五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.12.31
来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり
 
 大晦日
 来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり。多事を極めたる丁未の年は茲に尽きむとす。然も惨憺たる苦心のうちに尽きむとす。此処北海の浜、雪深く風寒し。何が故に此処迄はさすらひ来し。
 多事なりし一歳は今日を以て終る。この一歳に贏ち得たる処何かある。噫、歳暮の感。千古同じ。
 朝沢田君に手紙を送る。要領を得ず。外出して俳優堀江を訪ふ、蓬はず。帰途大硯君に余す、「大晦日は寒い喃。」「形勢刻々に非なりだ。」行く人行く人皆大晦日の表情あり。
 笹川君に妻を使す。要領を得ず。若し出来たら午后十時迄に人を遣らむと。
 予は英語の復習を初めたり。掛取勝手に来り、勝手に後刻を約して勝手に去る。
 夜となれり。遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と子の衣二三点を以て三円を借る。之を少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。
 かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ。遠く夜鷹そばの売声をきく。多事を極めたる明治四十年は「そばえそば」の売声と共に尽きて、明治四十一年は刻一刻に迫り来れり。
 
  丁未日誌終
 
 

 
 
明治40年12月31日
来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり
 
 啄木の「明治四十年丁未歳日誌」の文章は本当に美しい。私は、今年、この「四十年日記」を基にして「五月から始まる啄木カレンダー」という絵葉書を作ったのですが、毎月毎日の啄木の言葉を書き写していて飽きることがありませんでした。明治の二十二歳の青春に正直しびれました。
 
 来年、これと同じ五月から始まるカレンダーをやってくれ…と言われても、もうたぶんできないでしょう。心は、もう二度とこの同じ場所にとどまってはいられないから。小樽の日々は早く過ぎる。
 
 
 
 ふたたび、私の、スレも立たないマイナー地名in札幌、「東十六条」へ。
 
 野口雨情の『札幌時代の石川啄木』に現れた啄木像。
 
 
@札幌へ出て来たいきさつ
時は十月に近い九月の末
札幌には自分(啄木)の知人は一人もない
函館に今までゐたのも岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営した
全くの孤立である
幸ひ新聞で君(野口雨情)が札幌にゐると知つたから
君の新聞へでも校正で良いから斡旋して貰はうと札幌までの汽車賃を無理矢理工面して来た
何んとかなるまいか
 
A北門新聞への斡旋
私(野口雨情)の新聞社にも席がない
北門新聞社に校正係が欲しいと聞いた
幸ひに君(啄木)と同県人の佐々木鉄窓氏と小国露堂氏がゐる
私が紹介をするから、この二人に頼むのが一番近道であることを話した。
啄木もよろこんで十時頃連れ立つて下宿屋を出た。
これが啄木と始めて会つたときの印象である。
 
B北門新聞の校正
啄木は佐々木氏か小国氏か二人を訪ねて北門新聞社へ行つた。
私(野口雨情)は途中で別れて自分のゐる新聞社へ行つた。
その夕方電話で北門の校正にはいることが出来て
社内の小使ひ部屋の三畳に寄寓すると報(し)らせて来た
月給は九円だが大いに助かつたとよろこんだ電話だ。
 
C「東十六条」へ
それから三日程経つと小国氏から、
啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐる
新聞社だから女や子供がゐては困る
東十六条に家を借りて夕方越すから今夜自分(小国露堂)も行くが一緒に来て呉れ
私(野口雨情)は承知して待つてゐた。
その頃東十六条と言へば札幌農学校から十丁程も東の籔の中で
人家なぞのあるべき所と思はれない。
そのうちに小国氏は五合位はいつた酒瓶を下げてやつて来た、
私は啄木の越し祝ひの心で豚肉を三十銭ばかり買つて持つて行つた。
(小国氏は歩きながら)
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが…
 
