五月から始まる啄木カレンダー
デジタル篇
 
 
 

 
明治四十丁未歳日誌 (1907年)
 
明治40.5.5 青森から陸奥丸にて函館へ
我は世界に家なき浪々の逸民たり。
 
 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。
 子は少しも常に変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。
 偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思ひをか天に向って訴へむとすらむ。檣をかすむる白鴎の悲鳴は絹を裂く如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。
 山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ不断の覚醒たり。不朽の自由なり。
 海を見よ、一切の人間よ、皆来つて北海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民たり。今来つて北海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力たり。
 噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。
 我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。
 

 
函館の夏 (9月6日記)
5月5日
 
 五月五日函館に入り、迎へられて苜蓿社に宿る事となれるは既に記したり、社は青柳町四十五番地なる細き路次の中、両側皆同じ様なる長屋の左側奥より二軒目にて、和賀といふ一小学校教師が宅の二階八畳間一つなり、これ松岡政之助君が大井正枝君といふ面白き青年と共に自炊する所。
 松岡君は控訴院雇にして大井君は測候所の腰弁なりき。松岡君は色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男めいたる風?也、手はよく書けり、床の間に様々の書籍あれど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき、後に知りたる並木君と共に、この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり、さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種のヒネクレ者なり、これ其過去の富裕なる生活経験が作りたる哀しむべき性格ならむ。秋田県横堀の人、十五にして郷関を脱出してより流離転沛、南北にころがり歩いて惨苦具さに嘗めたりといふ、これ其境遇によるといべども、亦要するに共性格によれり、子を旅店広嶋屋に迎へたるは、この友と岩崎正君(白鯨)となりき。岩崎君は松岡君より少き事三歳、恰も予と同齢たり、君が十六の時物故したる父君は裁判所判事なりしといふ、八戸の中学にありて父君の死に逢ひ爾後郵便局に入りて今現にこゝの局の二番口に為替の現業員たり、青くして角たる其顔、奇にして胸の底より出づる其声、一見して兵卒直なる性格を知る、口に毫も世事を語らず、其歌最も情熱に富み、路上をゆくにも時々会心の歌を口ずさむ癖あり、以上二君何れも初めて逢へる也、社に入りて二三日のうちに相逢ひたる初見の友の中に吉野章三君あり、宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有名たる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんといふ、大島経男君は予らの最も敬服したる友なり、学深く才広く現に靖和女学校の教師たり、向井永太郎君は私塾を開いて英語を教へつつあり、沢田信太郎君は嘗て新聞記者たりし人、原抱一庵の友にして今函館商業会議所に主任書記たり、以上の三人は共に学識多く同人の心に頼む所、殊に大島君は今迄主として「紅苜蓿」を編輯しつつありしなり、此外並木武雄(翡翠)君あり、年二十一、郵船会社にあり、一番ハイカラにしてヴァイオリンを好み絵葉書を好む、宮崎君あり(大四郎、郁雨)これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛を得たり雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌たれども北海に於ける唯一の真面目たる文芸雑誌なり、嘗て故山にありし時松岡君の手紙をえて遥かに援助を諾し一二回原稿を送れる事ありき、今予来って此函館に足を留むるや、大島氏の懇請やみ難くして予は遂に其主筆とたりぬ。
 
 

 
明治40年5月5日
啄木、ついに海峡を渡る
 
 石川啄木が津軽海峡を渡って函館の地に降り立ったのは明治40年5月5日の昼頃。啄木、22歳の春でした。迎えたのは、雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』に集まる文芸グループ「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」の人たち。
 私たちが啄木の生涯を見渡す時、「金田一京助」という名前と同じくらいの頻度で、啄木の人生の岐路に何度も登場してくる「宮崎郁雨」という名前がありますが、彼は、この『紅苜蓿』の同人です。
 啄木が函館に着いた当時の郁雨は、すでに函館商業学校を卒業し、一年志願兵としての軍務を終え、家業の宮崎味噌製造所の仕事を見習い中でした。彼は宮崎味噌製造所を函館に起すまでの父・宮崎竹四郎の苦労を知っており、また、自身も少年時代つぶさにその辛酸をなめてきただけに、啄木の気の毒な身の上に深く同情し、できるかぎりの援助を惜しみませんでした。
 他にも、啄木に函館区立弥生小学校の代用教員の職を世話してくれた「吉野白村」など、函館の地はかなりの好意を持って啄木一家を迎えていると感じます。ストライキで始まり、「石をもて追はるるごとく」一家離散へと突き進んだ明治40年の啄木の人生も、この「函館」の選択で、なんとか好転に向かうのではと思われました。
 
次回は「5月11日」

 
 
五月から始まる啄木カレンダー
短歌篇 日記篇
 
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