五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
明治40.8.2 母を呼び寄せ一家5人となるが
六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む
八月二目の夜予は玄海丸一等船室にありき、そは老母を呼びよせむがため野辺地なる父の許まで迎へにゆくためなりき、
三日青森に上陸、直ちに乗車、(安並みなゑ女史と汽車中に逢ふ、学校をやめて八戸にかへる所。さびしくもやめる人なりき)。小湊に旧友にして岡山高等学校を卒業し来り九月より京都大学医科に入らむとする友瀬川深君を訪ひ、四年振りの会談にビールの味甚だ美なりき、夕刻野辺地にゆき老父母及び伯父なる老僧の君に逢ひ一泊、
翌早朝、老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰国したり、これより先き、ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく賑かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽たりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人
家庭は賑はしくなりたれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、
明治40年8月2日
大森浜の海水浴は誠に愉快なりき…
クイズ 石川啄木と函館
石川啄木年譜
■明治19年(1886) 1歳
■明治20年(1887) 2歳
■明治24年(1891) 6歳
■明治28年(1895)10歳
■明治31年(1898)13歳
■明治35年(1902)17歳
■明治38年(1905)20歳
■明治39年(1906)21歳 |
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岩手県南岩手郡日戸村の常光寺に生まれる。本名[ ]。
岩手県北岩手郡[ ]村の宝徳寺に移転。
渋民尋常小学校へ1年早く入学。
渋民尋常小学校を[ ](1番)で卒業し、盛岡市立高等
小学校に入学する。
岩手県立盛岡尋常中学校に進学し、金田一京助と知り合う。
投稿した短歌が初めて、雑誌『[ ]』に掲載される。
盛岡尋常中学校を退学し、上京するが体を壊して帰郷する。
処女詩集『[ ]』が出版される。6月、堀合節子と結婚する。
渋民尋常高等小学校の代用教員となる。 |
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[ 月 日]函館に渡り、宮崎郁雨たち苜蓿社の同人(仲間)
となり『紅苜蓿』の編集をする。
弥生尋常小学校の代用教員に採用される。
家族を函館によび青柳町の借家で一緒に暮らす。
[ ]新聞の遊軍記者となるにもなるが、8月25日の
大火のため職場をすべて失い、札幌・小樽へと移転する。 |
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■明治41年(1908)23歳
■明治42年(1909)24歳
■明治43年(1910)25歳
■明治45年(1912)27歳
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1月釧路で新聞記者となるが、文学への情熱のため上京し
金田一京助に下宿などを紹介してもらう。
『スバル』創刊。東京朝日新聞の校正係に採用される。
処女歌集『[ ]』が出版され、注目を集める。
[ 月 日]、肺結核で死去。(26歳2ヶ月)
6月、歌集『悲しき玩具』が出版される。 |
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函館に碑のある啄木の歌
東海の小島の磯の白砂に
[ ]
蟹とたはむる
住吉町、立待岬にある啄木一族墓碑(大正15年8月建立)。
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや
日乃出町、啄木小公園の啄木銅像(昭和33年10月建立)。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
[ ]
青柳町、函館公園内の歌碑(昭和28年4月建立)。
こころざし得ぬ人人の
あつまりて酒のむ場所が
[ ]なりしかな
青柳町、函館公園近くにある歌碑。
カルトクイズコーナー
1.啄木に経済的援助を続けた友人で、啄木の妻節子の妹と結婚した人物。
[ ] ヒント 館内に肖像画があるよ
2.弥生尋常小学校の代用教員として、啄木の月給はいくらか?
[ 円] ヒント 銅像横の啄木年譜
3.雑誌の名前「紅苜蓿」とは何という植物のことでしょうか?
[ ] ヒント 雑誌の表紙
4.啄木が函館で最初に勤めたのはどこですか?
[ ]臨時雇
※ 答えは館内の展示のなかにあります。挑戦してください。
※ 正解のほしい人は、帰りに受付に申し出てください。
今までデジタル篇にお付合いいただいた人たちには(カルトコーナーを含めても)簡単すぎることでしょう。でも、「啄木クイズ」ってアイデアはおもしろいです。次回でスワン社製の「啄木クイズ」、やってみようかな…夏休みですし。
次回は「8月18日」
五月から始まる啄木カレンダー
短歌篇 日記篇
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