D「東十六条」の啄木一家
籔の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄木の所へ着いた。
行つて見ると納屋でなく廐(うまや)である。
馬がゐないので厩の屋根裏へ板をならべた藁置き場であつた。
隣りが荷馬車曳の家でこの広い野ツ原の籔の中には他に家はない
啄木は私達を待つて表へ出て道ツ端に立つてゐた
腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた。
廐の屋根裏には野梯子が掛つてゐる
薄暗い中を啄木は、『危険(あぶな)いから、危険いから』と言ひながら先に立つて梯子を上つてゆく
屋根裏には小さい手ランプが一つ点いてゐるが、誰の顔も薄暗くてはつきり見えなかつた。
 
 
 
 @札幌へ出て来たいきさつ
 もしも野口雨情の証言が正しいとした場合、啄木は何の勝算もないまま函館を出たことになります。函館では、周囲の友人たちに、北海道庁に勤務する向井永太郎の世話で北門新報社校正係の職を得たと言っていますが、それは啄木の格好付けのでまかせであったか、あるいは、単に啄木の勝手な思いこみ(向井永太郎がなんとかしてくれるだろう…みたいな)だった可能性があります。
 日記にある、9月14日午後1時札幌駅に到着した啄木を向井と松岡蕗堂が迎えに来て、「北7条西4丁目田中サト方」の松岡の下宿部屋に同居させてもらった…という記述も、単に当座函館時代の友人の下宿に転がり込んだということなのであって、そのことと、16日の「北門新報社への初出社」とは結びつかないということにもなります。
 
 A北門新聞への斡旋
 啄木日記では「16日の初出社」。たしかに、その前日の9月15日には、昼に向井永太郎とともに小国露堂を訪ねているし、夜には小国とともに北門新報社社長の村上のところへ挨拶に行ったという記述もあります。ということは、別段、野口雨情の口添えを頼む必要はないではないか?
 たぶん、なかったのでしょう。北門云々は、雨情の下宿へ押しかけるための口実ではないかと思われます。煙草銭まで切らしているような素寒貧の状態から見て、朝飯か借金かをねだりに行ったのでしょう。
 あるいは、@で考えたように、向井永太郎ルートのコネが弱いか無かったがために、野口雨情ルートなどとの二股をかけていたのかもしれない…とも想像できますが、「時は十月に近い九月の末」という雨情の表現とは少しかけ離れています。やはり突発的な思いつきでしょう。だから、ちっとはカッコ悪い思いもあって、啄木の方は日記にこのことを書いていないのではないですか。
 
 B北門新聞の校正
 雨情の書いている「東十六条」の家の話を小国露堂が切り出してくるのが、たぶん「19日」頃ではないでしょうか?
 啄木は何か生活に動きがあれば必ず宮崎郁雨など函館時代の友だちに手紙を出しているのですが、函館を出る直前の9月12日付ハガキを最後に、9月19日付の宮崎郁雨宛書簡までその消息は一時途絶えます。その後、19日からは、今度は一転、「19日」「20日」「21日」「23日」とたたみ込むように手紙が再開されて行きます。内容も、「19日」書簡で初めて北門社での仕事内容に具体的に言及。「20日」書簡でようやく具体的に小国露堂の人となりにも言及。また、あの有名な「北門に歌壇起したよ」の文句が見えるのもこの「20日」書簡です。
 翌「21日」の宮崎郁雨宛書簡では、
 
小生当地に入ってより、後に残りし一家は十六日に焼跡をひき上げて小樽なる姉の許に落ちつき居候ひしが、今朝せつ子一人一寸参り、四五日中に来札の事にきめて只今六時四十分の汽車にて帰りゆき候、 (傍点は新谷)
 
