啄木からの手紙
― 明治四十一年四月下旬 ―
 
 


263 四月二十二日函館より 大島経男宛

(京子インキ壷を覆してこんなにいたし候、見えぬ所はよろしく御推読被下度候)
終日強風砂塵を捲いて、窓外徂徠の人も少なく候ひしが、夜に入りてより雨声断続、故里の川音、と許り擬(まが)ふは大森浜の白浪に候ふべし。岩崎兄宮崎兄、共に九時過ぎて間もなく雨の霽間(はれま)を帰りゆき候。八畳の一室、母も妻も子も枕を並べて鼾幽かに眠り果て候。燈火の瞬き細やかに、煙草は湿りたり。何かは知らず、冷たき雨頭の中にも降りそゝぎ候ふ様にて、「生活」に脅やかされたる心、シクシクと痛み出づるを覚え候、
去る十三日夜小樽にまゐり、一家を引纏めて昨朝再び当地に帰り候、一身上の事、諸友と合議の末、郁雨宮崎君の甚大なる厚志により、小生は五六日中に単身上京する事と相成候、そして家族は、小生が京地にて何等か生活の
〔インキの斑点にて文字不明〕 見する迄当地に置き、同君が養つて置いて 〔同上不明〕 以来将に一週年ならむとす。敗れて来り 〔同上不明〕 転じた間に、小生は僅かに北海道を一週いたし候、 〔同上不明〕 失敗の跡のみなり。血痕はだらなる一年間の記録を見て、今、多少の感慨禁ぜざるを覚え候、
昨夏臥牛山下を御立ち遊されてよりの大兄の御心境は、略拝察致居候ひぬ。然し乍ら大兄には猶小生に無き事二つ御持ちなされ候ふ様に被存候、一つは、生活の威迫を蒙らざる事にして、他の一つは、兎にも角にも静かに物思ふだけの時間をお持ちなされ候ふ事に御座候。何と申してよかるべきか、心一つを千々の思ひに砕きて、然も詮ずる所、私は、身も、而して悲しいかな心も、遂に天が下の一浮浪漢に御座候。ヤドカリと申す虫けらにも劣ればや、三界に住むべき家もなく、朝より夜まで、又、朝より夜まで、身辺常に風あり雨あり、穏かなる事とては無之候。
現時の生活に適合して生存へむ事は、死よりも何よりも、遙かに遍かに至難の事の如く見え侯。敗れたるを勝ちたりとする、異りたる心を持ち候ふ者は、敗れたるを敗れたりとする人よりも、苦しみの多き事十倍百倍なるを具(つぶ)さに知り候ひぬ。私が自ら勝ち誇りて、独り超として心天外にゆくの時は、乃ち既に創痩全身に洽(あまね)く、顔と云はず手と云はず足と云はず、血糊腥く塗らざるなき時に御座候。一切を無意義なりとする怖るべき思想、時として電光の如く私の心を過ぎる事あり。疲れ果てたる心は、かくて一瞬時の安逸を貧らむとす。此境には、責任もある事なし、義務もある事なし、又向上もなく努力もなし。既にして絶対の「孤独」てふ云ふべからざる苦痛、面相接して到る。此時は、全身の血忽ち氷り、悪寒骨に徹するを覚え候。
事に臨んで自ら胆の小ならざるを誇り候ふ私は
〔インキの斑点にて文字不明〕 歩を断頭台上に移す事あり共、笑を含んで死に就く位 〔同上不明〕 は出来うべく候。然し乍ら此一切の虚剥落したる絶対の「孤独」の前には、一切の空しき如く私自身も亦唯空しく候。
既にして此暗灰色の霧の中に幽かに物の影の動くを見る。この影は、幼時の追憶に似たる、灰かなる「ロマンチックの影」に候。かくて一葉もつけざる「孤独」の大樹の枝々に、いろ/\なる空想の芽を吹き候。空想は空想を生みて尽くる所なし。然して此空想が一度「慾望」と手を握るに至つて、捕捉し難き空想が漸次実際に近き来る遂には、自己の前途猶多少の希望あるが如く思はしむるに至り候。かくて、私は、起きて顔を洗ひ、飯を食ひ、立ちて歩み、又物を言ひ候。
此径路は私が幾十回となく心中に繰返したる所。
然し乍ら、一切の理想といひ希望といふもの畢竟不確実極まるイリユージョン――極言すれば人生の虚偽に過ぎざらむとするを覚知いたし居候ふては、矢張平然として路行く人に伍して前に許り進む事能はず……所詮私は「生活」に適合する能はざる人間にして、人生の落伍者也、身も心も宇宙の浮浪漢なりといふ感じが、一種の暴風的歓喜を伴ひて私の心を荒らし申候。
此暴風的歓喜は、畢竟するに自暴自棄の声に御座候、一種の狂的発作に御座候。――自暴自棄に疲れたる心は、やがて又「一切虚無」の怖ろしき思想に一瞬の安逸を貧らんとし、やがて又、再び孤独の寂寞に涙もなく泣かむとするにて候。
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之を横に見たる時、「人生」は際涯なき平面なり。前後左右、唯これ波瀾重畳なる未解決の血の海なり。未解決なり、故に其唯一の結論は「虚無」。
之を縦に見たる時、「人生」は初めあり、而して終りあり……個人全解放の時代は、かくて私の最後の理想の時代に候ひき。
縦はどこまでも縦にして、横はどこまでも横なり。私の心中には此二つの大いなる矛盾あり。遂に相一致せず。既に野心児なるが故に、私に常に革命を欲す。「現状打破」は私の今迄殆んど盲目的に常に企て来れる所に御座候。
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釧路に於ける七十日間の生活は、殆んど生死の大権を提げて私の若き心に威迫を試み候。大兄よ、私釧路に入りて、生れて初めて酒といふもの飲み習ひ候ひぬ、時としては連夜旗亭に沈酔して、また天日の明きを見ず。酔うて帰りて寝ね、覚めて社に行き、黙々筆を走らして編輯を〆切れば、足また旗亭に向ふ。吉井君の所謂「おけ/\と頭を乱すもろ/\のみだらの曲をおもしろと聞く」てふ悲しき事もまた私の自ら経験したる所。時としては、酔快く発して、白眼世を視、豪語四隣を空しうし、盃を啣(ふく)んで快を呼び、絃歌を聞いて天上の楽としたる事なきに非ず。然し乍ら、噫然し乍ら、いかに酔ひ侯ふとも、我を忘るゝ事なきこそ痛ましくは候ひけれ。時としては、飲めども/\酔はざる事あり、眼華を盃底に落して、腕を供ぎ、?タ(じゆつてき)として独り心臓の鼓動を聞く。云ふべからざる孤独の感、酒と共に苦く候ひき。
銚子を控へて我をして乱酔するを許さゞりし一妓の情に、辛くも慰められたる事あり。又夢なき眠りを唯一つの望みとしたる夜あり。然して遂に、「感情の満足なき生活」には到底堪へ得べからざる事を、極度まで経験いたし候ひぬ。人は矢張昔から情の動物に候ひけり。一切が無くとも感情の満足さへあれば、心荒まず。これなき生活は、仮令他の一切を具備するとも、小生如きにはとても駄目に候。
人は感情の満足を、若き女に求め、家庭に求め、趣味に求めむとす。然れども小生は遂に天が下の浮浪漢なり。之を若き女に求めむには我が心老いたり。之を家庭に求めむには我が性あまりに我儘に過ぐ。而して之を趣味に求めむには、我が趣味あまりに自発的なり。所詮は之を自己自らに求むる外に途なきを悟り候ひぬ。
「創作的生活」(専念創作に従ふ生活)はかくて現在の私の最大なる希望、唯一の希望に候ひき。(二十一日夜)
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(以下二十二日夜書きつぐ)
御高書は着函するとすぐ郁雨兄より渡されて拝見いたし候ひき、失礼乍ら御言葉多く当らず。唯々面を赤う致候。かの卓上一枝の如きも編輯局裡の走り書、畢竟するに私胸中の矛盾をそのまゝ表白したるものに過ぎず候。
本日郁兄と相談の結果、来る二十五日未明出帆の三河丸にて海路より上京する事と相成候、先づ以て新詩社にまゐる筈。委細は京地より御通信可申上候。白村正両兄皆頗る健。頓首
  四月二十二日午後十時半         啄木拝
 大島先生 御侍史
 


