五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
(「啄木勉強ノート」HPより引用)
 
明治40.6.11 弥生尋常小学校代用教員へ
予は具さに所謂女教員生活を観察したり
 
六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五名の職員あり校長は大竹敬造氏なりき、児童は千百名を超えたり職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員たりき、予は具さに所謂女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり
 

 
明治40年6月11日
啄木、弥生尋常小学校代用教員へ
 
 啄木が代用教員をやっていた弥生小学校って、どんな学校だったのだろう?
そんな時、本によっては、「はい、これが弥生小学校ですよ」と下の建物の写真を出してくる本もありますが、もちろん、これは啄木が勤めていた「函館区立弥生尋常小学校」ではありません。日記で啄木自身が「学校も新聞社も皆やけぬ…」と書いてある通り、啄木が勤めていた函館区立弥生尋常小学校も函館日日新聞社も明治40年8月25日の大火で焼失しています。
 
『函館の建築探訪』(北海道新聞社)より「弥生小学校」
 
 
 この写真の弥生小学校は、昭和9年の大火の後、復興建築として昭和13年に建てられた「弥生尋常高等小学校」です。ご覧の通り、4階建ての鉄筋コンクリート建築。ごく常識的に考えても、この大建築と「啄木」の間に関係は全然ありません。(明治40年にこんな帝大級の建物で仕事ができるほど地位や財力が啄木にあったのなら、北海道漂泊なんかしているわけがない…) そうわかった上で、改めてこの現在の「弥生小学校」を眺めた方がお互いのためだと思います。
 
 弥生小学校は、「啄木」や「亀井勝一郎」のイメージを借りなくとも、ただ眺めているだけで美しい、「函館」の街のオーラが充満した大作です。
 
弥生小学校の内部
 
 函館大火の8月頃になったら、もう一度、この『函館の建築探訪』(北海道新聞社)を使って書いてみようと思っています。なかなか面白い本なんです。「建築探訪」の本なのに、本の中で「函館と大火」という一章を独自に設けていたりします。もう、「大火」という概念が、「函館」という街を語る上での重要なキーワードになっているのですね。その「大火」史の中でも、啄木が遭遇した明治40年のものは、台風で喩えれば「伊勢湾台風」クラスの、かなりもの凄いものであったらしい…
 
次回は「7月7日」
 

 
 
五月から始まる啄木カレンダー
短歌篇 日記篇
 
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