五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.9.8〜9 札幌の北門新報校正係の口あり
多くの友を後にして、我今函館を去らむとす
 
9月8日
 この日札幌なる向井君より北門新報校正係に口ありとのたより来る。
 
9月9日
 予は数日にして函館を去らむとす。百二十有余日、此の地の生活長からずといへども、又多趣なりき。一人も知る人なき地に来て多くの友を得ぬ。多くの友を後にして、我今函館を去らむとするなり
 この日暴風吹き、焼跡の仮小屋倒れたるもの多し、午后四時桟橋に牧野文部大臣を迎へにゆげり
 夜、吉野君宅にて岩崎君と三人して大に飲みぬ。飲みて酔ひぬ。酔ひて語りぬ。予は衷心よりこの二友を得たるを天に謝す。例の如く神を語り詩を語り恋――わが恋を語れり。
 この夜、我ら互ひに胸中に秘したりし松岡君に対する感情を残りなく剔抉して、盛んに彼を罵れり。あゝ我等赤裸々の児は遂に彼が如き虚偽の徒と並び立つを得ざるなり。彼は不幸の子なり、愍むべし、然れども彼は遂に一厘毛の価値だになき腐敗漢なり、とは此夜我等の下したる結論なりき。
 
9月10日
九月十日
 四時頃より快男子大塚信吾君来り、並木君来り、吉野君来り、岩崎君来り、松坂君来り、札幌なる向井君よりハヤクコイといふ電報来れり。予は二三日中に愈々札幌に向はむとす。此夜大に飲めり。麦酒十本。
 酒なるかな。酔ふては世に何の遺憾かあらむ。我ら皆大に酔ひて大に語り、大に笑ひ、大に歌へり。吉野君の所謂天下太平也。並木君のヴアヰオリンに合せて我らは子供の如く稚なき唱歌をうたへり、岩崎君は詩を朗読したり。吉野君の謡こそ最も面白けれ、曰く、「なつたなつたなつた大人になつた独身で居らりよかブーラブーラ」
 十一時会散ず。並木君泊る。この日札幌に流れ入りし松岡君より、帰函の希望を述べ又予の札幌に入るをとゞむる手紙来れり。人々相顧みて苦笑しぬ。
 
9月11日
 午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきげり。高橋女史に逢へり
 午后小林茂君来り、大井正枝君来れり。吉野君と夕方谷地頭に散歩し、浮世床といふ床屋にて斬髪す。
 夜岩崎君宅に招かれて、吉野並木二君も会し、大に飲めり。牛肉と玉葱の味いとうまかりき。予の出立は明後日午后七時の汽車と決しぬ。
 
 

 
明治40年9月8日
札幌の北門新報校正係の口あり
 
 啄木の函館がどんどん終ってしまう。楽しかった夏が去って行く…
 
 本当に人生は無常。借金王だの、女癖が悪かっただの、負け犬だのと、人は好きなことをあれこれ言うけれど、「それがどうした」と私はあえて言っておきたいね。それがどうした!人生の負け犬にならなかったことが自慢のあんたは、じゃ、心に沁みる歌のひとつもこの世に残して死ねたのかい。
 
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
 
 今年の国際啄木学会の講演テーマ「啄木と尾崎豊」じゃないけれど、本当に、啄木とかオザキといった人たちは、もう「愛」をうたふことが仕事なんであって、レコード何枚売っていくら儲かったかが人生の人たちじゃないんですよ。たとえ何曲ヒットを出そうとも、ついに生涯最後の日まで『15の夜』一曲がなかった歌手ほどもの悲しいものはない…と、そう私なんかは思いますけどね。
 
 さて、札幌が啄木を呼んでいる。
 
 この連載の「明治40年7月中旬」号の時、野口雨情のことを書いていてちょっと「北門新報社」について疑問が出て来たので、「北の風信」ホームページの水口先生にメールしました。
 
(2003年7月23日 0:55) ………同じく今日、連載している「今日の啄木」を更新しました。そこで引用している文章の中に、野口雨情が札幌で勤めていたのが「北鳴新報社」となっているのですが、これは「北門新報社」のまちがいじゃないのか…と気になり、あれこれ調べて時間をくってしまいました。(結論は出ませんでした。インターネットでは、「北鳴」は野口雨情、「北門」は啄木ときれいに別れていますから、たぶんそれぞれそういう新聞社があったのだと思います。)………
 
 すぐに返事をいただきました。(すごい!)
 
(2003年7月23日 9:44) ………啄木、雨情の所属新聞社のことですが次ぎの様になっているようです。根拠は次ぎの通りです(水口所蔵)
書名 『北海道・樺太の新聞・雑誌』
著者 功刀真一  (苗字の功のつくり力は正しくは刀ですが、ワープロでは出ませんでした)
出版 北海道新聞社    昭和60年8月28日発行
P34の28行目に
『啄木は函館日日新聞、北門新報、小樽日報、釧路新聞を転々としたが、………』
P38の9行目に
『同じ詩人の野口雨情は北鳴新報、小樽日報と籍を変えたが、この時25歳、
その後胆振新報の編集長になったが。それでも28歳であった。………』
以上で新谷さんの調査が正しいのが証明されたかと思います。
なお『北鳴新報』は明治34年6月15日創刊で札幌区役所の公式新聞で日刊でした。………
 
 いつも「北の風信」ホームページにはお世話になっています。ありがとうございます。現在、掲示板がスパムメール(って言うのかな?)の影響で一時的に休止状態になっていますけれど、ぜひとも、我らのレファレンス・コーナーとして復活してほしいものです。
 
次回は「9月12日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
カレンダー価値の減却により、9月からの「啄木カレンダー」は
400円の定価になります。さっさとカレンダー部分を取り外して
単純な「啄木絵葉書」で売れば…というご意見もあるのですが、
スワン社独立の「2003年」を心に刻んで生きていたい想いが
まだ残っているのです。9月一月間、よく考えてみます。<新谷>
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
表/カレンダー,裏/ハガキ仕様 各12枚組 プラスチック・ケース入り
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