五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.9.19 小樽日々へ乗替の件
あゝ我誤てるかな、予が天職は遂に文学なりき。
 
 9月19日
 朝窓前の蓬生に面しとしとと降り濺ぎて心うら寂しく堪え難し。小樽なるせつ子及び山本の兄、京なる与謝野氏、旭川の砲兵聯隊なる宮崎大四郎君へ手紙認めぬ。書して曰く、我が目下の問題は如何にして生活を安固にすべきかなり、又他なし。哀れ飄泊の児、家する知らぬ悲しさは今犇々とこの胸に迫る、と。書し了つて一人身を横へ、瞑目して思ふ事久し。
 あゝ我誤てるかな、予が天職は遂に文学なりき。何をか惑ひ又何をか悩める。喰ふの路さへあらば我は安んじて文芸の事に励むべきのみ、この道を外にして予が生存の意義なし目的なし奮励なし。予は過去に於て余りに生活の為めに心を痛むる事繁くして時に此一大天職を忘れたる事なきにあらざりき、誤れるかな。予はたゞ予の全力を挙げて筆をとるべきのみ、貧しき校正子可なり、来なくして馬鈴薯を喰ぶも可なり。予は直ちにこの旨を記して小樽なる妻にかき送りぬ。
 函館なる大竹敬造(弥生校長)より来書あり、今月分の予が俸給日割四円二十七銭為替して送り越しぬ。書中に曰く、「好運児!」臆我も人より見れば幸運の児たりけるよ。湯銭なく郵税なかりし予はこの為替を得て救はれぬ。大なる手あり予を助けたる也、願くは予をして自重の心を失はしむる勿れ。
 
 9月20日
 朝起き出れば、入札以来初めての快晴也。程近き湯屋にゆきてふと新聞を手にすれば、綱島梁川氏の永眠を伝ふる記事あり、曰く去る十四日夜十二時遂に長しへの眠りに入れり、享年三十有五、肺を疾んで病床にありしもの十二年なりきと、億、我が畏友梁川氏死せるか。予三十八年の五月、一日新著「あこがれ」を携へて氏を牛込大久保余丁町なる其寓に訪ひ、山吹の花咲き残る庭を眺めつつ其病室に打語れることありき。後数日にして予は瓢然帰去来を賦し故山に入りしが故に、爾後唯時折の消息に温かき交はりを続くるのみなりしも、予の如きは蓋し同氏の大いなる人格の同情を尤も深く浴びたるものならむ。思へば函館に於て予が詩を評し「哀調人に迫る」云々とかけるハガキを得しが氏の消息の最後なりき。哀情禁せず、帰り来れば、吉野君よりハガキあり、習志野なる病弟の危篤を報ぜられて今夜出発す、「この度の電報こそ最後なるべければ顔見にゆくにて候ふ」と、予は心に泣けり。
 十一時となりて晴れたる空俄かにかき雲り、遠雷の響きへして雨ふり出てぬ。復吉野君よりハガキあり、習志野行は見合せたりと。
 午前中岩崎吉野並木諸君へ手紙及び諸方ヘハガキ十枚かきたり。大塚君その他より手紙来る、岩本氏より社宛にハガキ来れり。小樽なるせつ子より明日一寸ゆくとのたよりあり。
 夜小因善平君より小樽日々へ乗替の件秘密相談あり、
 
 

 
明治40年9月19〜20日
あゝ我誤てるかな、予が天職は遂に文学なりき。
 
 (前回「9月17〜18日」より続く)
 
 「札幌は大なる田舎なり」と喝破した9月15日の啄木日記には、他にも、「夜は小国君と共に北門新報社長村上祐氏を訪ひ…帰宿は十一時を過ぎぬ」という記述もあります。
 というわけで、今回は、その社長「村上祐」を焦点に据えて「北門新報社」の変遷を書いてみたい。いや、なかなか…中江兆民とはちがった意味で、北門奇人列伝中の一人という感じがします。明治の言論人の一典型。新聞が、今のニュース中心の報道メディアではなく、れっきとした政治活動の言論・広報分野を担っていた時代の息づかいを感じます。
 
