五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
 
 
明治40.5.11 商業会議所で働く
 
 天が曇って居る。時々雨が落ちた。
 今日から函館商業会議所に出ることになった。昨日沢田氏からの話で、当分のうちといふ約束。
 午前八時、松岡君につれられて町会所内の会議所事務所へ行った。自分にとっての新らしい経験が、これから初まる所だと思ふと、面白い様な気もする。商業会議所なんて云ふと、一体自分には別世界の感があるが、這入つて見ると、矢張横目縦鼻の人間が五人許り居た。
 見るから無能らしい面構の吉田といふ洋服男へ行って挨拶する。アトで聞いたのだが、これは盛岡人なさうだ。どうも同国の人間にはこんな顔をしたのが多いではないだろか、と思って、一人で可笑くなった。割りつけられた役目は、税務署へ行って、同所議員の撰挙名簿を作るために、区内商業者の住所氏名職業及び納税額を台帳から写しとって来るのだ。吉田無能君につれられて、一人の四十許りな髯面と共に税務署に行く、この男はアトで解つたが何か面白さうな男で、町会所を預つて、宿直室内に一家皆住んで居る。
 税務署の事務室は天井の高い、随分広い立派な室だ。ハイカラな人間が何十人となく何かコツコツ仕事をして居る。十五六になる顔のよい給仕が一人居て、急がしさうに卓子と卓子の間を往来して居る。向ふの隅で「給ー仕イ」と呼ぶと、「ハイ」と答へてそっちへ行く。此方の隅で「給ー仕イ」と呼ぶと、矢張「ハイ」と谷へて此方へ来る。この「給ー仕イ」といふ声が面白い。無い威厳を態と有る様に見せる声だ。殺風景な脳の底から、八字髯の下を通りて、目下の者の耳にぴりりと響をおくる声だ。所謂明治の官人の声だ。この声を絶間なくきゝ乍ら予らも亦殺風景た仕事をなすべく筆をとりあげた。思ひ切って真面目に敏速に筆を動かす。初めて這?役所めいた処へ這入つたのだといふ感が、異様に予の心をくすぐる。
 昼飯くはずに二時までやって三百枚許り書いた。きり上げてかへる。会議所には無能君一人残って居た。井元黒髯君どうしたものか、非常に好意を示してくれて、三時頃に午餐の御馳走に預ってかへつた。雨が落ちて来た。随分大粒の雨である。急がずにテクテク来ると、松岡君が途中迄傘もって迎へに来てくれた。ありがたいものである。
 和賀君と将棋をやって大勝利。妹からと渋民の岩本氏からの手紙が来た。岩本氏の手紙は予をして故山を思はしむる事いと深くあった。母は米長氏の所へ移り、妻子は盛岡へ行ったといふ。一人どこかへ行って泣きたい程、渋氏が恋しかった。
 夜、吉野君岩崎君が来た。四人で歌会をやらうといふ事になって、字を結んで十題をえる。
 すでに二年も休んで居たので、仲々出ぬ。漸々皆揃って、互撰して、披講して、眠つたのが一時頃。二三首
 汗おぼゆ。津軽の瀬戸の速潮を山に放だは青嵐せむ。
 朝ゆけば砂山かげの緑叢の中に君居ぬ白き衣して。
 夕浪は寄せぬ人なき砂浜の海草にしも心埋もる日。
 面かけは青の海より紅の帆あげて来なり心の磯に。
 海をみる真白き窓の花蔦の中なる君の病むといふ日よ。
 早川の水瀬の舟の青の簾を斑に染めぬ深山の花は。
 何処よりか流れ寄せにし椰子の実の一つと思ひ磯ゆく夕。
 燈籠に灯入れて夜の鳥待つと青梅おつる音かぞへ居ぬ。
 いつはりて君を恋しといひけるといつはりて見ぬ人の泣く日に。
 

 
函館の夏 (9月6日記)
5月11日
 会議所議員撰挙有権者台帳を作る事を分担し五月十一日より予は沢田君に促がされて商業会議所に入れり、予は一同僚と共に会議所議員撰挙有権者台帳を作る事を分担し毎日税務署に至りて営業税納入者の調をなせりこれ予にとっては誠に別世界の経験たりき、商業会議所既に然り、税務署の広き事む所に至りては事々物々皆予の好奇心を動かさざるはなかりき、予はこの奇なる興味のために幸にして煩鎖たる事務をすら厭はざりき、予が日給は日に六十銭なりき、
5月31日
 五月三一日予は会議所を罷めたりこれより数日予は健康を害し、枕上にありて友と詩を談じ歌を作れり、
 

 
明治40年5月11日
啄木、商業会議所で議員撰挙有権者台帳作り
 
 明治40年の啄木日記「明治四十丁未歳日誌」では、「5月5日」と「5月11日」の部分が二種類あります。ひとつは毎日つけている「丁未歳日誌」としての部分。そして、もうひとつは、その日誌の中に特別に『函館の夏』と銘打って9月6日に書いた一文の中の「5月5日」「5月11日」の日の記述です。したがって、今回の「5月11日」までは文章がふたつある形となります。
 
 啄木、生意気ですね…さっそく、人をつかまえて「無能君」呼ばわりとは。
 この頃の啄木は、まだ、函館生活の新参者。後年私たちが知っている「函館時代の啄木」イメージとは少しかけ離れています。弥生小学校の代用教員になるのは6月。青柳町の新居へ引っ越すのは7月です。母を呼び寄せ一家5人となるのはさらに8月のことですから、例えば有名な歌「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」などに詠われている情感などとは少し異質の啄木を、この時期の「丁未歳日誌」にはうかがうことができるのです。身体は「函館」に来たが、いまだに心(頭)は「渋民村の神童」や「東京の大詩人」を引きずったままでいるような。
 面白いのは、啄木自身が、5月の日記に『函館の夏』と銘打っているところです。『函館の夏』は、函館を離れ札幌に移る直前の9月6日に書かれました。ですから、この文章は、啄木の「函館」回想記といった意味合いも持っています。そうなるとやはり、啄木自身、函館の生活とは「夏」であった…と認識していたと考えてよいのではないでしょうか。青柳町の新居へ移った7月7日あたりから8月25日に函館大火に遭うまでのひと月ちょっとが、啄木の短い「函館の夏」であったように思います。
 
次回は「5月31日」

 
 
五月から始まる啄木カレンダー
短歌篇 日記篇
 
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