五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.8.18 函館大火となる
六時間にして函館全市の三分の二をやけり
 
 廿五日は日曜なりし事とて予は午前中に月文の編輯を終り辻講釈の(二)にはイプセンが事をかげり、午后町会所に開かれたる中央大学菊池武夫(法博)一行の演説会に臨み六時頃帰りしが、何となく身体疲労を覚えて例になく九時頃寝に就けり
(大火)八月二十五日
 比夜や十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが斯くにしてまぬかれたり、吉野、岩崎二君またのがれぬ。
 

 
明治40年8月25日夜
函館大火
 
 大火と建築
 函館の市街地改造は、大火と深い関係がある。2000戸以上の焼失家屋があった大火だけでも、明治12年、29年、31年、40年、大正10年、昭和9年の6回を数え、被災後の市区改正や復興計画によって、現在の函館の骨組みが出来上がっていったのである。
 明治11年の大火で、現在の弥生坂以西(函館どつく方向)の市街地を対象に屈曲した道路が直通し、それまで4間余(7メートル余)しかなかった大通(現電車通り)が12間(21.6メートル)に、小路は6間以上に広げられている。
 また12年大火では、前述のように基坂や二十間坂が拡幅され、入り組んだ街路が直線的な街路となり、矩形の整然とした街区が誕生することになった。
(『函館の建築探訪』より「函館の市街と建築−その楽しみ方」角幸博)
 
 これが、啄木が函館にやってくる明治40年までの函館市街の様子。現在の函館の基本的な構造は、この明治11年、12年の大火の復興とともに明治30年代までにはすでにできあがっていたことがわかります。では、その構造の上に乗っかっている建築群はどうでしょうか。
 
 また、明治11,12年大火後の開拓使の防火造建築奨励施策は、石造り、れんが造り、土蔵造りに対して資金融資を行うもので、これを契機に、商業活動の中心地区であった末広町や大町周辺では、有力商人たちが土蔵造りのほか、れんが造りを主とする防火造り町家を建設し、構造体としてのれんが壁を、しっくいやモルタルで被覆して、和風土蔵造りから洋風まで自在に外観意匠を展開していった。
 
 以上のことより、啄木の歌に詠われた「函館」の街は、現在の私たちが見知っている函館と、街の<構造>はそんなにはちがっていないことがわかります。出揃うべきものはほとんど出揃っていた。ただ、街の<景色>は、明治40年8月以前と以後ではかなりちがうことが窺えます。
 
 防火への対応もむなしく、明治40年8月の大火は、西部市街地のほぼ全域を焼きつくした。明治11,12年大火の場合と違って、市街構造を変えるような事業は興されなかったものの、元町の公共建築や教会、寺院などのほとんどがこの時に新築され、街並みの表情は一変したのである。
 
 啄木の歌に描かれている「函館」とは明治40年8月までの函館風景です。ですから、私たちが今認識している函館とはかなりちがうものなのではないでしょうか。現在、私たちが函館の歴史的建造物として認識している、例えば「真壁家(又十藤野社)」のような正面1階和風、2階洋風のユニークな木造和洋折衷スタイルも、それが現れたのは明治40年の大火以後のことです。さらに言えば、私たちがいちばん「函館」っぽいと感じる、例えば「弥生小学校」のような鉄筋コンクリート群ができあがってくるのは、もっと後の、大正10年や昭和9年の大火以後の話です。啄木自身は、全くこれらの「函館」を目にはしていないのです。
 
 「啄木」には、この手の、読者の(善意の)誤解がとても多いように感じます。わかってはいるのだけど、なにか、啄木の見ていた「函館」や「小樽」と、今私たちが見知っている「函館」や「小樽」は同じなのだと思いたい心情というか…
 
 北海道時代の啄木は、夏には海水浴をしたり、トウキビや豚汁を食べたりしている普通の健康人ですよ…というと、驚く人は今でも多い。啄木の歌を真に受けるのか、最晩年(27歳)の肺結核の様子と混同するのか、その辺の事情はよくわからないのだが、北海道流浪時代の啄木に「孤独」や「病弱」や「貧窮」といった誤ったイメージを読み込んでいる人はものすごく多いです。
 
 早い時期に是正されるべきでしょうね。
次回は「8月27日」

 
 
九月、啄木は小樽の街へ…
 
五月から始まる啄木カレンダー 短歌篇 日記篇
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