 
 三社同人、大に時勢の進運に鑑み従来三社間に存在せる幾多の歴史と感情とを放擲し、三社合同して以て全道に普及せる一大新聞を発刊するの議を起て……
(「北海タイムス」明治34年9月3日創刊号より「発刊の辞」)
 
「北海タイムス社」は札幌区南大通4丁目にあった「北門新報社」を本社とした。
 
 
 この明治34年9月3日の、「北門新報」「北海道毎日新聞」「北海時事」の三紙合同『北海タイムス』創刊号に、当の北海タイムス新社長である長谷場純孝が『北海タイムスに寄す』という文章を書いています。
 
 (政友会)札幌支部の融和を欠くは、斉しく籍を政友会に属する三新聞鼎立して、其間に意思の疎通せざるものあるが故なりと。予未だ其真偽を知らず。頃日、観光の為め札幌に来れば偶々三新聞社合同の議あり。予に嘱するに居中調停を以てせらる……
(「北海タイムス」明治34年9月3日創刊号より「北海タイムスに寄す」)
 
 もう何言ってるんだかわかんないと思いますので、意訳します。
 
 「政友会の札幌の連中の仲が悪いという噂は聞いていたけど、私にはそんな風には見えなかったな。この前たまたま札幌に遊びに来たら、新しくできる『北海タイムス』の名誉会長なんか引き受けさせられちゃってさ…」(ね、だから、仲が悪いなんて、そんなこともないんじゃないの…政友会は一致団結ですよ)
 
 福田康夫あたりの顔でも想像してください。事の顛末は現在の自民党総裁選などと何も変わるところはなく、今も昔も政治家の言葉は法螺とはぐらかしばかり。長谷場純孝は立憲政友会(総裁・伊藤博文)のれっきとした党本部役員ですからね。そんな幹部がわざわざ中央から札幌支部へ出張って来たのです。だから、出張って来るだけの、何かゴタゴタが札幌支部にあったと考える方が自然でしょう。
 
 ゴタゴタ、ありました。そして、その内紛は、それぞれの派閥(政治勢力)の言論機関であった新聞、「北門新報」「北海道毎日新聞」「北海時事」三紙の間の争いの形をとって行きます。言葉を換えれば、これは三紙の社長、
 ■ 村上祐 (北門新報)
 ■ 阿部宇之八 (北海道毎日新聞)
 ■ 吉植庄一郎 (北海時事)
の間の権力争いの形をとっていたとも言えます。
 
 もう百年の前の札幌ローカル政界話ですからね、三人の確執がどんなものであったのかなんてわかりようもありません。でも、『星霜』第4巻の記述から私が類推するには、
 ■ 「高村正彦」 ← 村上祐 (北門新報)
 ■ 「亀井静香」 ← 阿部宇之八 (北海道毎日新聞)
 ■ 「藤井孝男」 ← 吉植庄一郎 (北海時事)
みたいな感じに思えたです。はい。
 
 
 「村上祐」って、ある種、自民党の中の石原慎太郎みたいな爆弾発言男ですね。三紙合同話が順調にまとまりつつある最中、突如、「北海時事」の吉植に直接手紙を書いてしまう。
 
 元来小生(村上)の該合同に賛成したるは、札幌政海(界)の融和統一を期待するに外ならざりしが、端なくも道会議員に関し小生等一派を政海の死者たらしめんと謀り、白昼公然支部を蹂躙せんとするの現れ候に就ては……正義の為め且は自ら信ずる処の主義の為め、孤城に拠り打死する外無之と候得ば……
 
 ほとんど、脅し。「おかしな事やったら命はないよ…」と言ってるのと同じです。事実、ビビった吉植が阿部に告げ口をして、今度は、阿部が「北海道毎日」紙上に「北門派の手紙」と題したスッパ抜き記事を掲載したり…と事態はどんどんエスカレートして行きます。これが、「北海タイムス」発刊をひかえた二ヶ月前の話。この事態に慌てた立憲政友会の党中央が急きょ送り込んできたのが、前述した長谷場純孝だったのです。(札幌「観光」なんかじゃありません)
 
 いや、お騒がせな人… 「正義」を、言うか…
 
次回は「9月21日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組 プラスチック・ケース入り
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