五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.12.21
沢田君が予と別るるの辞を載せたり。
 
 12月21日
 二十一日の新聞には退社の広告を出し、二十二日の新聞は沢田君の予に別るるの辞を載せたり。
 大硯斎藤哲郎君、小国君沢田君等、予の将来に関して尽力せらるゝ所あり。予は我罐を通すを得て大に天下太平を叫ぶ。
 予の日報に書きたるもののうち当時を紀念すべきものを抜牽して「小樽のかたみ」を作る。
 
 12月21日
 朝新聞を見る。〔以下十六字抹消〕沢田君が予と別るるの辞を載せたり。
 午後斎藤大硯君来り露堂君来る。談論風発す。夜、露堂子と携へて沢田君を訪ふ、逢ばず。大硯君を其僑居に訪ふて深更に及ぶ。大硯君の談個々其経歴に及ぶ。年少気鋭、嘗て日本新聞社に在り、後総督府官吏として台湾に赴く。性もと放淡、瓢然辞し去って、郷里青森に帰り、郷党に号令して成すあらむとす。これ実に快男子大硯君が生涯を誤れる第一歩なりき。所謂故山は人を殺すこと多し。後、函館に渡りて日々新聞に主筆たる事殆んど十年、予が同社に入れる時亦君主筆たりき。今や乃ち精気大に鈍り、漸く老ひ去らむとす。また小説中の主人公なり。予のために北海タイムス社に交渉せむとすと云ふ。
 
 12月22日
 夜、藤田武治来り切に人生を解するの途を訴ふ、大に個人主義を説く。
 
 12月23日
 多事に困しむは無為に困しむの意義なきに優る。
 午后大硯君来る。夕刻大口堂主人海老名又一郎君来る。一富豪のために其運をトして数十金を得たりとて新調の衣服を纏ひ、意気稍々快復せるものの如し。主人亦零落の人、赭顔漫ろに人生の惨苦を忍ばしむるものあり。
 夜、佐田君来り、奥村寒雨君また会す。佐田君由来庸俗の徒、語るに足らず、談偶々戦役の事に及び、はしなくも主戦非戦の説起り、寒両君切に非国家主義を唱へて予の個人解放論に和す。好漢大に語るべし。佐田君遂に此間の思想に触れず。哀れむべきは斯くの如き無思想の徒なるかな。
 世界の歴史は中世を以て区画せらる。中世以後の時勢は一切のものを解放して原人時代の個人自由の境界を再現せむとす。我らの理想は個人解放の時代なり、我等の天職は個人解放のために戦ふにあり。
 
 12月24日
与謝野氏へ久し振にて手紙認む。
 
 

 
(退社広告)

 小生本日を以て退社候也
  二十一日 石川啄木
 猶小生に御用の方は区内花園町畑十四番地(月見小路)に御申越下度候

 
 
(小樽日報 明治40年12月21日・第52号)

 
 
石川啄木兄と別る  沢田天峯
 
 文壇に於ける啄木兄の文名は余夙(つと)に之を記せり。其の肇めて親炙せるは函館に於ける苜蓿社同人の会合の席なりとす。爾来兄は北門社に往き更に日報社に転ずるに及で、余は蓬々として兄の跡を趁(お)ひ、同じく社中に事を共にするに至る、蓋し又一箇の奇縁の繋がるものなしとせず。而して僅に三旬に充たざるの今日に、蚤(はや)くも袂を別つの余儀なきに至る、之を天命と云はんは余りに無造作すぎたるにあらずや。兄の齢少又壮、常に気を負ふて、塵外に超然たるは、斉(ひと)しく同人の推服する所に属す。余は実に兄の庸俗(ようぞく)に解嘲を意とせざるの量に敬す。兄の余に求むる所のもの或は絶無なるべし、而かも余の兄に求めんと欲する所のものに至ては、決して鮮少にあらざるなり。天下真に不遇の天才あるべし、自重して益々文運に資する所あれよ。敢て啄木兄の為めに贅す、点頭善と称するに未し乎。
 
(小樽日報 明治40年12月22日・第53号)

