五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.5 編輯局長への不信
何人の前にも頭を低くするに似合はぬ隠謀の子なり
 
 10月5日
 既に工場の整頓終り原稿の催促頻りなり。此日より編輯に着手す。園田君より八日ゆくとの返電あり
「明星」十月号来る。綱嶋氏の令弟建部氏よりは、?きに送れる新聞の礼状来る。
 帰りは野口君を携へて来り、共に豚汁を啜り、八時半より程近き佐田君を訪ねて小樽に来て初めての蕎麦をおごられ、一時頃再び野口君をつれて来て同じ床の中に雑魚寝す。
 社の岩泉江東を目して予等は「局長」と呼べり。社の編輯用文庫に「編輯局長文庫」と記せる故なり。局長は前科三犯なりといふ話出で、話は話を生んで、遂に予等は局長に服する能はざる事を決議せり。予等は早晩彼を追ひて以て社を共和政治の下に置かむ。野口君より詳しき身の上話をきゝぬ。嘗て戦役中、五十万金を献じて男爵たらむとして以来、失敗又失敗、一度は樺太に流浪して具さに死生の苦辛を嘗めたりとか。彼は其風采の温順にして何人の前にも頭を低くするに似合はぬ隠謀の子なり。自ら曰く、予は善事をなす能はざれども悪事のためには如何なる計画をも成しうるなりと。時代が生める危険の児なれども、其趣味を同じうし社会に反逆するが故にまた我党の士なり焉。
 
 10月6日
 降りみ降らずみの空合いと怪しき一日なりき。
 向井君よりハガキ来る。松岡道庁の肥料検査の方に出仕したりと。猫の糞と肥料とは面白き事限りなし。
 今日より編輯局の給仕来る、年は十四の池亀ハル、おとなしげれば皆で可愛がつてやる。
 夜、隣室の売ト者先生を訪ひ其著神秘術一巻を貰ひ、初号に当地有志の姓名判断を書いて貰ふ事を頼む。心地少しく優れず、早く寝に就けり。
 
 10月7日
 今日も亦降りみ降らずみの空合なり。遅れて十一時出社す。「初めて見たる小樽」二百行を書けり。
 諸表へ手紙かゝむと思へども銭なくして果さず。
 
 10月8日
 この日野口君札幌なる細君病気の電報に接して急行せり。局長病気欠勤。予は編輯打合せの為め其宅を訪へり。途家に立寄れば、恰も園田君遙々空知の園中より来れるに会し、当分我が狭き寓に置く事にし、相携へて社に帰る。愛緑君は歌をよむ。新詩社の社友なり。九州熊本の人、数年前北海に入り巡査たる事四年、この度社の校正として十五円にて招げるなり。
 給仕に袴買ふ代として三円会計の方より受取りてやる。嬉しげたる様のいぢらしさ。予も亦十円だけ借る。夜山田町にゆきて卓子形机、一脚購ひ来る、二円なり。形大にして新らしければ心地よし。風強し。予は園田君の土産の赤き林檎を喰ひて共に談ず。君は身長五尺八寸の巨漢、しかも其人相の示す所にして誤らずんば、因循の人なり無能の人なり、感情の人なり、確たる生活の方針を有せざる人なり、一言にして云へばデカダン的性格の人だり。
 
 10月9日
 社を代表して、小樽商業会議所新築落成式に臨む。羽織と袴は山本の兄より借りたり。土産の酒一本は庶務の久保田君へ、折は札幌よりかへり来れる野口君と共に喰へり。何となく面白し。
 並木君より手紙来る。大嶋君のハガキを封したり。行先不明と思ひし君が、矢張日高の山中にありしは嬉し。
 夜、兄を訪ねて帰り来れば野口君来る。園田君と三人にて相語る。此日野口君の語る所によれば、白石社長は大に我等に肩を持ち居り、又岩泉局長も予の為めに報ゆる所を多からしめむとすと言明せる由、社に於ける予の位地は好望なり、遠からずして二面に廻るべし。隣室のト者来り、姓命判断の話一時まで。野口君と園田君は枕を並べて雑魚寝したり。
 
 10月10日
 朝起きて見れば吉野君の手紙あり。令弟遂に遂に死去せられ、葬儀のため帰郷して五日帰函せりと。予はこの詳しき友が心のたけを繰返して黯然涙を催せり。
 野口君手相を見る、其云ふ所多く当れり。
 社にて諸新聞より切抜きたる材料により、「浦塩特信」なるものを書けり。新聞記者とは罪な業なるかな。
 夕刻、園田君急に云ひ出して家に帰らむと日ふ。聞いて見れば、矢張生活の方針を立て得ざる無意志の人なるなり。敢て止めず。午后八時悄然として鞄を下げたるまゝ其長大なる躯幹を暗中に没し去れり。予は云ひ難き憐愍の情にうたれたり、妻も亦しかく云ひぬ。聞げば昨朝台所に宿の人居りしために遠慮して顔も洗はざりし由、何処迄哀れなる悲しき消極の人ぞや。歌よむと云ひ詩かくといふ人には、何故かゝるデカダン的の性格多きにや。予は云ひがたき惻怛の情を催ふせり。
 
