五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.1.7 短編小説を書こうとする
新年の各雑誌を読んで東京へ思いがつのる
世の中と家庭の窮状と老母の顔の皺とが、自分に死ねと云ふ。
 
 1月7日
 温かい日。原稿紙を出して机の上の塵を払った。短篇小説を二つ三つ書かうと思ふ。一つは彼の松岡政之助の事、題は”青柳町”としようと思ふ。一つは大塚君の牛屋の二階で牛乳を飲んだ時の事、この題は″牛乳罎″としようと思ふ。モ一つは高橋すゑ子君の事。何れも函館大火後の舞台だ。今日は構想だけで日を暮す。
 今日は″七日正月″と云ふさうな。紋付の羽織を斎藤君から貰ったので、今迄着て居た飛白ののど蚊帳を質に入れて二円借りた。夕飯に馬肉汁の御馳走あり。
 夜、例の如く東京病が起つた。新年の各雑誌を読んで、左程の作もないのに安心した自分は、何だか恁う一日でもジツとして居られない様な気がする。起て、起て、と心が喚く。東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。怎せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる。噫、自分は死なぬつもり、平凡な悲劇の主人公にならぬつもりではあるが、世の中と家庭の窮状と老母の顔の皺とが、自分に死ねと云ふ。平凡な悲劇の主人公にたれと責める。
 家の中が暗い様な気がする。
 
 1月8日
 朝、洗湯に打つて昨年以来の垢を落す。女湯の方から紅の石鹸がコロコロと輾げて来た。十一位になる美しい女の児が裸の儘で、恐る恐るそれを取りに来たが、シャボンを拾ふと何かに追駆けられる様に駆け出す。途端に運悪く辷つて倒れた。呀ツと自分は思はず声を出すと、紅くなって遁げて打つた。
 午后大硯君来る。二人共何故か意気銷沈。
 夜、小樽新聞社長上田重良を訪ふ。初めてだ。洋風の応接室にストーヴが暖かい。茶は微温かつた。中西代議士の新たに起す新聞へ周旋してくれると云ふ。帰りに西堀君の店を訪ふ。腰かけて″再会″の話をして居ると、黒綾のコートを着て女靴を穿いた二十二位の女が這入って来た。二三冊文学的な本を買ふ。話の様子では西堀君と知合らしい。其素性が探りたくなった。樽新の碧川君が来る。読売新聞の懸賞で当選した一幕物の喜劇を、此処の大黒座に居る俳優に演じさせようと思ふので、今其談判に行く所だといふ。これは昨年ニケ月も腸チブスで避病院に入院してる間に書いたのだ。避病院へ行くのは、実によい。月給は普通に貰った上に恁う云ふ金儲が出来ると笑ふ。碧川君は帰った。今の男はこれこれの者だと西堀君に説明すると、
(あれはみよし野生なんですか。)
と女が僕に問ふ。そして遂々火鉢の端へ寄って来て、自分と向合せに腰かけて手をあぶる。談は碧川君の小樽新聞にかいた小説の事に初まって、
(それが面白いですね。誰一人面白いと云ふ人が無いんですから。)
と云ふ。焙つて居る手には裁縫用の指抜きを篏めて居て、血の気の漲つた処女らしい肉の美しさ。顔は美人と云ふ程でないが愛矯が溢れて居て、活気があつて瑞々しい。髪はマガレツトとか云ふのであらう。画の話になると、女学世界に挿絵を書いて居る夢二と云ふ人の女は、皆同じ様だと云つて、側らの女学世界を取上げてそれを見せる。成程皆バッチリした円い無邪気な眼をした女許りだ。恰も此女の眼の様に。……自分は面白くなつて来た。……そして夢二と云ふ人ば高等商業学校の卒業生だが、天性の嗜好で画が大好きだと云ふ事、斯の如き眼は夢二氏白身の妻君の眼其儘であるさうだと説明する。予の好奇心が益々煽られる。それから、東京の女学生は、文と蚊と音相通ずる所から、文士を称して″虫へン″と云ふと話した。自分が本を読むと、余り凝るからと云つて父なる人に叱られると云ふ事、小説の話の出た時、実社会には小説以上の事件が沢山あるといふ事も話した。自分は、初め女教師かとも思ったが当らなかった。そして十時過ぎ迄様々話して居て、遂々解らず了ひに足が冷たくなったから帰つたが、女はそれでもまだ帰らなかった。若い女が唯一人、夜の十時迄も恁うして居るとは益々解らぬ。唯解つたのは、此女が嘗て江差に居つた事があつて其当時より西堀君と知合らしい事、現在は余市の向ふ六里の地に居て、札幌の親類へ行つたのが今日此小樽に来たのだといふ事。何れ気儘に育つた資産家の娘らしいが、独身(?)で居て男を恐れる風の少しも無い事は、此女の来歴を様々に想像させた。
 西堀君から一円五十銭借りて来て、途中で腰煙草入を四十銭、煙管を十銭に求めた。巻煙草は断然やめる決心也。
 帰つて来ると、札幌の小国露堂君が来て、二度見えたが、モ一度来ると云つて打つだと云ふ話。間もなくやって来た。北門新報が財政上の窮状其極に達して、初刷を出してから休刊して居るので、何とか他に口を求めねばならぬとの事。十二時迄話した。
 
