五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.30〜31 野口君は悪しきに非ざりき、主筆の権謀のみ。
野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。
 
 10月30日
 主筆此日予を別室に呼び、俸給二十五円とする事及び、明後日より三面を独立させて予に帳面を持たせる事を云ひ、野口君の件を譲れり。
 野口君は悪しきに非ざりき、主筆の権謀のみ。
 
 10月31日
 野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。
 
 11月1日
 此日より三面を主宰す。
 

 
酒のめば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ
 
樺太に入りて
新しき宗教を創(はじ)めむといふ
友なりしかな
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 

 
明治40年10月31日
野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。
 
 「樺太に入りて新しき宗教を創めむといふ友」か…
 
 どちらの歌も、函館時代の友「斉藤大硯(たいけん)」を詠った歌です。斉藤大硯も函館大火で函館日日新聞社・主筆の地位を失ったりしていて、考えようによっては、啄木以上にそのダメージは大きかったといえるでしょう。で、ただの「新しき宗教を創めむ友」という歌だったら、まあ斉藤大硯の人柄を的確に描写したいい歌だなぁ…という程度の感想で終ったと思うのです。でも、ここが啄木! 啄木は、ここに「樺太に入りて」というフレーズをバッと持ってくるんですね。この技が凄い!歌が一気に爆発します。
 それに比べると、「酒のめば鬼…」の歌は、なんだかなぁ。なんで、この歌を入れたんだろう?隣りに並ぶ「樺太に入りて…」をひき立てる以外、あまり意味はないように感じますが。ちょっと迷ってバットを出したら、平凡なキャッチャー・フライに討ちとられてしまいました…という感じ。まあ、全打席ホームランなんて超人はこの世にいないわけだから、こういう日もあるよ…といったところか。
 
 
 「樺太」話題の道すがら、ユニークなホームページを発見。上西勝也氏のホームページ「三角点の探訪」です。
 
 三角点とは山の頂上や見晴らしのよいところに国が設置した標石でその位置の経度、緯度、標高が正確に測量されています。地図の作成になくてはならないものです。三角点は全国に約10万点あります。このホームページではわたしが探訪した三角点をはじめ地図や測量に関する話題を紹介します。
 
 そこの「下巻」の「6.測量史跡・モニュメント」に、「旧樺太(サハリン)の日露国境標石」という章があります。
 
 日露戦争後の1905年(明治38)ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することになりました。翌1906年から1908年にかけて天文測量による日露両国の国境画定作業がおこなわれ東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡側までの、おおよそ130キロメートルの間に4基の天測境界標、17ヶ所に平均6キロメートルごとに中間標石、19ヶ所に木標がたてられました。
 
 ふーん、なにか『指輪物語』みたい。
  三つの指輪は、空の下なるエルフの王に
   七つの指輪は、岩の館のドワーフの君に、
  九つは、死すべき運命の人の子に、
っていう、懐かしい歌を思い出します♪
 
 さて、その4基の天測境界標(=天測標石)がどこにあったかというと、
 
 「天第一號」はオホーツク海側の旧遠内海岸近くありましたが1987年(昭和62)に国境警備隊が撤去、台座も破壊されました。標石はユジノサハリンスク(豊原)のサハリン州立博物館(元樺太庁博物館)にあります。「天第二號」はポロナイ川(幌内川)右岸付近にあり1994年(平成6)に銃弾の跡がのこる標石を現地住民が確認、1997年(平成9)根室市郷土資料保存センターに移転されました。「天第三號」は中部スミルヌイフ(気屯)の北30キロメートル、国境を縦断する街道付近にありました。1938年(昭和13)当時の人気女優、岡田嘉子さんと演出家、杉本良吉さんが国境を強行突破しソ連領内に駆け込んだ事件はこの付近といわれています。岡田さんは1992年にモスクワで死去、杉本さんは1939年に銃殺されました。標石は1949年(昭和24)に撤去されユジノサハリンスクのサハリン州立博物館に移転され「天第一號」とならべて展示されていますが、これは日本の旧樺太庁が作った複製の可能性があります。台座は現地に放置されています。「天第四號」は間宮海峡側のボズウラシチェニエ(安別)にありました。1930年(昭和5)以前に標石の刻印、双頭鷲紋章が何者かによって削り取られた、いわく付きのものです。1985年(昭和60)に現地営林署が破壊、運搬途上で船は沈没したそうですが標石実物はサハリンにあるともいわれています。
 
 謎の「天(測標石)第四號」! ボズウラシチェニエは前々回の「野口雨情」のところでふれました日本名「安別(アモベツ)」の地ですね。
 
 ほんとになぁ、この4基の「天測標石」や17基の「中間標石」が今一度揃うと、この世にモルドール「樺太」が復活する!なんてことになったら、どうしましょ。して、それらの天測石を統べる最後の「ひとつの指輪」は今どこに眠る…なんてね。ふっふっふ、私は、その場所を知っているよ。それは、ここだ!
 
 
 函館・立待岬にある啄木の墓は、じつは、でっかい天測石!なんと、樺太の国境標石の形をモデルにしているのです。
 
 
 ロシアの博物館以外、日本国内で見ることができる「樺太国境標石」です。
 
 まず、「天測標石」は、先ほども出てきた根室市郷土資料保存センターの「天第二號」。あと、模造が、東京の明治神宮聖徳記念絵画館と札幌の北海道神宮・樺太開拓記念碑のそばにあります。そして「中間標石」。これは、なんと(私も知らなかった…)身近も身近、小樽の水天宮にあったのです。
 
 水天宮本殿の内陣(屋外)にあり立ち入ることはできませんが周囲にめぐらされた、へいの格子から覗くことができます。また近くには小樽市当局の設置した説明板が設置されています。天測境界標とほぼ同形ですが大きさはひとまわり小さく、触れられないのでよくわかりませんが高さ50、正面上幅30、側面下幅20センチメートル程度と推定されます。片面に「第 號」と刻字があるのみです。説明板によると1931年(昭和6)に小樽公園から現在地に移設されました。国境標石は当時すべて小樽港から積み出され、その縁の地にのこっているのですが水天宮の中間標石は後年つくられた模造品ではなく当時余分に製造された実物です。また水天宮山上には当時の水路部が1893年(明治26)に設置した経度標があり国境画定に際し経度の基準とされました。
 
 いやー、「樺太」のことを調べて行くと、今まで知らなかった「小樽」が次から次へと現れてきて驚かされます。毎日目にしている小樽風景ではありますが、その意味を知らないばかりに、目の前に「それ」があるのに私には「見えない」も同然だったのだ…という経験はよくします。例えば、この「ニコライエフスク殉難者慰霊碑」。
 
 
 (ニコライエフスクは樺太ではありませんが、ひとつの喩えとして…)この慰霊碑が小樽のどこか…なぜ建っているのか…を即答できた人は、かなりディープな小樽人だと思いますね。恥ずかしながら、私は在小樽11年目を迎える昨今になってようやくのこと、これを知りました。
 
次回は「11月6日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
プラスチック・ケース(スタンド式)入り
 
案内はこちらです。