただもう少し長生きしたらあるいはいい小説が書けたかもしれないなと思うのは、小説は悪いんだけど日記がいいものですから。
本林 ええ。日記はいいですね。
渡辺 肩を張らないで書いたよさがありますから、あれを素直に小説にもってきて、その中に歌のひらめきを散りばめたら、もう少しいい小説が書けたんじゃないか。そこに僕はある種の可能性を感じるんです。
本林 あれは日記文学としても出色ですものね。でもあれは日記だから書けたんでしょうね。
岩城 小説を書くために日記を書いたと思うんですよ、一種の習作なり題材の。ところが日記のほうは評判がいいのに、肝心なのがね。でも小説に失敗したからこそ、彼の『一握の砂』とか『悲しき玩具』が生まれたんだと思う。
渡辺 啄木は計測違いをしたと思うんです。つまり啄木という人は気取った人ですから、歌をつくるときはもちろん気取ったんでしょうけど、小説を書くなら、気取りのレベルは日記程度でよかった。それを歌と同じ調子で気取って小説を書いちゃったものだから、失敗した。啄木日記ももちろん気取ったところがあるけど、小説というのはあの程度でいいんですがね。
岩城 そうすると、小説は失敗するし、生活はどん底に苦しいしで全く追い詰められる。その中から浅草で自虐的な体験を持ち、それをローマ字日記にありのままに書いたのがわりと評判がいいんですね。
本林 やはり僕は啄木はとらわれていたんだと思う。自然主義の時期に出てきて、藤村なんかをいろいろ読んで、小説をおれは書くんだ、ということに……。でも日記は本当に読みやすいし、スラスラと啄木の生地が出ている。あれは不思議なんだけど、どうなんでしょう。日記であれだけ書けるのに……。
岩城 これは渡辺さんにお聞きしたいのだけど、彼は小説家としての資質がなかったんじゃないでしょうか。
渡辺 小説というのは、ナルシシズムと冷静な眼とがバランスとれてないとまずいんです。だけど詩はもっとナルシシズムが強いほうがいい。その点、啄木の小説はナルシシズムが濃すぎるというか、想いのほうが先にいって言葉がついてこない。あの日記ぐらいのナルシシズムと、冷静な眼と客観的な描写とのバランスがちょうどよかったんですが。
(岩城之徳著『石川啄木とその時代』より「座談会・明治北海道と啄木」)
 
 啄木研究家としてあまりにも有名な岩城之徳・本林勝夫両氏、そこにゲストの小説家・渡辺淳一を招いての座談会「明治北海道と啄木」。なんかしらん、爆発的に盛り上がる座談会です。(はっきり言って近年の『石川くん』なんか問題にならんくらい盛り上がります…)
 渡辺淳一が述べている程度の「啄木」像は、みんな両先生が別の本で既に述べていることなんですね。ただ、なんと言うのだろう…学者が自分の学説を述べたってそんなの全然面白くも何ともない!ということをこの学者たちはよく知っていて、自分の曲(学説)を、声が朗々と響く渡辺淳一に歌わせるわけですね。その効果たるや、抜群! 普通、『失楽園』ごときの小説家が「小説というのは…」とやったら(それも啄木を相手にして!)かなりの人が怒るところだと思うのですがね。でも、そんな気配、微塵もない。見事です。ひとえに、これは、こんな二人の大物が両脇のバックコーラスにまわったおかげでしょう。
 
 坂本九と『見上げてごらん夜の星を』をデュエットする平井堅か…
 
次回は「1月13日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り