五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治41年日誌 (1908年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治41.1.3 与謝野鉄幹・晶子のモデル小説
新詩社の遺方には臭味があると、自分は何日でも然う思ふ
 
 朝、在原が寄って、日報社の例の小林寅吉が二三日中に首になるから、大に祝盃を揚ぐべしだとホクホクして居た。社宛に来た小山内君からの新思潮新年号を持って来て呉れたのだ。新思潮に水野葉舟の小説”再会”が載って居る。読んで異状な興味を覚えた。水野といふ男は早稲田大学の政治経済を卒業した男で、六年前は矢張新詩杜の一人、当時は蝶郎と号して盛んに和歌をやったものだ。三十四年(?)に、随分世の中を騒がしてから例の鳳晶子、乃ち現在の与謝野氏夫人が故郷の堺を逃げ出して鉄幹氏の許へやって来た。与謝野氏には其時法律上の手続だけは踏んで居なかったが、立派な妻君があって子供まであった。水野は蓬った事はないが好男子でよく女と関係つける男なさうだ。そこで何とかした張合で晶子女史は水野と稍おかしな様になつた。鉄幹氏はこれを見付けて、随分壮士芝居式な活劇迄やらかして、遂々妻君を追出し、晶子と公然結婚して三十五年一月の明星で与謝野晶子なる名を御披露に及んだのであった。窪田通治、水野蝶郎等の袂を連ねて新詩社を去ったのは此結婚の裏面を明瞭に表明して居る。聞く所によると、晶子女史は何でも余程水野に参って居たらしい。故郷に居た時鉄幹氏から来た手紙などは一本残さず水野に見せたといふ。……”再会”は此水野と鉄幹とが赤城山で再会するといふ事を書いたもので、自分の見る所は、全篇皆実際の事、少しも創意を用ゐて居らぬ。新詩社中で予の最も服して居る高村砕雨君が水野と共に赤城山に打って居て(二三年前の事)そこへ与謝野氏が打つたのも事実だ。但此時晶子夫人も一緒に行かれたつた様に記憶するが、此小説にはそれがない。小説中山田寒山乃ち与謝野氏の同行者で、色の黒い学生といふのは平野万里、地蔵眉の男は大井蒼梧、職人風の男は伊上凡骨だ。おらくさんと云ふ女の事も嘗て高村君から聞いた実際の女だ。
 明星は十二月号で新年号の予告中に告白して今の所謂自然派たるものに反抗的体度を示した。そして今、自然派の一作家なる水野君は此小説を以て与謝野氏及び新詩社そのものに対する一の侮辱を発表した。何となく面白い世の中にたって来た。子は此”再会”を読んで何故といふでもないが一種の愉快を感じた。予も亦現在猶新詩社の一人であるのだが。
 新詩社の遺方には臭味があると、自分は何日でも然う思ふ。此臭味は、嘗て自分にもあった〔かも〕知れぬ。然し今は無い。毫末もない。此臭味は、ブル臭味である。ガル臭味である。尤も、新詩社の運動が過去に於て日本の詩壇に貢献した事の尠少でないのは後世史家の決して見遁してならぬ事である。詩と広く云ふよりも、単に和哥に於ける革新運動の如きは空前の大成功で、古今に比儔が無い。新体詩に於ての勢力は、実行者と云ふより寧ろ奨励者鼓吹者の体度で、与謝野氏自身の進歩と、斯く云ふ石川啄木を生んだ事(と云へば新詩社で喜ぶだらうが実ば自分の作を常に其機関誌上に発表させた事)と其他幾十人の青年に共作を世に問はしむる機会を与へた事が其効果の全体である。新詩社は無論、団体としては、かの文学界の一団のなした以上の事を成功して居る。これは自分も充分、否充分以上に認めて居る。
 然し新詩社の事業は、詩以外の文芸に及ぼす所極めて尠少であった。あった許りでなく、今後に於ても然うであらうと思はれる。原因は無論人が無いのだ。新詩社の連中は実に一種の僻んだ肝玉の小さい人許りである。彼等の運動が文芸界全般を動かす事の出来ぬのは実に此の為めである。新詩杜は文壇の一角、僅かに一角を占領したに過ぎぬ。そして共同人は多く詩人ぶって居る、詩人がって居る。ぶったり、がったりする人達のやる事だから、其事業が従って小さい。与謝野氏自身の詩は、何等か外来の刺撃が無ければ進歩しない。それは詰り氏白身の思想が貧しいからである。此人によって統率せらるる新詩社の一派が、自然派に反抗したとて其が何になる。自分は現在の所謂自然派の作物を以て文芸の理想とするものではたい。然し乍ら自然派と云はるる傾向は決して徒爾に生れ来たものでないのだ。新詩社には、恐らく自然派の意味の解つた人は一人も居るまいと自分は信ずる。水野君は巧みに彼等を嘲つて”彼等は何か一種の神経を持って居る様な顔をして居る”と云っだ。誠に小気味のよい嘲罵であると自分は考へた。
 