 1月9日
 午前露堂君と共に沢田君を訪ふたが留守。夜再び訪ふと、奥村寒雨君が行つて居て、二人で僕の所へ来ようと云ふ話の最中であった。四人火鉢を囲んで煙草の煙と共に気焔を吐く。
 日報社へ今度来て理事になつた華族の妾腹の子で法学士だといふ谷寿衛が蕩児鯉江の先棒で今夜桜庭女史を訪問した、といふ話は、大に予を激昂せしめた。沢田君は大いにハシヤギ出して、東京で同じ下宿で出くはした、吟声の巧みな女の話などをする。自分も大に火鉢の縁を叩いて弁じた。何日しか問題は社会主義に移り、革命を談じ、個人の解放を論じ、露営君と予は就中壮快な舌戦を試みた。家へ帰つたのは正に午前一時二十分。
 
 

 
明治41年1月7日
短編小説を書こうとする
 
 夜、例の如く東京病が起つた。新年の各雑誌を読んで、左程の作もないのに安心した自分は、何だか恁う一日でもジツとして居られない様な気がする。起て、起て、と心が喚く。東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。
 
 こういう、自信たっぷりの小「啄木」は、日本中に五万といたのだろうなぁ…と考える。
 
 この、小樽にいる小「啄木」も、後世に名を残す「石川啄木」になるためには、さらに今ひとつ、インクも凍る厳しい釧路の冬が必要であり、書く小説、書く小説のことごとくがボツ原稿になって突き返される逼塞の東京が必要であったことを後生の私たちは知っているが、当の石川一はまだ知らない。呑気に新年号を眺めまわしては「さほどの作品もない…」などと自惚れています。
 
 ちょっとかわいい感じもしますね…
 
 
 4日の沢田信太郎に続いて、桜庭チカ(ちか子)のことも紹介しておきます。顔写真があればよいのですが、今日までに探せませんでした。
 
 女史(桜庭ちか子)は今歳二十五になつた。区役所に居る学事の桜庭保君の異母妹で、今潮見台小学校に教鞭を採って居られる。天性画が好きで、所謂才色兼備の、美しい、品格のある婦人。嘗て予が小樽日報の三面をやって居た時、確か昨年拾月末の頃であったと思ふ、三面に入れる挿画を此人に頼む事になって、其以後二三回逢つたのであったが、予の知る限りに於て最も善良なる婦人の一人である。奥村君嘗て評して“共に泣き得る女”と云つた。
(明治41年1月10日日記)
 
 啄木は秘かに友人の沢田信太郎とこの桜庭ちか子を一緒にしては…と思っていたわけですが、9日、はからずも沢田信太郎の家に集まった小国露堂や奥村寒雨たち、いつものメンバーから「日報社へ今度来て理事になつた華族の妾腹の子で法学士だといふ谷寿衛」が「蕩児鯉江の先棒で今夜桜庭女史を訪問」という電撃ニュースを聞かされるわけですね。
 
 「えっ!」という感じで、心中穏やかではない啄木です。
 
次回は、1月10日
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り