五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.13
野口君の妻君の不躾と同君の不見識に
 
 10月13日
 友は夕方の汽車にて演習中なる隊に帰りゆげり。野口君の移転に行きて手伝ふ。野口君の妻君の不躾と同君の不見識に一驚を喫し、愍然の情に不堪。
 
 10月14日
 初号編輯の日の急がしさ。夜午前二時やうやう帰宅せり、職工は多く既に三四日も徹夜なり。
 この日吉野君より手紙来る、岩崎君の方針問題承諾の旨報じらる、
 
 

 
明治40年10月13日
野口君の妻君の不躾と同君の不見識に
 
 帰りは野口君を携へて来り、共に豚汁を啜り、八時半より程近き佐田君を訪ねて小樽に来て初めての蕎麦をおごられ、一時頃再び野口君をつれて来て同じ床の中に雑魚寝す。
 (10月5日)
 
 また豚汁だ!ほんとに好きなんだなぁ…
 
 ところで、同じ10月5日の日記の一節。
 
 社の岩泉江東を目して予等は「局長」と呼べり。社の編輯用文庫に「編輯局長文庫」と記せる故なり。局長は前科三犯なりといふ話出で、話は話を生んで、遂に予等は局長に服する能はざる事を決議せり。予等は早晩彼を追ひて以て社を共和政治の下に置かむ。野口君より詳しき身の上話をきゝぬ。嘗て戦役中、五十万金を献じて男爵たらむとして以来、失敗又失敗、一度は樺太に流浪して具さに死生の苦辛を嘗めたりとか。彼は其風采の温順にして何人の前にも頭を低くするに似合はぬ隠謀の子なり。自ら曰く、予は善事をなす能はざれども悪事のためには如何なる計画をも成しうるなりと。時代が生める危険の児なれども、其趣味を同じうし社会に反逆するが故にまた我党の士なり焉。
 (10月5日)
 
 いやー、調べてみるもんですね。啄木が「隠謀の子」と言っているのは局長・岩泉江東のことだと、私、長らく思っていました。(なにかしら「其風采の温順にして」や「時代が生める危険の児」などと、岩泉江東のことを述べているにしては意味不明の箇所はあったが…)
 
 これ、野口雨情のことなんですね。野口雨情が「其風采の温順にして何人の前にも頭を低くするに似合はぬ隠謀の子」なんです。「野口君より詳しき身の上話をきゝぬ」以下のセンテンス、私は、野口雨情が「岩泉江東」の身の上話(噂話)をしているのかと思っていました。いや、お恥ずかしい。
 
 ですから、「嘗て戦役中、五十万金を献じて男爵たらむとして以来、失敗又失敗、一度は樺太に流浪して具さに死生の苦辛を嘗めたりとか」したのは、野口雨情その人。
 
 
 
 野口雨情と樺太?
 
 「陰謀の子」というキャッチフレーズ、けだし名言。さすが啄木は大詩人。ほんとに、野口雨情って、知れば知るほど、なかなかに妖しの人なんですね。
 
 「三十九年七月頃、飄然として単身、北海道小樽港から樺太(現・サガレン)へ渡り、北緯五十度線にあたる西海岸の村アモベツにまで達した。『風は西吹く』(ハガキ文学 明39.8)をはじめ、この時期の傑作である『五十里』(新古文林 明39.11)などを発表しながら詩作の旅を続け、十一月に離島。やがて上京して新宿区西大久保に居を定め、詩作に没頭した」
(「近代文学研究叢書54・野口雨情」昭和女子大学近代文化研究所編)
 
 「飄然」で、普通、樺太に行くか!しかも、アモベツ! 「アモベツ」ってのは、これは尋常じゃないですね。明治39年の「アモベツ=安別=ポスウラシチェニエ」なんですから!
 