264 四月二十六日荻の浜より 岩崎正宛

今朝七時前投錨、すぐ上陸。
碇泊五時間。僕にとつて今年の春は此五時間だ。短かい春ではないか。紅梅、桃の盛り、桜も少し笑つて居る。崖の竹藪の下の椿の花、これは古の武士の嫌つた花だといふが、散りぎはの脆いところが心をひく。
古風の家が三十戸許り。空が薄く曇つて東風が少し騒ぐ。頻りに耳に入るはなつかしき/\ナハチガルの春の歌!
  二十六日朝八時
              荻の浜港にて 石川啄木
 岩崎正様
 


265 四月二十六日荻の浜より 宮崎大四郎宛

多謝。
今朝七時前投錨、荻の浜は詰らぬ所だが、頻りに耳に入る鶯の声の有難さ。
花は紅梅、桃に桜少し許り、崖の竹藪の下の椿の花もうれしい、
十二時錨を抜いて初夏の国に向ふ。
御尊父様外皆様へよろしく。
  二十六日午前一時       石川啄木
 宮崎大四郎様
 


266 四月二十七日横浜より 大島経男宛

三河丸、廿五日早暁函館抜錨、眠い目をこすつて一ケ年の間生命を託したる北海道と訣別いたし候、昨午前荻の浜寄港、花を見、鶯を聴く。本夕六時無事当港入港、今夜はこの宿屋に明す事と致候、冬の国より初夏の国に来た可笑しさは、綿入着て汗流し居候、明日小島烏水君と会食の約あり、午後東京に向ふ、
  二十七日夜十時
             横浜長野屋にて 石川啄木
 大島経男様
 


