五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.16 野口雨情の策謀か?
野口は予等を甘言を以て抱き込み、秘かに予等と主筆とを離間し、
 
 10月16日
 此頃予が寓は集会所の如くなり、今日も佐田君西村君金子君来り、野口君来り、隣室の天口堂主人来る。何故か予が家は函館にても常に友人の中心とたるなり、〔註 以下十三行斜線にて抹消〕この日一大事を発見したり、そば予寺本日に至る迄岩泉主筆に対して不快の感をなし、これが排斥運動を内密に試みつつありき、然れどもこれ一に野口君の使嘱によれる者、彼「詩人」野口は予等を甘言を以て抱き込み、秘かに予等と主筆とを離間し、己れその中間に立ちて以て予らを売り、己れ一人うまき餌を貧らむとしたる形跡歴然たるに至りぬ、予と佐田君と西村君と三人は大に憤れり、咄、彼何者ぞ、噫彼の低頭と甘言とは何人をか欺かざらむ、予は彼に欺かれたるを知りて今怒髪天を衝かむとす、彼は其悪詩を持ちて先輩の間に手を擦り、共助けによりて多少の名を贏ち得たる文壇の好児なりき、而して今や我らを売って一人慾を充たさむとす、「詩人」とは抑々何ぞや、
 今日より六日間休み。
 
 10月17日 神嘗祭
 今朝も佐田西村二君に起されぬ、渋民の友立花直太郎君突然来訪、喜ぶ事限りなし、社にゆきて共にライスカレーを喰ふ、
 夜八時迄社に居たり、佐田西村、金子野口の四名と談ず、〔註 以下九字抹消〕野口は愈々悪むべし、
 天口堂主人より我が姓名の鑑定書を貰ふ、五十五才で死ぬとは情けなし、
 
 10月18日
 この日早朝事務の窪田、畑山の二君に起さる、出社して終日雑務を執る。
 午后野口君他の諸君に伴はれて来り謝罪したり。其状愍むに堪へたり、許すことにす。夜、西村君より野葡萄のよく熟したるもの上房貰ふ、其味に故園の秋を忍ぶ、
 梁川先生の遺弟建部氏より故人の遺稿編成のため、生前の手紙貸与方依頼され、古手紙を整理して封書二通葉書八葉を得、郵送す、
 
 10月22日
 三日が間はこれといふ為すこともなく過ぎぬ。社は暗闘のうちにあり、野口君は謹慎の状あらはる。
 この日は第二号編輯の日なり。主筆事務の在原と大喧嘩を初め、職工長速水解雇さる
 夜、恵比須亭の演芸会を見、かへりに大黒座に寄りて坐付作者花岡章吾と語り大に馳走になる。劇場楽屋は生れて以来初めて見たり、田舎廻り俳優は哀れなるもの、彼らが自堕落になるは主としてその境遇による。
 
 10月23日
 朝より日の暮るゝ迄材料の来るに従つて三百五十行位かくなり。創業時代の急はしさは読者知らじ。校正当番は翌朝迄徹夜するなり。工場も亦同し。
 夜九時頃より寿亭に娘義太夫越寿一座をきく。
 
 10月24日
 今日までに来れる書信は左の如し。大島君二通、岩本氏一通、沢田君、宮崎君、吉野君、園田君、斎藤君、今日区役所に椿区長を訪ふて教育談をなす。畠中君石原君実相寺君の来訪に接す。
 新聞に対する批評は概ね好評たり。小樽新聞は我が三面を恐ると、さもあるべし。
 夜越寿の義太夫をきく。
 
 

 
汝三度(なれみたび)
この咽喉(のど)に剣を擬したりと
彼告別の辞に言へりけり
 
負けたるも我にてありき
あらそひの因(もと)も我なりしと
今は思へり
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 
 

 
明治40年10月16日
野口雨情の策謀か?
 
