五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.8.27〜31 新聞社、弥生小学校焼失
函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して
 
8月27日 
 京中は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり、犬の死骸あり、猫の死骸あり、皆黒くして南瓜の焼けたると相伍せり、焼失戸数一万五千に上る、(四十九ケ町の内三十三ケ町、戸数一万二千三百九十戸)
 狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査……狂へる雲の上には、狂へる神が狂へる下界の物音に浮き立ちて狂へる舞踏をやなしにけむ、大火の夜の光景は余りに我が頭に明かにして、予は遂に何の語を以て之を記すべきかを知らず、火は大洪水の如く街々を流れ、火の子は夕立の雨の如く、幾億万の赤き糸を束ねたるが如く降れりき、全市は人なりき、否狂へる一の物音なりき、高さより之を見たる時、予は手を打ちて快哉を叫べりき、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の土より函館を掩へる真黒の手なりき、かの夜、予は実に愉快なりき、愉快といふも言葉当らず、予は凡てを忘れてかの偉大なる火の前に叩頭せむとしたり、一家の危安毫も予が心にあらざりき、幾万円を投じたる大厦高楼の見る間に倒るるを見て予は寸厘も愛惜の情を起すなくして心の声のあらむ限りに快哉を絶呼したりき、かくて途上弱き人々を助け、手をひきて安全の地に移しなどして午前三時家にかへれりき、家は女共のみなれば、隣家皆避難の準備を了したるを見て狼狽する事限りなし、予は乃ち盆踊を踊れり、渋民の盆踊を踊れり、かくて皆笑へる時予は乃ち公園の後なる松林に避難する事に決し、殆んど残す所なく家具を運べりき、然れどもこれ徒労なりき、暁光仄かに来る時、予が家ある青柳町の上半部は既に安全なりき、
 大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげむとす、
 函館毎目新聞社にやり置きし予の最初の小説「面影」と紅苜蓿第八冊原稿全部とは烏有に帰したり、雑誌は函館と共に死せる也、あゝ数年のうちこの地にありては再興の見込なし、
 此日札幌より向井君来り、議一決、同人は漸次札幌に移るべく、而して更に同所にありて一旗を翻さんとす、
 夕四時松岡君故郷より来れり、
 
8月28日
 予が日々新聞に入れる時、学校の方は九月に入りて辞するつもりにて、折柄の休暇を幸ひ、別に辞表を呈出し置かざりき、これ今となりてはせめてもの幸福なり、社の方は見込なくなりたれど、代用教員たる予は猶些少ながら給料をうる事を得るなり
 火事の夜の疲れにて体痛む、
 
8月30日
 明日札幌にかへるべき向井君に履歴書をかいて依頼せり、小樽なる兄が許より白米一俵味噌一箱来るこの日より大竹校長宅なる弥生尋常小学校仮事む所に出務する事となれり、学校の諸帳簿殆んど灰となり書籍亦不要なるもの少し許り残りたるのみ
 
8月31日
 仮事む所に職員協議会をひらく、十五名のうち罹災十名なり、
 

 
明治40年8月27〜31日
函館大火 その2
 
 函館は明治になって急激に来住者が増え、それらの人々が随意に住居を構えて街が延長し、道路も狭く曲折も多く、家屋の構造も粗雑だったため一度火事が発生するとたちまち広く延焼し、また風も強く大火になることが、たびたびあった。明治2年から大正に至る約50年間に100戸以上焼失の大火が25回、2年に1回の割合で経験した。
  (中略)
 明治40年から大正10年は「大火受難時代」で大火9回、20ヶ月に1回の割合であった。
 安政以降の焼失区域をみると、同一個所で重複20回以上焼失した所があり、高齢者の中には一生に十数回火災で焼けだされた人がいるという。
(『函館の建築探訪』より「函館と大火」吉村富士夫)
 
 これは凄いですねえ…生涯に十数回も大火を経験していたら、もう、大火の合間に「人生」やっているような感じなんでしょうか。誰々が所帯を持ったのはたしか○○大火の後だから大正10年頃だ…とかね。
 
 とくに悲惨だったのは、明治40(1907)年と昭和9(1934)年の大火である。記録によれば「明治40年8月23日[←25日?:新谷]午後10時35分、東川町217番地石鹸製造場から出火し、偶々東風激烈にして飛火各所に延焼し、消防に力を尽すと雖も風勢益々加わり、また如何ともすべからず、区内の要所大半灰燼に帰し、翌26日午前9時25分遂に鎮火せり。全部焼失せる町は14,一部焼失せる町は20、羅[←ママ]災面積約40万坪、焼失戸数1万2390に及ぶ」とある。
 この年の5月に函館へ来た石川啄木もこの大火に遭い居宅は焼けなかったが、勤務先の弥生小学校や函館日々新聞社が焼けたため、9月には札幌へ去った。
 
函館のかの焼跡を去りし夜の
こころ残りを
今も残しつ      (一握の砂/忘れがたき人人)
 
 函館大火を詠った歌は、もしかしたら、これひとつなのでしょうか? 『一握の砂』をざっと見まわした限りでは、これしか探せませんでした。でも、これも(厳密に言えば)詠っている主題は「(橘智恵子への)こころ残り」の情感なのであって、けして「かの焼跡」を詠いたい歌ではない。
 
 こういうところ、本当に、啄木だなぁ…とつくづく思いますね。職場を失って札幌まで出稼ぎに出ざるを得なくなった身の上なのに、それでも橘智恵子への慕情を平気で詠っていられる神経って、なかなか一般人にはできない世界です。ここまで来れば、もう、たいしたものだ…と感嘆するしかありません。
 
次回は「9月1日」

 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
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