267 四月二十七日横浜より 宮崎大四郎宛

夕六時上陸、山に雪見る国より初夏の国に来た可笑しさは綿入着て汗流し侯、明日烏水君と会食の約あり、夕刻東京に入る、
  二十七日夜
             横浜一旅舎にて 啄木
 宮崎大四郎様
 


268 四月三十日千駄ケ谷より 宮崎大四郎宛

一昨二十八日烏水氏と一洋食店に会食して後、午後二時発、三時新橋ステーシヨン着、青葉の雨に傘なければ、直ちに俥に賃して千駄ケ谷までまゐり候。
木といふ木の浅緑、残んの八重桜の色あせたるは行春の恨みに候ふべし。
並木君にはまだ通知せず、明日突然訪問せんとす。
思ふて居た程自分の頭はおくれて居らず侯。珍らしい事面白い事沢山あり、一両日中に手紙かくべく候。
  三十日午後三時
        東京府下千駄ケ谷五四九新詩社 啄木
 宮崎大四郎様
御尊父様初め皆々様へ宜しく御鳳声被下度候、明後二日は森博士邸の歌会に案内うけ候。
 

 
 
解説 いかにしても今一度 ―― 森林太郎 (新谷保人)

謹みて過ぎし夜の御礼申上候、
海氷る御国のはてまでも流れあるき候ふ末、いかにしても今一度、是非に今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決心しては矢も楯もたまらず、…
(啄木書簡272/明治四十一年五月七日本郷より 森林太郎宛)

 森鴎外に手紙を書く啄木…というのもなかなか想像しにくいものですが、これは事実です。一年間の北海道漂泊から東京に戻った直後の明治四十一年五月、啄木は鴎外に手紙を出しています。内容は、四月三十日付の宮崎郁雨宛書簡でもふれられていた「森博士邸の歌会」出席への御礼。
 御礼挨拶にしてはけっこうな長文です。しかも、挨拶もそこそこに「東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験」するというこの当時の啄木の常套句が始まるあたりが、いかにも啄木という感じがします。また、「中学もロクに卒業せぬ程素養のなき私」と自らの学歴のことを文字に書き残した啄木というものを私は初めて見ましたね。吃驚です。

 カンニングによる盛岡中学退学は、啄木のコンプレックスの中でも最大級のコンプレックスであって、これが故に、啄木の人生は、前回書きました白樺派たちのような順風の人生からは大きくかけ離れて行くわけなのです。啄木は当然これを意識していますから、意地でも、自らのすべての作品でこの学歴の一切については書き残さなかったのだと私は認識していました。(不勉強でした) やはり、森鴎外の前では書かざるをえないのでしょうか…
 でも、書いたからこそ鴎外は心を開いたともいえますね。そして、さすがは鴎外! 啄木の書いた小説群の中から、パッと「病院の窓」を取り出す眼力が凄い。(「病院の窓」は、そのバイオレンスといい、イメージの広がりといい、本当に啄木小説の最高峰だと私も思います)

森林太郎(1862〜1922) 筆名鴎外。小説家・軍医。啄木が鴎外に接したのは明治四十一年五月二日のことで、創作生活で身を立てるため北海道より上京、しばらく新詩杜に滞在した啄木は、与謝野寛に伴われ、鴎外の自宅で催されたいわゆる観潮楼歌会に出席した。当日の出席者は佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋ら主客あわせて八名である。啄木はこの日の鴎外の印象を日記に、「鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。」と書いている。鵬外は明治四十年十一月陸軍軍医総監になり、陸軍省医務局長に補せられて、軍医として最高の地位にあった。啄木はこの日の出席を機会に、鴎外より五月九日、「時々訪ねてくるやうに」という懇切な便りを受け、また歌会のたびに案内を受けて、その翌年の一月九日まで、五回にわたって出席している。こうして観潮楼歌会を通じて啄木を知った鴎外は、この不遇の詩人に厚意を示し、その希望をいれて小説「病院の窓」を春陽堂に買い取らせ、また「スバル」の発行に際しては、平野万里とその中心となった啄木のために、種々の助言を与えている。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳「解題」より)

 手紙をもらった大島流人も宮崎郁雨も、「森博士邸の歌会」とか言われても何とも応えようがない話ではあったでしょうね。ただ、わかるのは、なにか啄木が私たちが知っている啄木ではなくなって行く寂しさのようなものでしょうか。もちろん啄木は東京に遊びに行ったのではない。「自らの文学的運命を極度まで試験」するために東京に出たのだから、この変容は致し方ないところなのですが。

 でも、百年後の私は平気ですよ。むしろ、啄木の心の中からきれいさっぱり「小樽日報社」が消えていることが清々しい。私も、啄木の北海道漂泊の一年間を辿る旅が終わりに近づいたことを感じます。時恰も私にとっての「小樽日報社」も終わったところ。一年間のおつきあい、どうもありがとうございました。