などいった意味深な箇所も見受けられます。同じような言及は「23日」付の並木武雄宛書簡にもあって、例えば、
 
一昨日はよき日なりけり。
小樽より我が妻せつ子
朝に来て、夕べ帰りぬ。
札幌に貸家なけれど、
親切な宿の主婦(かみ)さん、
同室の一少年と
猫の糞他室へ移し
この室を我らのために
貸すべしと申出でたり。
それよしと裁可したれば、
明後日妻は京子と
鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、
携へて再び来り、
六畳のこの一室に
新家庭作り上ぐべし。
願くは心休めよ。  (傍点は新谷)
 
という一節などは、いかにも、もしかしたらこれが「東十六条」か!と早とちりをさせそうです。なにか未亡人田中サトさんの実家が札幌郊外の琴似村かなんかにあったとかね…厩で暮らしていた「一少年と猫の糞」を追い出したりして♪
 まあ、とにかく「19日」書簡には「小生はこの室に松岡君と同室」とありますから、9月19日までは啄木は「北7条西4丁目田中サト方」にいたのでしょう。しかし、居候も一週間に及ぶと、いくら親友でも愛想は悪くなる。そして16日には、家族も函館を出て、もう小樽まで来ている。たぶん、啄木はかなりせっぱ詰まっていたと思われます。
 
 C「東十六条」へ
 9月16日に初出社してまもなく、啄木は、北門新報社の「小使ひ部屋の三畳に寄寓する」という上手いアイデアを得た。で、さっそく家族をその「小使ひ部屋」に呼び寄せたのではないでしょうか。そして、啄木自身は、「松岡君下宿」と「小使ひ部屋」を転々と往復か?そうすれば宮崎郁雨たちの手紙は「北7条西4丁目田中サト方」で全部チェックすることができます。(そして、後世の私たちは、「北7条西4丁目」の住所は変わらないため、札幌時代の二週間啄木は「北7条西4丁目」に住んでいた…と誤解することになります。)
 雨情の文章で、「それから三日程経つと」小国露堂から啄木の家族三人が小使部屋に同居していて困る!という苦情を受けとる場面がありますね。啄木一家が北門新報社に居候を始めてから三日後くらいが「9月19日」、さらに小国露堂が家を探したりしてすったもんだした結果、ようやく「東十六条」の家へ移ることになったのが「23日」頃なのかなぁ…とか私は想像しましたけれど。
 
 雨情の証言が変な信憑性を持っているのは、ひとつには、文章の中で小国露堂の言葉を描いているところです。
 
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが、函館から三人も後を追つて家族が来るとは判らなかつた、社長からは女や子供は連れて行けと叱られるし、僕も困つて彼に話すと彼も行くところが無いと言ふし、やつと一月八十銭の割で荷馬車曳きの納屋を借りた、彼は諦めてゐるからいいやうなものの、三人の家族達は可哀想なもんだな』
 
 こういう言葉は、なかなか創作でできることではないのではないでしょうか。
 
D「東十六条」の啄木一家
 そして、雨情の文章のふたつめの変な信憑性とは、ここには、啄木の「三人の家族達」への言及があることなのです。啄木ひとりだけの話ならば、なにかしら雨情は啄木と誰か他の男を勘違いしているのだろう…ということもありえるでしょう。でも、啄木と一緒に「腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた」という一行が入ると、この「啄木」を誰か他の男と間違えて記憶するバカなんていないと思うのです。(ましてや、雨情は新聞記者でもあるのだから!)
 
 
 啄木の「9月23日」日記に、きわめて興味深い記述があります。
 
 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報杜に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又滋に札幌を去らむとす。凡ては自然の力なり。小樽日報は北海事業家中の麟麟児山県勇三郎氏が新たに起すものにして、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。
 
 「小国君の宿」とは、いったい何?
 
 もしも「野口雨情君と初めて逢へり」ということが啄木のすっとぼけた大ウソなのだとしたら、こちらの「小国君の宿」というのも、たぶん同じくらい大ウソでしょう。私には、これが「東十六条」に思えます。
 
次回は「明治41年1月1日」
 

 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り