五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.9.14 札幌到着
松岡君と一中学生との室へ合宿す
 
 午前四時小樽着、下車して姉が家に入り、十一時半再び車中の人となりて北進せり、銭函にいたる間の海岸いと興多し、銭函をすぎてより汽車漸やく石狩の原野に入り一望郊野立木を交へて風色新たなり。時に稲田の穂波を見て興がりぬ。
 午后一時数分札幌停車場に着、向井松岡二君に迎へられて向井君の宿(北七条西四ノ四田中方)にいたる、既にして小林基君来り初対面の挨拶す、夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。予は大に虚偽を罵れり赤裸々を説けり、早いたかりし筈の人の愚かさよ、予は時々針の如き言を以て其鉄面皮を刺せり、
 今札幌に貸家殆んど一軒もなく下宿屋も満員たりといふ、
 
 

 
明治40年9月14日
啄木、札幌の街へ
 
 前日に続いて『星霜』第4巻からの引用です。まずは「函館大火」の後日談。
 
 当時、函館のライバル小樽は道内にジリジリ商権を伸ばし、その地位をおびやかしていた時期。その当面のせり合いに落とした大火の影響は小さかったといえぬだろう。
 一方、大火直後、啄木のように職を失ったり、あるいは家を焼かれたりで、一時的にもせよ函館を離れた人々の数は3千人を超えたといわれる。
 大火のあと、札幌、小樽の貸家が全部ふさがったというから相当の数だったことは確か。
 明治39年の函館の全戸数が23,271戸で人口は90,885人。
 それが明治40年には20,375戸、88,042人にガタ減りし、以後、明治末年までついに大火前年を上回ることができなかった。
(『星霜4』、「大火と函館」より「そのころ・大火のあと」)
 
 
 「大火のあと、札幌、小樽の貸家が全部ふさがっ」ていたので、啄木は「松岡君と一中学生との室へ合宿す」ることになったのでした。「一中」は現在の札幌南高校ですね。
 
 
 次は『星霜』第3巻から。啄木の就職先「北門新報社」、もともとは小樽の会社だったということ、知っていましたか? 物語は、啄木の明治40年を遡ること16年前、明治24年の小樽港から始まります。
 
 午前五時、雨上がりの小樽港に、函館からの定期船「遠江丸」が着いた。その船から飄然と降り立ったひとりの異様な風体の男――蓬髪(ほうはつ)、ゆかたがけ、そして手には大とっくり。
 いっときののち、その姿は商店が軒を並べる繁華街色内町の一角、北門新報社にヌッと現れた。
 室内にいた数人の社員が、ひと目見て声を立てる。
「兆民先生――。」
 明治24年(1891年)7月27日、北門新報の主筆に招かれた中江兆民の、いかにも彼らしい着任であった。
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 「中江兆民(ちょうみん)」とは吃驚ですね。あの、岩波文庫『三酔人経綸問答』の著者・中江兆民が「小樽」と縁があったなんて、なにか俄かには信じ難い世界です。今の小樽市民15万人に小樽ゆかりの歴史的人物を聞いても、「中江兆民」の名を挙げられる人、何人いるでしょうねえ? 5人くらい? 3人?
 
 北門新報の創刊は、その三ヶ月ほど前の4月21日。創立者、つまりスポンサーは小樽でニシン漁場と海産問屋を経営していた金子元三郎だ。
 のちに彼は回顧談で、その動機を、
当時は札幌に北海道毎日新聞があっただけで、小樽にはまだなかった。毎日新聞は道庁の補助を受けており、それらの関係で拓殖上の世論とならない欠点があった。ただ一種の新聞では進歩がなく、他に新聞があれば刺激となって発展し、北海道の世論をこれにより啓発するのではないかと思われた。
と語っている。
(『星霜3』より「主筆・兆民」)
 
 明日の15日も「北門新報」話題が続きます。(笑)
 
次回は「9月15日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
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