五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
明治40.12.12 小樽日報退社を決意
社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。
12月12日
十二日夕刻の汽車にて帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。
12月13日
十三日より出社せず。社長に辞表を送る事前後二通、社中の者交々来りて留むれと応ぜず。
12月15日
十五日小国露堂君札幌より来り、滞樽一週間。
12月20日
二十日に至り、社長より手紙あり、辞意を入れらる。
殴らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな
明治40年12月12日
小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。
寅吉の顔、けっこうムカつく…(こんな奴、短大にもいたなぁ)
「小樽日報」が売れないのは、こんな奴が番頭をやっているからだ。俗物。才覚のない人間は、そのことがバレないためならなんでもする。
気の弱い野口雨情をクビにし、親分の岩泉江東を解任された意趣返しに、今度は啄木がポカをしでかすのを虎視眈々と狙っている。おかしな記者ばっかりだから、ウチの新聞は売れないんだ…とか平然と言う。
そんなヒマがあるんなら「小樽日報」のセールスに街へ行ってこいよ…営業、やれば…とか思いますけれどね。でも、寅吉はそんなことしない。会社の自分の机にしがみついているからこその、「事務長」であり、「寅吉」なんだもん♪
営業はしないし、そうかといって、記事が書けるわけじゃない。でも、社内会議の椅子には座っていたい。結局、こんなバカが棲みついた会社がどうなるか、私が100年後の未来から教えてあげよう。
風雲児山県倒れる
山県勇三郎――九州の平戸出身。根室の柳田藤吉に目をかけられ、やがて独立して海産物仲買人に。
ただ同然で手に入れた国後島のニシン場でひと山あて、海運、鉱山経営などにも進出した北海道経済界の風雲児だが、日露戦争後ひっくりかえる。
石川啄木が一時籍を置いた小樽日報も、その山県が金主になって明治四十年十月につくった新聞社。
啄木は三ヶ月足らずで飛び出すが、飛び出さなくても翌四十一年四月には廃刊になる新聞であった。
“金主”の山県が三月三十日、神戸から南米に向けて逃げ出してしまったのだ。
船は出ていく、煙は残る――このときは煙といっしょに三百五十五万円という借金のとばっちりも山県は残した。
北海道貯蓄銀行との関係ははっきりしないが、なにせ借金王山県。五千、一万のものではなかったろう。
(『星霜4』より、「揺れる銀行―“休業”した北海道貯蓄銀行」)
ま、頭の悪い番犬の人生…
寅吉なんか、どうでもいい! 問題は今日の雨…ではなかった、昨日の雨情。
昨日(12月11日付「今日の啄木」)の、野口雨情の一文がまだ心にひっかかっています。
今朝少し寝坊して、顔を洗ふや否や食堂に駆け込むと、「石川さんお手紙がまゐって居ます」といって、親切な宿の主婦さんが一封の郵書を渡してくれた。見れば君からである。………
(明治40年9月23日札幌より 宮崎大四郎宛書簡)
うーん、ちゃんと、「北7条西4丁目」の田中サト未亡人宅に下宿しているではないか… 雨情は何言ってんだろう? この23日以降、小樽に現れる10月1日までの一週間の間に、雨情が言う「東16条」の急展開があったのだろうか?
次回は「12月21日」
啄木転々
「五月から始まる啄木カレンダー」改題
短歌篇 日記篇
絵葉書 / 付:2003.5〜2004.4カレンダー
各12枚組 プラスチック・ケース(スタンド式)入り