五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
明治40.9.21 友と論ず
所謂社会主義は予の常に冷笑する所、
9月21日
朝早く梁川氏死去の報知来る、弟建部政治氏外五名連書、坪内博士は友人として名を掲げたり
八時四十分せつ子来る、京子の愛らしさ、モハヤ這ひ歩くやうになれり。この六畳の室を当分借りる事にし、三四日中に道具など持ちて再び来る事とし、夕六時四十分小樽にかへりゆけり。
夜小国君来り、向井君の室にて大に論ず。小国の社会主義に関してなり。所謂社会主義は予の常に冷笑する所、然も小国君のいふ所は見識あり、雅量あり、或意味に於て賛同し得ざるにあらず、社会主義は要するに低き問題なり然も必然の要求によって通れるものなりとは此の夜の議論の相一致せる所なりき、小国君は我党の士なり、此夜はいとも楽しかりき、向井君は要するに生活の苦労のために其精気を失へる人なり、其思想弾力なし、
宮崎大四郎君に手紙かけり。
9月22日
午前「綱島梁川氏を弔ふ」の一文を草す。並木君(日高なる大島君行方不明の旨記しあり)より手紙来れり、函館の恋しさ、
中学の英語の教師たる西村君来れり、相逢ふ事これで二度。
明治40年9月21〜22日
啄木、友と論ず
(前回「9月19〜20日」より続く)
元来小生の該合同に賛成したるは、札幌政海の融和統一を期待するに外ならざりしが、端なくも道会議員に関し小生等一派を政海の死者たらしめんと謀り、白昼公然支部を蹂躙せんとするの現れ候に就ては……正義の為め且は自ら信ずる処の主義の為め、孤城に拠り打死する外無之と候得ば……
(村上祐/吉植庄一郎宛書簡)
いやー、何度読んでも凄い迫力ですね。(啄木の「友と論ず」が可愛く見える…) 村上祐が手紙の中で「孤城」とまで言いきった「北門新報」。そのヒストリーも今回で最終回です。
村上はよくいえば孤高の人。一般には人をいれぬ性格の狷介(けんかい)な人物、として通っていた。
その一端は“正義”を振りかざした例の“北門派の手紙”からも読み取れよう。
いうなれば自他ともに許す“無冠の帝王”。紙面で丁々ハッシの政論をたたかわせることに生きがいを感じる、当時のひとつのタイプを代表する新聞人だった。
(『星霜4』より「タイムス創刊」)
では、もう一方のライバル、「北海道毎日新聞」出身の阿部宇之八はどんなタイプの新聞人であったのか。阿部の人物を語るエピソードとして、例えば次のような逸話があります。
明治22年2月11日の明治憲法発布の日、「大阪毎日新聞」(現在の朝日新聞)は東京から憲法の全文10730字を782音信の電報にして大阪に打電、即日号外で速報し、二、三日遅れが常識だった当時の新聞界をアッといわせた。
そのときもう一紙、同じ試みをしたものがあった。それが、たまたま上京していた「北海道毎日」の阿部。
(『星霜4』より「タイムス創刊」)
「たまたま上京」ですね。(よく言うよ…ほんとに新聞関係は「たまたま」が好きだなぁ!)
村上と阿部。両者のちがいとは、つまるところ、明治の論客と近代日本のテクノクラートのちがいといったところでしょうか。新聞人としては、政論新聞と速報新聞。過ぎ去り行く「明治」と来るべき「大正デモクラシー」の予感なのか。
また、日清戦争を経た明治30年ごろから、政論新聞から速報新聞への移行は新聞界の大勢ともなっていた。おそらくは政論色濃厚だったに違いない村上祐編集の「北海タイムス」に、阿部が満足していたとは考えられぬ。
タイムスをやめた村上は、しばらくして「北門新報」を復活させている。
これは彼が「北海タイムス」で果たせなかった彼自身の新聞観を、改めて実現しようとした試みと解せなくもない。
(『星霜4』より「タイムス創刊」)
それから6年後の明治40年9月15日夜、村上祐は、函館大火を逃れてきたひとりの青年「石川一」に会うわけです。村上祐と啄木の面会は、たぶんこれ一度きり。
次回は「9月23日」
九月、啄木は小樽の街へ…
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組 プラスチック・ケース入り
定価 各400円(送料共)