 10月11日
 夜、佐田君と共に出社し、余暇を以て白石社長を訪へり
 
 10月12日
 夜、社にあり、妻迎へに来て帰れば、思ひがけざりき、宮崎君来てあり、再逢の喜び言葉に尽く、ビールを飲みて共に眠る。我が兄弟よ、と予は呼びぬ。誠に幸福なる一夜なりき。
 

 
汝(な)が痩せしからだはすべて
謀叛気(むほんぎ)のかたまりなりと
いはれてしこと
 
かの年のかの新聞の
初雪の記事を書きしは
我なりしかな
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 

 
明治40年10月5〜12日
編輯局長への不信
 
 「初雪」の言葉が出てきますけれど、10月の小樽には「初雪」話題はまだ早い…
 
    
 
 10月初旬の空は、こんな感じ。この雲の流れる様子、時間にして、ほんの5〜6分の間の出来事なんです。啄木は「昨日も雨、今日も雨、午後霽間を覗ひて社中の諸友と共に諸官衙同業へ挨拶にゆく(10月4日日記)」などと書いていますが、この「霽」の使い方は正しい。
 
【霽】
セイ はれる
字義 @れる(・る)(晴)。はれ。雨・雪がやみ、また、雲・霧がなくなる。
(角川漢和中辞典)
 
 同じ「晴」の天気でも、啄木が見ていたのは関東風の秋晴れの空ではなく、こういう、雨雲が頭上を通過していった後の、ちょっとした晴れ間ではなかったかと思います。北国独特の空なんですね。上空の風の流れがあまりにも強いため、雨雲と晴れ間の青空の流れがアンバランスになって、空には青空が見えているのに秋の氷雨がサーッと降って来たりします。
 で、青空も独特ですしね… 以前の解説で、「碧」という言葉を使いましたけれど、うーん、なんかしっくり来ない。単純に紺碧の空ってわけでもないんだな。もっと、毒々しい。そう、例えば青酸カリのことを「シアン化合物」とも言いますよね。あの、「シアン」という言葉の方がふさわしい。啄木の書いた『初めて見たる小樽』なども、頭上にはこういう10月のシアン化ブルーの空が拡がっているのだとご想像ください。
 
 「初雪」は、例年ですと、10月最後から11月3日文化の日にかけての連休の頃です。朝の最低気温が10月初旬の15〜6度台からジリジリと落ちていって、この連休の頃で、ついに氷点下を割ってしまう。初雪ですね。でも、この雪が積もって根雪になるわけではなくて、気温は11月かけて一進一退を繰り返します。で、12月に入って、とうとう降った雪は融けることがないほど寒くなって、冬に突入… まあ、啄木のいた明治40年の小樽は、まだ地球温暖化などなかった時代ですから、今よりもいくぶん冬の到来は早かったと思いますが。
 ちなみに、小樽に住んだここ10年間の経験で言えば、一度だけ、いつもの連休の頃に降った初雪が融けず、そのままぐんぐん降り積もって根雪になり、正月過ぎた頃からは寒さもビシビシ厳しくなって、氷点下18度などという名寄(なよろ)や稚内みたいなレベルの日が続いた冬もありましたね。あの冬はつらかったなぁ…雪まつりの雪像がね、この世のものとは思えないほどの美しさでしたよ。
 
 
 社の岩泉江東を目して予等は「局長」と呼べり。………遂に予等は局長に服する能はざる事を決議せり。予等は早晩彼を追ひて以て社を共和政治の下に置かむ。
 
 出社して五日目だというのに、ずいぶん物騒なことを書いているなぁ…
 
 
(10月9日日記にも出てくる小樽商業会議所)
 
 「岩泉江東」については日を改めて書きます。啄木が小樽を去らなければならなくなった原因にも大きく絡む人物ですので、少しは慎重に資料を集めなくては。函館大火からこっち、9月〜10月と啄木日記はほぼ毎日ペースで精力的に書き継がれます。それを追いかけてこちらも負けずに書いてきたのですが、さすがに疲れてきた。次回が「10月13日」ということなので、ここで一週間ほど時間がとれるのはありがたい。少しリフレッシュして戻ってきます。
 
(こんなに延々と書かれている啄木日記なのですが、この「明治四十丁未歳日誌」、11月に入るとドーンと一転して何も書かれなくなります。日記が再開されるのは例の「小林寅吉」の一件が起こった12月上旬以降。空白の11月。啄木が小樽を去ることになった「事件の真相」はこの空白の背後にあることははっきりしているのですが…私に書けるかな…)
 
汝が痩せしからだはすべて
謀叛気のかたまりなりと
いはれてしこと
 
次回は「10月13日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
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