五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.9.15 北門新報社長に会う
札幌は大なる田舎なり
 
9月15日
 午前向井君らと共に小国君を訪へり、又快男児なり岩手宮古の人。今日は向井君が組合教会へ入会のため信仰告白をなすべき日なり十時より共にゆく、何となく心地よかりき、
 午后は市中を廻り歩きぬ。札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。アカシヤの街?を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は身に泌みて寒く口に啣めば甘味なし、札幌は秋意漸く深さなり、函館の如く市中を見下す所なければ市の広さなど解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧する許り天広し、市の中央を流るゝ小川を創成川といふ、うれしき名なり、札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり、
 夜は小国君と共に北門新報社長村上祐氏を訪ひ、更にこの後同僚なるべき菅原南二君をとへり、帰宿は十一時を過ぎぬ、
 夜枕につきてより函館の空恋しうて、泣かんとせざるに涙流れぬ、
 予は自分一個の室を持ちて後にあらざれば何事もなし得ざるならむ、出社は毎日午后二時より八時迄、十五円、ハガキ二三枚出ス
 
9月16日
 午前、窓外の草生に秋風乱れて、天に白雲高し、友の外出を機とし、函館の諸友へ手紙かげり
 予は此日より北門新報杜に出社したり。毎日印刷部数六千、六頁の新聞にして目下有望の地位にありといふ。
 予の仕事は午后二時に初まり八時頃に終る、宿直室にて伊藤和光君と共に校正に従事するなり。和光君は顔色の悪き事世界一、垢だらけなる綿入一枚着て、其眼は死せる鮒の目の如く、声は力なきこと限りなし、これにて女郎買の話するなれば、滑稽とも気の毒とも云はむかたなし、彼は世の中の敗卒なり、戦って敗れたるにあらずして、戦はざるに先づ敗れたるものか。
 
 

 
明治40年9月15〜16日
札幌は大なる田舎なり
 
 二三日前から使っている啄木の写真も『星霜』第4巻からの借用です。一般に「石川啄木」として広く流布している、金田一京助といっしょに撮った明治41年10月の写真がなぜかあまり好きではない(なにか指図するものが多く含まれているような気がする)私みたいな人には、こういう写真の存在は「わが意を得たり」といったところ。探せば、あるじゃないか!という感じですね。函館時代の写真らしいですが、こっちの方がはるかに若々しいし、よく「22歳の青年」の感じを伝えていると思う。
 小樽の高田紅果が『在りし日の啄木』に書いた姿、「五分刈りの坊主頭で、色白の顔容はいかにも若々しく、どちらかといえば子供らしい稚気に満ちた感じ」にもあてはまる。こういう姿形が「盛岡のアクセントやなまりを交えた東京風な言葉」で喋っていたんだろうなぁ。いや、とてもわかりやすい。(やっぱり、あの「明治41年」姿の啄木が北海道を漂流していた…と考えるのは、いろんな意味で無理がありますからね。)
 
 
 ここで、話は、昨日の「北門新報」話題に戻ります。いやー、「兆民先生」も爆発的に面白い。
 
 [小樽]相生町27番地に用意されたメシたきばあさんつきの借家に落ち着いた兆民が、やがて書き上げた来道第一作。が、その題名はなんと「北海道へ来る者は必ず夏でも袷(あわせ)を用意すべし」――。
定めしえらい名論が出るに違いなかろうと……張りつめておった連中の心の弓は、グニャグニャと折れて呆然たる姿であった。 (岩崎徂堂『中江兆民奇行談』)
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 ハッハッハ。7月の小樽は、やっぱり内地から来たインテリには寒かった?(こういう兆民先生の書いた面白文章、どこかで読むことできないかな…と思ってインターネットを探してみたのですが、意外と出ていないですね。残念。「青空文庫」にも「中江兆民」はナシでした。誰か、青空やってください。)
 
 でも、この「連中」、金子元三郎をはじめとする北門新報の連中はなぜ「中江兆民」を東京から呼ぶことを考えたのでしょう。
 
 当時北海道には、国会開設に刺激されて、自治権獲得運動が高まっていた。その原動力となった金子元三郎を含めた地場資本家たち。
 彼らがまとった自治要求という衣のウラ地が、開拓政策に対する彼らの発言力拡大の意図で染め上げられていたのはむろんだ。
 とすると、彼らが暗黙のうちに兆民に求めていたものが、そうした意図の代弁者たる役割だったのも当然。
 その意味では、彼らが勝手に飾り立てた期待される兆民像は、しだいにゆらぎ始めていたといっていい。
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 中江兆民って、要するに「柱谷」だったのね!
 
 
 北門新報社が社業拡大をねらって札幌に移転した明治25年、中江兆民もまた北門新報を去って行きます。かくして時代は兆民先生から明治40年9月の啄木へ。北門奇人列伝の舞台は巡ります。
 
次回は「9月17日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組 プラスチック・ケース入り
定価 各400円(送料共)