五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.10.1 小樽日報社のスタッフで晩餐
遂に神無月は来れり
 
 10月1日
 遂に神無月は来れり。
 朝野口雨情君の来り訪るゝあり。相携へて社にゆき、白石社長及び社の金主山県勇三郎氏の令弟中村定三郎氏に逢へり。編輯会議を開く。予最も弁じたり。列席したる者白石社長、岩泉主筆、野口君、佐田君、宮下君(札幌支社)金子君、野田君、西村君と予也。予は野口君と共に三面を受持つ事となれり。
 夜、静養軒にて一同晩餐を共にし、麦酒の盃をあげたり。
 玉山なるせつ子の父より手紙来る。
 
 10月2日
 盛岡中学校の校友会雑誌来る。予が贈りし「一握の砂」を載せたり。
 出社す。夕方五円だけ前借し黄昏時となりて、荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて、花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ、火鉢なと買物し来れば雨ふり出でぬ。妹をば姉の許に残しおきて母上とせつ子と京と四人なり。襖一重の隣室に売卜者先生あり。されば入口には「姓名判断」と書したる大なる朴の木の看板あり、又この二階の表に向へるにも同様の看板をかけたり。薮医者と名をとりしこの紋付着てあらば、我も亦売卜者先生と見られやすらむと可笑し。雨の音繁きに隣室より変な咳払きこえ、遠く聞ゆる夜廻りの金棒の響は函館のそれよりも忙しげ也。小樽は忙しき市たり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶに「市」を以てするの尤も妥当なるを覚ふ。
 岩崎君へ長き手紙認めて、道具雑然たる中に眠る。
 
 

 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
泣くがごと首ふるはせて
手の相を見せよといひし
易者もありき
 
(一握の砂「忘れがたき人人」)
 

 
明治40年10月1〜2日
遂に神無月は来れり
 
 やはり、「かなしきは小樽の町よ…」の歌はいい歌ですね。今日、10月1日の朝を迎えて、改めてしみじみ。この歌ひとつ残っただけでも、啄木はこの世に生きていた意味があったと思う。
 
 
 夕方五円だけ前借し黄昏時となりて、荷物をばステーションの駅夫に運び貰ひて、花園町十四西沢善太郎方に移転したり。
 
  
 
 啄木の小樽第一の住居は花園町の借間でした。現在は、「啄木街道」のど真ん中にある、割烹の「た志満(たじま)」という店になっています。その、現在の「た志満」(冬の写真で申し訳ありません…)と、かつて啄木が住んでいた当時の「南部せんべい店」の回想図とを並べてみます。見る角度は同一です。
 
 おわかりの通り、啄木が住んだ頃の家は傾斜した屋根を持つ二階家でした。この家の、一階部分には南部せんべいを売る老夫婦が住んでおり、啄木一家が入ったのは二階の小路側に面した一部屋です。襖(ふすま)一枚隔てた奥に住んでいたのが、日記にも出てくる「売卜者先生」、天口堂海老名又一郎という易者先生でした。
 
泣くがごと首ふるはせて
手の相を見せよといひし
易者もありき
 
 啄木はこの易者先生に鑑定を受けたらしく、日記には「天口堂主人より我が姓名の鑑定書を貰ふ、五十五歳で死ぬとは情けなし、」なんて書いていますね。
 
 現在の「た志満」は、店の看板があるあたり、公園通り(啄木街道)に面した部屋を「啄木の間」として使っていますが、正確に言うと、そこは明治40年にはなかった空間です。
 
 
次回は「10月3日」

 
 
啄木、小樽の街へ…

カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあったのですが、考えた末、スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きて行くことにしました。カレンダーは役に立たなくとも、啄木が小樽にやってきた九月は、永遠に九月だ…と想いきめることにしました。<新谷>
 
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組
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