 社は暗闘のうちにあり、… (10月22日)
 
 いつの時代も、どこの世界でも、給与生活者の「職場」なんてそうそう変わらないもんだなぁ…というのが実感。今でもおんなじだ。でも、強いて言えば、啄木の明治から遠く隔たった現代の小樽では少しだけ人間の嫉妬心みたいものが強くなったようにも感じましたね。
 
 
 「樺太」話題、もう少し続きます。
 
 なぜ、こんなに木原直彦著『樺太文学の旅』にこだわっているかというと、それはつまり、「樺太」文学史というのは、ある意味で隠れた「小樽」文学史でもあるからなのです。
 
 二十日露講和に伴う小樽での樺太国境画定会議が日本郵船小樽支店で開かれたのは明治39年(1906)11月13日であったが、志賀重昂は委員の一人としてこの会議に加わっている。その建物(旧日本郵船小樽支店・国指定重要文化財)は一般公開中だが、展示のなかに会議後の記念写真があり、そこには志賀重昂の顔も見える。
(『樺太文学の旅』より「志賀重昂の国境画定視察」)
 
明治39年10月1日の日本郵船支店竣工説明会当日
 
 二十明治38年8月には日本郵船が早くも田子浦丸を就航して樺太と小樽を結ぶ定期航路を開いているから、異郷に出ようとする希求やみがたいものがあった雨情はおそらくこの船に乗ったものであろう。
(『樺太文学の旅』より「野口雨情の北緯五十度行」)
 
 樺太へ行く船が小樽から出ている以上、あらゆる旅行者は小樽の街を通らなければならない。当然そこには「小樽」に関する記述も生まれてきます。例えば、
 
 それは明治四十年の夏のことである。小樽をたったのは七月の十二日、樺太の奥山には、木立に交じって、山桜がちらほら咲いているころであった。
(金田一京助『北の人』より「片言をいうまで」)
 
というように。(啄木が函館の大森浜で海水浴をしていた夏、金田一京助は樺太にいたんですね…で、啄木が札幌〜小樽にいた頃は金田一京助は東京に戻っていますから、タッチの差で北海道の二人はすれ違いでした。) 啄木みたいに、純粋に小樽に用事があってやって来て、それで「小樽」に関する記述が残っているというケースはこの明治の時代では異例の部類と言えるでしょう。
 
 ちなみに、稚内経由の樺太行がブレイクするのは大正12年の「オホーツク挽歌」宮沢賢治からだと思います。国鉄の宗谷本線が音威子府(おといねっぷ)から天北線経由で稚内までつながったのが大正11年の11月。ここの区間の全通を受けて、夏の日本海濃霧や冬の亜庭湾(大泊港)の結氷による欠航に苦しめられていた樺太島民側から激しい「稚泊連絡船」のコールが起こります。その気運に乗って鉄道省が直営の航路を開設したのが大正12年の5月1日でした。宮沢賢治が(一応表向きの理由は)花巻農学校の就職依頼で豊原の王子製紙工場を訪ねて行くのが同年の7月ですから、たぶん、文学者としては「稚泊連絡船」で樺太に渡った最初のケースではないかと思われます。(もしかしたら宮脇俊三氏のようなマニアの文学者がいるかもしれないので、あまり自信を持って断定することはできないのだが…)
 
 
写真は小樽商工会HPのhttp://www.otarucci.jp/kiseki/kiseki.html「小樽商人の軌跡」第3章−2よりお借りしました。なお、ここの第9章は「啄木と多喜二」です。関連画像が豊富。
 
 
 
 (どうして啄木は「樺太」を考えなかったのか…)
 
彼「詩人」野口は予等を甘言を以て抱き込み、秘かに予等と主筆とを離間し、己れその中間に立ちて以て予らを売り、己れ一人うまき餌を貧らむとしたる形跡歴然………「詩人」とは抑々何ぞや、
(10月16日)
 
 まあ順当に考えれば、「貧乏」という理由に落ち着くのだと思います。人間食って行くのが先決ですから、金田一京助や柳田国男のように学術調査なんかのんびりやっていられる金も余裕もない。ましてや長与義郎のように「修学旅行」など及びもつかない!ということなのだろうけど。でも、なにか釈然としない…
 もしかしたらですけど、小樽の次に「釧路」方面を選んだのは、なにか「野口雨情」的なものへの反感というかライバル心というか、そういうものがあったのではないだろうか…と想像するのです。あるいは、言葉を換えれば、今を流行りの「樺太詣で」にそっぽを向いた…とか。天の邪鬼のあの性格だから、昨今もて囃されている「樺太」にプイと背を向けたら、そこが「釧路」だったということなのかなぁ…とか思ってみるのです。(穿ちすぎでしょうか?)
 
次回は「10月30日」
(の予定ですが、30日までは間が空きすぎるので「初雪の記事」の頃にでもひとつ書くかもしれません)

 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
プラスチック・ケース(スタンド式)入り
 
案内はこちらです。