 
明治40年12月21日
石川啄木兄と別る
 
 12月12日の夜に小林寅吉と言い争って殴られた啄木は即座に退社を決意。それから一週間ほどの間、友人たちに翻意をうながされたり、小樽日報社にかわる新聞社を打診したりと、あれこれ動いてはいたのですが、結局、この12月21日発行の『小樽日報』紙面に、沢田信太郎の筆になる「石川啄木兄と別る」という惜別の辞が発表されたことにより、ここに啄木の失業が確定してしまいました。
 皮肉な事態…ついひと月前の11月20日、当時の主筆・岩泉江東を排斥し、新編集長に函館時代の友人・沢田信太郎を小樽日報社社長・白石義郎に強く推したのは啄木自身なのではありました。その沢田信太郎が惜別の辞を書くとは… (不思議なことに、この12月21日号には、辞めたはずの岩泉江東も別れの言葉を寄せています。「最後の一言」という文章と「聴追分」という漢文の二本立て。ここまでがっちり「退社」を既成事実化されてしまったら、さすがにもう小樽日報社には戻れない。)
 12日夜の事件の発端となった、札幌で計画されているという新「新聞社」(啄木はこの新聞社に乗替えようとして12日に小樽日報社を無断欠勤して札幌に行っていた。帰りがけに小樽日報社に立ち寄ったところを寅吉に見とがめられて、あの殴打事件になる…)も事がはかばかしく運ばない。もう一つ、知人を通じて就職を打診していた北海タイムス社も駄目。そんなわけで、12日夜から始まって、白石社長から釧路新聞の打診が来る12月25日までの十日間ほどが、啄木の北海道漂流の一年間の中でも、先に何の展望も見出せない、最も過酷な時期ではなかったかと思われます。
 
 
 こんなのが啄木にとっての「小樽」だった…ということに、小樽市民としてはなんとも言えない悲しみを感じます。でも、百年後の私たちは、こんな「小樽」があったからこそ、百年の歳月を越えて人々の心を励ます名歌をこの世に残すことになる「啄木」が生まれたのだということを知っている存在でもあり、心はなかなか複雑です。
 
 
 その転々と生活の糧を求めて、浪淘沙のように動いた姿を漂泊時代と人はいうが、むしろ新聞遍歴時代と呼ぶにふさわしい。
(清水卯之助『石川啄木―愛とロマンと革命と』より、「啄木の朝日入社」)
 
 
 私も賛成ですね。
 
 啄木の北海道時代を「漂泊」などという甘ったるい感傷的な言葉で呼ぶと、まるで『一握の砂』の名歌を生み出すために北海道を転々とした一年間があったかのような、今の私たちの誤解をさらに補強しかねない。でも、それは誤解なのです。
 
 例えば、この明治40年12月21日の啄木には、俺は日本一の歌人になる!とか、後世に残る名歌を創ってやろう!などといった意識はかけらもありません。この日も歌をつくっていたこととは思いますが、それは単なる気晴らし、啄木の「悲しき玩具」でしかないのです。(これを言うと怒られるかもしれないが…)この時期の啄木の歌は、基本的には、私が毎日撮っているデシカメ写真と同じだと思います。その意識の有り様は。美しい芸術的「小樽」を撮りたいわけではなく、ただもう、今日は初雪が降ったから、昨日までの雪のない「小樽」写真はホームページで使えないな…と頭で考えるまでもなく指はバチバチシャッターを押している…という、そういうことだと思います。
 
 それとは逆に、この時の啄木には、もしかしたら、俺は日本一の新聞記者だ!という意識はあったかもしれない。あるいは、俺は(『明星』時代の詩文に続いて)今度は散文の世界でも名を成してみせる!みたいな意識というか。北海道を転々としていた一年間、啄木が、それぞれの土地の田舎文士や新聞記者に対して持っていた優越感とは、俺は東京に戻って小説を書けば必ずものになるんだ!という強烈な思いこみでした。当時勃興中だった自然主義小説など俺には簡単に書けるんだぜ!という。
 
 北海道「漂泊」の一年間と上京してから朝日新聞社の校正係の職にありつくまでの一年間というのは、いわば、この啄木の傲り高ぶった心の角が、現実に「新聞社をクビになる」とか「小説が売れない」といった(啄木のプライドがいちばん傷つくような)打撃でガチガチと壊されて行く過程であったといえるかもしれません。この、明治40年12月の小樽の事件などは、まさしくそういう意味で大打撃の第一弾といえるでしょう。(函館大火は啄木にとっては天災ですから、そんなに自分に返ってくる打撃はなかったと思います。でも小樽の場合は「あらそひの因も我なりし」ですからね。)
 
 
 清水卯之助氏は啄木の朝日新聞への入社を「奇蹟」と表現していますけれど(←凄いお言葉…)、私は、啄木の最後の頭の引き出しにまだ「歌」が残っていた事実の方が遥かに「奇蹟」だと思いますね。生活破綻者で終る一歩手前、紙一重の境までよくぞ生き残っていたものだ、と。こういう必死の歌は強いだろう。まったく「悲しき玩具」とはよくぞ名付けたものだ。
 
 
次回は「12月25日」

 
 
 
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
 
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り