五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.8.18 函館日々新聞杜の編輯局へ入る
辻講釈たる題を設けて評論を初めたり
 
八月十八日より予は函館日々新聞杜の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、汚なき室も初めての経験なれば物珍らしくて面白かりき、第一回の日曜文壇は入社の日編輯したり、予は辻講釈たる題を設けて評論を初めたり
 

 
明治40年8月18日
予は辻講釈たる題を設けて評論を初めたり
 
 「8月18日 宮崎郁雨の紹介で斉藤大硯が主筆である市内東浜町32番地の「函館日日新聞」(社長小橋栄太郎)の遊軍記者となり、直ちに「月曜文壇」と「日日歌壇」を起こし、「辻講釈」の題下に評論を掲げる。」(石川啄木全集第8巻「伝記的年譜」より) 下の写真、右が「斉藤大硯」、左が「函館日日新聞社」です。
 
 
 
 函館の人たちの「啄木」への好意的な接し方は、なにか札幌や小樽の人間たちとの対応とちがうのです。以前からこれを不思議に思っていたのですが、過日、亀井勝一郎の文章を読んでいて、ああこういうことなのかな…とちょっと納得しました。
 
 私たちは本州のことを「内地」と呼びならわしていた。津軽海峡にのぞむ函館の浜辺に立って、私は海をへだてた彼方の下北半島や津軽半島の山々を眺めたものだ。「あれが内地だ。」「あの山を越えて何百里も行くと東京がある。」そう言って、何か異国を眺めるように「内地」をのぞんで暮らしてきた。自分たちは「日本のエトランゼ」ではあるまいかと云った気持もあった。開拓地であるとともに植民地でもあるところからきた一種わびしい気持も伴っていたようである。
(「私の文学遍歴」亀井勝一郎)
 
 つまり、このちがい。函館の人たちには日常的に「彼方の下北半島や津軽半島」があるのだけれど、札幌や小樽の私たちにはそれはないんだということではないでしょうか。私たちも「日本のエトランゼ」を意識しますけれど、その意識は、具体的に「東京」に出てみない限りはなかなか認識されないのです。多くの北海道人が、云わば「東京」からの帰り道で「エトランゼ」を認識するのに対して、函館の人たちがすでに「東京」への出発前にこの認識を持っていることについて、私は何か独特の北海道人たちだなぁ…という印象を受けました。
 
 ですから、「東北」への認識もかなりちがっている。
 
砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもい出ずる日
 
啄木の歌。大正八年函館中学に入学す。わが母校の前方にこの砂山があり、中学生の私もここに腹這い、遠い内地にあこがれた。津軽海峡の青い流れ…
 
 ………
 
人間は努めているかぎりは
迷うにきまったものだ     ファウスト第一部「天上の序言」より
努めてやまざるものは
救われる              ファウスト第二部「天使の合唱」より
 
大正十二年山形高校文科乙類(ドイツ語)に入学する。原文でゲーテを読む機会を得、とくにファウストを愛読す。
(「遍歴の言葉」亀井勝一郎)
 
 今まで、単純に、北海道から東京の大学(東大)へ…という、ありがちな北海道知識人かと思っていました。でも、ここに「山形」が入るんですね、亀井勝一郎の場合は。
 うーん、なかなかユニーク。札幌近辺の知識人ではあまり見かけないスタイルですよね。もっと単純明快に意識は「札幌→東京」ですから。間に一拍、「東北」っていうビートが入る形は珍しい。啄木や小林多喜二などに好意的なのは、やはり対「東京」意識に「東北」ビートが入る親近感からなのか。(小林多喜二は秋田県大館出身)
 
 その亀井勝一郎。同じ「私の文学遍歴」の中で、面白い北海道文学観を述べています。
 
 北海道文学の系譜と云ったもののその精神の傾向を大まかに言うなら、札幌のピューリタニズム、小樽のリアリズム、函館のロマンチシズムということになりそうだ。これは開拓者気質の三つの型と云ってもいゝだろう。今ではむろん解消してしまったと思う。独立運動の夢も消え去ったであろう。たゞ幼少年時代の、私の気持の中にあったこととして記しておきたい。
(「私の文学遍歴」亀井勝一郎)
 
 そうですか、「小樽」はリアリズムね… これ、当たりです。
 
次回は「8月25日/函館大火」

 
 
五月から始まる啄木カレンダー
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