五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.3〜5 野口雨情との出逢い
野口君と予との親交情は既に十年の友の如し
 
 10月3日
 泥濘下駄を没せむとす。小樽の如き悪道路は、蓋し天下の珍也。
 社よりの帰途、野口君佐田君西村君を伴ひ来りて豚汁をつつき、さゝやかなる晩餐を共にしたり。西村君は遂に我党の士にあらず、幸に早く帰りたれば、三人鼎坐して十一時迄語りぬ。野口君と予との親交情は既に十年の友の如し。遠からず共に一雑誌を経営せむことを相談したり。
 社の校正にせむとて園田君に手紙出せり。
 
 10月4日
 昨日も雨、今日も雨、午後霽間を覗ひて社中の諸友と共に諸官衙同業へ挨拶にゆく。商業会議所の書記長松崎氏は老いほゝけたる猫の如く、区長椿氏は大兵にして白髪頭に、小野助役は快活にして才気溢るゝ紳士なり。税務署の福本署長は温厚にして風彩見すぼらしく、警察支庁記事なし、林務派出所の禿頭甚だ横平にして悪むべく、小樽新聞社の松田竹嶼君は故人谷活東君に似て神経質の人相なりき。
 

 
いささかの銭借りてゆきし
わが友の
後姿の肩の雪かな
 
世わたりの拙きことを
ひそかにも
誇りとしたる我にやはあらぬ
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 

 
明治40年10月3〜5日
野口雨情との出逢い
 
 「世わたりの拙き」か…本当に啄木の歌は身に沁みるなぁ(笑)
 
 この「わが友」というの、実際にこういう友人がいて、その人が借金をしている光景を目撃したものか、啄木が金を貸してあげたのか(まさかね…)とか、あれこれ悩むところなのですが、でも、近頃の私は、この「わが友」というのは客観化された啄木の姿そのものなのではないかと思っています。借金をしている惨めな自分を詠った歌であるからこそ、「後姿」なのであり、さらにいえば「肩の雪」なのだろうと。そう解釈すると、次の「世わたり…」の歌がなぜか冴えます。
 
 レコードに収められた3曲目と4曲目の歌ということなのかもしれないが、たまたま隣り合わせたのも何かの縁。それぞれの場所から微妙な波動を出しあって、たまたま強い波動が集まった領域が「かなしきは小樽の街よ…」みたいな名曲になるのではないか。
 
 この今日の二首などが典型的なんですけれど、普段なかなか啄木名歌評釈なんかでは取り上げられない歌…って、ありますよね。では、そういう歌の存在価値は低いのか?といえば、そんなことは絶対にない。存在の価値はみな同じだろうと思うのです。それは、手に握られた砂の一粒一粒。指からこぼれる砂がキラキラするのは、ただただ光や空気の屈折率であると私は思っています。
 
 
 社よりの帰途、野口君佐田君西村君を伴ひ来りて豚汁をつつき、
 
(野口雨情)
 
 啄木は「豚汁」が好きだなぁ(笑) 北海道に来てからというもの、なんか札幌〜小樽時代は豚汁ばっかり食べているような気がする。季節的に合うのだろうか?(そういえば、わが家も秋冬になると豚汁の回数は増えますね…) 十月の小樽はどんどん大気が冷え込んで行きます。空の青さが尋常ではない。一種凄絶な「碧」といった様相を呈します。私はまたこれが見たくて、今年も小樽に居残ってしまいました。
 
次回は「10月5日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
プラスチック・ケース(スタンド式)入り
定価 各 600円 400円(送料別)