 日露戦争(百年前そんな茶色い戦争ありました)の勝利によって明治38年に調印された日露講和条約。その講和に伴う樺太国境画定交渉が始まったのが明治39年です。この画定会議によって北緯50度線以南が日本領と決まり、画定事業が完全に終結するのは明治41年4月。樺太庁が設置されるのが明治40年4月ですから、いかに野口雨情が明治39年の「アモベツ」にいたことが異常な事態であるかを物語ります。詩を書いていたんですよ!そこで。
 
 「まず樺太大泊(コルサコフ)港に渡り、ついで足を北にのばし、豊原(ユージノサハリンスク)、落合(ドリンスク)、知取(マカロフ)と進み、ついに、敷香(ポロナイスク)に達し、幌内川を流域道にしたがって、北緯五十度線まで進み中央の西樺太山脈を越え、西海岸安別(アモベツ)に至っている」
(長島和太郎「野口雨情の生涯」 暁印書館 昭55.9)
(長島和太郎「詩人野口雨情」 有峰書店新社 昭56.5)
 
 「アモベツ」は左の図で恵須取支庁のいちばん上、国境の北緯五十度線に近い間宮海峡に面した小さな町です。よくぞここまで来たもんだと感動しますが、じつはこんなものではない、記録には残っていないが、どうやら野口雨情は国境を越えて北へもっと進んでいるのではないかという説もあるのです。(たしかに国境画定作業は小樽の日本郵船で会議中ですから、まだ北緯五十度線の国境は確定したわけではない。行こうと思えば行けるかもしれません…)
 いや、驚き。凄いっす!ロシア文学史には、かの名作『サハリン島』をものしたチェーホフの名が燦然と輝いていますが、いやいや日本人だって負けてないぞ!ここに我らが野口雨情ありだ!とかなんとか、樺太や千島のことを語り始めると気持ちが右翼っぽくなりますね。
 
 
 ああ、疲れた。ほのぼのした小樽の街に一度帰りたい…
 
 夜、社にあり、妻迎へに来て帰れば、思ひがけざりき、宮崎君来てあり、再逢の喜び言葉に尽く、ビールを飲みて共に眠る。我が兄弟よ、と予は呼びぬ。誠に幸福なる一夜なりき。
 (10月12日)
 
 友は夕方の汽車にて演習中なる隊に帰りゆげり。
 (10月13日)
 
 12日、旭川師団に服務していた宮崎郁雨が、機動演習で旭川から江別まできていたのを利用して突然小樽の啄木宅に姿を見せています。いい人だから、函館大火以来の啄木一家が心配だったのでしょうね。
 
演習のひまにわざわざ
汽車に乗りて
訪ひ来し友とのめる酒かな
 
 その夜、ビールに酔っぱらった郁雨が思わず「光子さんを嫁にくれないか」と言ったという噂は本当なの?
 
 
 上の「樺太」について書いた章で引用している『近代文学研究叢書54・野口雨情』『野口雨情の生涯』『詩人野口雨情』の3冊は、全て、木原直彦著『樺太(サハリン)文学の旅』(共同文化社,1994.10)からの孫引きです。直接に第一次資料をあたっているわけではないのでご注意ください。以後、10月中何回かに分けて、この素晴らしい本『樺太文学の旅』に沿って「小樽と樺太」を考えてみたいと思います。
 
 小樽日報局長「岩泉江東」についても現在調査中。なんとか岩泉江東が書いた文章を読んでみたい(でないと、どんな人間だったのかわからない)と思っているのですがなかなか行き当たりません。
 
 樺太の主だった町の名が出ている簡易な地図をHP上で探したのですが、これも意外と見つからない。伊能忠敬とか松浦武四郎とか仰々しい地図ばっかりで… 結局、今回は「geografi(em)aj paghoj 地理のページ(地理っぽいページ)」 というHPの「樺太市町村変遷表」から「1945(昭和20)年8月の樺太行政区画図」にあった図版を使わせていただきました。
 
次回は「10月15日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
プラスチック・ケース(スタンド式)入り
 
案内はこちらです。