 
あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ
 

 
明治41年1月3日
鉄幹・晶子のモデル小説
 
 雑誌「新思潮」新年号に載った水野葉舟の小説『再会』にいたく感動している啄木。
 
 啄木の何かが動き出している。寅吉がどうしたこうしたにも、もうどうでもいいような書きっぷりが変にカッコいい。よく小樽日報社の一件の説明に引用される「あらそひて…」の歌も、啄木があの事件の連中を晩年赦したとか赦さなかったというレベルで考えるよりは、私は、こういう「もう寅吉なんかどうでもいいもんね」みたいな、少し引いた感情のレベルで考えた方が正解なのではないかと思っています。(冷静に考えるとほんとに「寅吉」なんてどうでもいいことだ…)
 
 寅吉のこともどうでもいいんだが、さらに加えて、小樽日報社のことももうどうでもいいもんね…といった雰囲気も若干感じられるのが、啄木の困ったところ。
 この正月の時期は、大きな啄木人生劇場の中で見ると、「新聞遍歴時代」の最初の停滞期、中だるみの時期にあたるのではないかと思います。小樽日報へ落ち着くまでに、啄木は函館日日新聞社〜北門新報社と二つの新聞社を経験してきていますが、どちらも、遊軍記者(弥生小学校代用教員とのかけ持ち)だったり、校正係だったりと、まあ新聞記者としての見習い修行に近いものでありました。(札幌など、例の「東十六条」のすったもんだが全てで、実質、新聞記者としてのどうこうなんて問うレベルにないと思う)
 小樽日報社に至って、初めて、啄木は本チャンの新聞記者としてのデビューを果たしたといえます。物書きのインテリとして、書いたもので生活の資を得る経験に体当たりで突入したわけで、だからこそですけれど、あのような不本意な形で小樽日報時代が終ってしまったことに少しプライドが傷ついているのではないでしょうかね。
 
 変わってこの時期から、なぜか啄木は「小説」を狙っているような気がするのです。41年日記のあちこちから、なにか「小説」への浮気心がぷんぷん匂ってくる。そして、微妙なんですが、この企みの匂い、俺は「小説家」になる!といった願望の形ではないのですね。それよりはもっと漠然とした形で、「新聞」で果たせなかった散文での野望を、今度は「小説」ではどうだろうか…みたいな、ちょっと陰に籠もった感情。
 
 とにかく、小樽日報社に届いた文芸雑誌の新年号を次々とまわしてもらって、啄木は正月の毎日をせっせと新年号読書に耽っている。なんとなく不気味。
 
 
 この啄木の陰々とした想いが形をともなって来るには今少し間があります。その間を利用して、去年の暮れから続けてきた「東十六条」問題をまとめておきたい。
 
 まず、こちらがオフィシャルな札幌時代の啄木・下宿跡、「北7西4/田中サト方」です。
 
    
 
 札幌駅北口を出たところ、道路の向かい側の区画が「北7条」です。「4丁目」は、駅を出て左側に一区画行ったところ。現在は「クレスト・ビル」という建物になっています。そこの1階通路に啄木の胸像とともに案内板も置いてあります。(昔、ここは小さな郵便局だったような思い出が…でも、案内板だけで、胸像はなかったと記憶するが…なにもかも三十五年前の高校生が見た幻ゆえ) しかし、この啄木像、凄いですね。(レーニンかと思った…) あまりに本郷新の銅像で洗脳されているもんで、なかなかに戸惑います。
 
 啄木が「小国君の宿」とすっとぼけている「東十六条」の家。(実質、厩!) 小国露堂と野口雨情が訪ねていった「9月23日」以後、啄木や家族はどうなったのでしょうか?
 
 ま、考えるまでもないと思います。厩の屋根裏(藁置き場)へ梯子階段を登って…なんて、「腰の曲がった」啄木の祖母や娘の京ちゃんが生活できるとはとても思えない。(そんなこと思いつくの、啄木だけだ…) ランプ一個の下で家族4人が佇んでいる…なんて図、考えただけでも身の毛がよだつ。家族は、たぶんほうほうの体で小樽へ逃げ帰ったと思いますよ。九月末近い札幌で一晩でもそんなところで家族が頑張ったとしたら、オウム真理教クラスの荒行でしょうね。
 
 君を迎えて豚汁つつかむとせしこの札幌を二三日中に見捨てねばならぬ事出来申候、何だか遺憾千万に候へど、一種の遊牧の民たる小生には致方なく候、小生は、この度山県勇三郎氏によつて新たに起さるべき小樽日々新聞社に入る事に昨夜確定仕候、
(明治40年9月25日/宮崎大四郎宛書簡)
 
 啄木も札幌生活に諦めがついたのではないか。この日以降、日記、書簡とも、「小樽」「小樽」…の連発になって行きます。(「小樽日々新聞社」という言い間違い、なんとなくもの悲しいです) かくして27日、啄木は、かなしき小樽へ。
 
次回は「1月4日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り