五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.11.6
花園町に家を借りて移る。
 
十一月六日
 花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。
 
 

 
あはれかの眉の秀(ひい)でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑みしが
 
あをじろき頬に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人(あきびと)
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 

 
明治40年11月6日
花園町に家を借りて移る。
 
 花園町に引っ越した翌日の「小樽日報」(明治40年11月7日・第15号)に、啄木は『貸家の昨今』という記事を書いています。この11月の時期の、日記と「小樽日報」記事の関係を見る上で典型的な形ですので全文引用します。
 

 
貸家の昨今
 
 小樽の貸家賃の滅法高い事は内地でさへ能く例に云はれて居る位なるが、之は他に比較もならぬ程急激な膨脹をなしつゝあるが為め入込む人のみ多くして之を収容すべき家屋なき現況ありさまなれば致方(しかた)もなしとして、殊に函館の大火以来は何百戸といふ焼出され其が一時に溢れ込み当座は殆んど区内に一軒の空家もなく、従って家賃の騰貴著るしかりしも昨今に至りて鞘々常態に復し、函館に帰り行く人も日に二三戸平均にある事なれば方々に貸家札目につく様になりたるが、欲深い家主共が一旦上げた家賃を下げる気がないので容易に借手付ず、表面威張っては居れど内々困って居る由なり。
 
(小樽日報 明治40年11月7日・第15号)

 
 日記の方は、この「十一月六日 花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る」を最後に、以後、12月11日の「札幌に行き……中西代議士の起さむとする新聞に就て熟議したり」(←札幌の新新聞社への乗り換えを画策。これが例の小林事務長・殴打事件の発端)までずうーっと空白が続きます。
 その間、啄木的表現によると、会社としての小樽日報「社は暗闘のうちにあり」(10/20日記)という殺伐とした状態なのですが、新聞記者としての啄木は精力的にコンスタントに記事を書き綴っています。例えば「夜、恵比須亭の演芸会を見、かへりに大黒座に寄りて坐付作者花岡章吾と語り大に馳走に」(10/22日記)になった翌々日には、『恵比須亭の演芸会』(10/24日報)という記事がもうできているといった具合に。
 この『貸家の昨今』記事も、きっと家探しの最中に耳にしたことをすかさず記事に仕立てあげたものなのでしょう。一見すると「函館大火」との関連をもっともらしく述べた社会面記事にも見えますが、最後の一言「欲深い家主共」という言葉には、私、吹き出してしまいました。やっぱり啄木だ…(これを言わずに黙って「函館大火」のことだけ書いていれば、平穏なサラリーマン人生が送れるのに…)
 
 
11月6日 この頃藤田南洋、高田紅果が訪問し、その後も交流が続いた。
(水口忠「明治40年・啄木と小樽」より)
 
(左から高田紅果、松本清一、藤田南洋)
 
 この時期、特筆しなければならないのは、当時16、7歳の少年だった「高田紅果・藤田南洋」の啄木家訪問でしょう。特に、「眉の秀でし少年」高田紅果の来訪は、後に、生前の啄木の(それも北海道時代の)姿を伝える『在りし日の啄木』となって結実する点で大変貴重な出会いといえます。その『在りし日の啄木』から「荒物屋の隣り」という章を見てみます。訪ねていったのは、11月6日に越してきたばかりの花園町畑十四番地の家。
 

 
荒物屋の隣り
 
 角の荒物店のすぐ後ろの一戸建ての平屋で、玄関に硝子嵌めの引戸が立ち、左側は九尺の格子が嵌め込んで、落付いたしもた屋風な住宅であった。踏み込むと一坪の玄関土間か板張りになって、その片隅の方に、木炭の俵が口を開けた侭、どっかりと置いて、突き当たりのお勝手との間仕切りには、まだ障子も硝子戸もたてて無かったと記憶する。
 玄関から入った土間の左側に、六畳の茶の間があり、格子窓の直ぐ下の囲炉裏の前で、啄木は木綿の黒の紋付きの羽織を着て座っていた。五分刈りの坊主頭で、色白の顔容はいかにも若々しく、どちらかと言えば子供らしい稚気に充ちた感じである。おでこの広い前額は聡明を思わせ、円な眼は野心に充ちた負けぬ気抜きを示して見えるが、全体を通じて何とも言えぬ人懐かしさ、少年の私に与える魅力に充ちたもの………それが私の第一印象として強く心に刻まれたものである。
 
(高田紅果「在りし日の啄木」より)

 
 
 「あをじろき頬に涙を光らせて/死をば語りき/若き商人」と詠われているのが「藤田南洋(武治)」です。当時、小樽市内の雑穀商・浜名商会に見習店員として働いていました。だから、「若き商人」。
 藤田南洋も、その後大正初年に小樽の海鳥社の同人となって活躍します。その創刊号には『石川啄木氏の面影』という作品の名も見えますので、これはぜひ探して、「おたるの青空」に加えたい。
 
 
 今までの「今日の啄木」を若干整理しています。10月いっぱいで函館時代の部分をまとめました。11月中には札幌時代までも一旦ホームページ上からは外し、スペースを作って、これからの小樽〜釧路時代に備える予定です。この11月の日記空白をインターミッション(休憩)として使います。
 
 デジタル篇の「今日の啄木」は、釧路時代を少し過ぎて、「東京」に戻ってからの明治41年7月頃までの約三ヶ月間をも引き続き「北海道の啄木」の一環として扱います。北海道を漂泊していた一年間、啄木の頭の中には、俺は東京に戻って小説さえ書けば必ずものになるんだ…この流浪の人生を取り返せるんだ…という想いが絶えずあったように感じます。はたして東京での生活がそのようなものとして結果したのかどうか? ここには、小説家啄木の敗北と歌人啄木の真の誕生という「北海道」漂泊ドラマの総決算があるように私は感じますので、ぜひ追いかけて書いてみたい。「五月から始まる啄木カレンダー」は、ここまでやって完結となるでしょう。
 
次回は「11月19日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
プラスチック・ケース(スタンド式)入り
 
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