五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.9.17〜18
北門歌壇と秋風記を書く
 
 9月17日
 昨夜求め来れる独文読本の一、今日より毎日午前に少しづつやる事とす。北門歌壇と秋風記を書いて編輯局に投ず、
 今日校正は七時前に済めり。和光君は最も哀れなるデカダン的人物なり、彼の語る処によれば、彼に嘗て妻ありしも死したり、外に相慕へる女あり、彼が東京にありて速記を学べる時その女学資を給しき、その後女の家は祝融の禍に逢ひ家計傾けるを以て、和光君は毎月若千の金を送れり、今年七月、彼女は高商出の一青年紳士と結婚せり、あはれ其時の我が心地よとて、彼は其当時の女の手紙を予に示しぬ。女も亦初めは我が和光君を恋ひつつありしものの如し、彼は今生活の目的を有せず、又そを励ますものもなし、彼何故生けるや、我之を知らず。
 夜、日本基督教会にゆきて演説をきく、高橋卯之助氏の「失はれたる者」路可伝の放蕩息子の話の研究にして少しく我が心を動かせりき、太陽に独歩の「節操」を読む。彼は退歩しつつあり、
 
 9月18日 秋雨
 本朝紙面第一頁には予が秋風記をのせ、又北門歌壇を載せたり、歌壇は毎日継続すべし。
 函館なる橘智恵子女史外弥生の女教員宛にて手紙かけり、(幸七日向操、違山いし、森山げん、疋田梅井、高橋すゑ、相生町三九、)
 夜、校正を和光君に頼み、向井小林諸君と市中を散歩せり、
 せつ子より小樽発のハガキ来る、函館を十六日夕出立せしが、停車場までは岩崎並木大塚の諸君及びお幸ちやん秀ちやん、吉野の潔さん等見送りくれし由、諸友の厚意謝するの辞なし
 神戸なる丸谷喜一君より来状、
 
 

 
明治40年9月17〜18日
北門歌壇と秋風記を書いて編輯局に投ず
 
 うつら/\時すぎゆきて隣室の時計二時うつ、いざ出社せむ
 
 9月23日、札幌より函館の友人・並木武雄に宛てた啄木の手紙は面白い。全編七五調の詩のような、
  札幌は一昨日(おととい)以来
  ひき続きいと天気よし。
  夜に入りて冷たき風の…
 
といった戯けた手紙の造りになっています。たぶん、その前の並木の手紙も、同じような調子の戯けたものだったのでしょう。その手紙の反歌の部分で「いざ出社せむ」と詠っていますね。それが「北門新報社」。以下、いつもの『星霜』(北海道新聞社)を使って簡単に「北門新報」の歩みをまとめてみます。
 
 北門新報社の創立は、明治24年(1891年)。
 
 北門新報の創刊は、その三ヶ月ほど前の4月21日。創立者、つまりスポンサーは小樽でニシン漁場と海産問屋を経営していた金子元三郎だ。
 のちに彼は回顧談で、その動機を、
当時は札幌に北海道毎日新聞があっただけで、小樽にはまだなかった。毎日新聞は道庁の補助を受けており、それらの関係で拓殖上の世論とならない欠点があった。ただ一種の新聞では進歩がなく、他に新聞があれば刺激となって発展し、北海道の世論をこれにより啓発するのではないかと思われた。
と語っている。
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 中江兆民を迎えてスタートしたものの、その主筆・兆民は翌25年8月には退社。
 
 初め同社(北門新報)創立者等は、篤介(兆民)の卓見と健筆とを以て、本道開拓のため大に議論するところあらんと期待せしに、其(兆民)の未だ本道の事情に通ぜざるに失望し……退社するの巳むなきに至れり (河野常吉『人名字彙』)
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 まあ、金子元三郎たち、小樽の創業者が思い描いた図柄の通りには兆民先生は動いてくれなかった…というところでしょうか。篤介(中江兆民)は北海道に物見遊山に来たのか!と怒ってますね。
 でも、このパターン。ある種、中央に勝手に想いを膨らませ、勝手に中央に失望するようなパターンって、なにか北海道民気質の原型みたいなものがあって、私にはとても興味深いものでした。明治の開拓時代にしてすでにこうだったんだ…と、ちょっと笑ってしまいました。
 
 さて、その北門新報社、同じ明治25年に小樽を出て札幌進出を図ります。
 
 同社は明治25年に札幌に移ったが、きっかけはその年5月の札幌大火で、競争紙北海道毎日新聞が類焼、時の渡辺長官の勧めもあり、社業拡大をねらったものだった。
 一時、札幌北一条の製鋼所に仮本社を置き、ついで大通り西4丁目に新社屋を建てた。
 そのころは6ページ建てとなり、部数も5,6千部にふえていたといわれるが、経営はそれほど楽ではなかったらしい。
 札幌に進出した同社の新機軸は、印刷に使った三馬力の蒸気機関。それまでの新聞はすべて手回しの印刷機で、これが北海道での動力印刷の初めであった。
(『星霜3』「主筆・兆民」より「そのころ・北門新報社」)
 
 やはり、これも「大火」絡みなんですね。
 
「北海タイムス社」は札幌区南大通4丁目にあった「北門新報社」を本社とした。
 
 
 この「北門新報」、明治34年には、当時の札幌の有力紙「北海道毎日新聞」「北海時事」と合同して、「北海タイムス」(現在の「北海道新聞」の前身)となります。一時的とはいえ「北門新報」の名は消えてしまいます。どうしてそのような事態になってしまったのか。それは、当時の「新聞」の体質に由来します。現在のようなニュース主体の速報新聞ではなく、政党政治の言論機関としての政論新聞であったことが大きな原因です。
 
 ………もともと、三紙合同の筋書きを書いたのは政友会本部だったというじゅうぶんな根拠はある。明治33年9月、伊藤博文を総裁にいただく立憲政友会が創立されてから、翌34年いっぱいの道内の政友会入党者が1194人。その数は全国でも多い方から4番目である。
 いうなれば、北海道は政友会の金城湯池。そこで、政友会支持の三紙を合同させ、
 
  三を打て一となすの甚だ彼我の利なるを感じ (長谷場純孝『北海タイムスに寄す』)
 
たのも当然。つまり、他党の手のつかぬうちに北海道に確固とした党勢を築くには、より強力な言論機関を抑えるのが先決ということだろう。………
(『星霜4』より「タイムス創刊」)
 
次回は「9月19日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組 プラスチック・ケース入り
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