255 四月二日釧路より 宮崎大四郎宛 <電報> イマサカタカワマルニテクシロヲサル イシ |
256 四月十四日小樽より 藤田武治宛 北海道を一周して来た、一二日滞在、 十四日午前 花園町畑十四 石川啄木 藤田武治様 |
257 四月十四日小樽より 宮崎大四郎宛 筆につくされぬ前置は以心伝心にて御諒察被下度候、 さて昨夜は午前四時までアノ儘に立つて居り、鷺の如く代る/〃\足をあげて居り侯ひしも、遂に一席を得る能はず、生活の軌道より逸出したる天外の惑星の身の上そゞろ悲しく、ストーブの消えたるを幸ひ、勇を鼓して土と石炭だらけの床に丸寝をいたし侯、(尾をスッカリ身に捲いて、)腰掛の下に足の林を見透したる光景は、然し乍ら一興に候ひき、目をさましたる時は車窓に朝日影あり、余市にて小便いたし候、八時少し過ぎて中央小樽駅に着、小樽の街と家屋と道ゆく人と、何れもサツパリなつかしくなし、 京子恥を含みて近かず、二時間にして漸くなつき侯、 母は昨日岩見沢より帰宅、アチラに居たうちに僕の手紙行つたさうだが、君、駄目だ、「一月二月置く事はどうでもよいが、せつ子と別れて居ては、東京へ呼ぶ時後に残されるから」といふ由に候、弱り候、乃ち一家鳩首の上母をも函館に、そして母一人前の生活費若干円宛を毎月岩見沢から送つて貰ふといふ事に内議を決し候、この外に途なく候故、何卒御諒察被下度候、(母とせつ子と京子三人で六畳間で沢山との事) 「どうも親類などは……」と例の反逆心を起し侯へども、――大気が違ふのだと解説致候、 天馬空をゆく底の外交政策を施して、然も要する所左の如し、 七、〇〇(三人汽車賃及び弁当代) 三、〇〇(母の羽織など、うけて着なければ行けぬと云ふ質) 約三、〇〇(夜具其他運賃) 二、五〇(貸間料(本月分日割)) 一、五〇(炭一俵代、コレハどうしても立つ時払はねばならぬ由) 現在懐中十二円と若干なり、誠に済まぬけれど五、○○又々御願申上候 一日早ければ一日の利あり、御返事次第明日でも明後日でも立つ、室の都合によつては家族をば一二日谷地頭なるせつ子の叔母の家にとめて貰つてもよし、右の外沢田君から借りた米一斗いくらとかある由、此場合だから手を合せて後日まで待つて貰ふ事にでもすべきか、 みつ子(妹)の事、札幌の教会の牧師が世話にて東京の何とかいふアーメン先生へ嫁にゆく話八九分纏つたとの事、 老母の頭、二三ケ月のうちにも白いもの少し多くなつた様な気がする。君、感情といふものは強いものだ。そして、感情があるから人間といふものは弱いものだ。 十四日午前十一時 啄木 郁雨兄 机下 |
258 四月十四日小樽より 宮崎大四郎宛 また何をかいはむ 十四日夜七時 啄 郁兄 |
259 四月十四日小樽より 向井永太郎宛 函館の百二十日、札幌の二週間、小樽の百十日、釧路の七十日、酒田川丸に乗つて去る七日夜函館着、これにて北海一周終る。今朝小樽着、三四日滞在、函館にゆき、家族を残して単身上京の事に決定。小生の文学的運命を小気味よく試験する心算に候、感慨多少。汽車賃工夫ついたらお別れにゆく。 十四日午前 小樽花園町畑一四 星川丑七方 啄木 向井永太郎様 |
260 四月十七日小樽より 岩崎正、吉野章三宛 或所に一人の年老つた母親が居たとする、其頼りに思ふ唯一人の息子が、飄乎某地を去ると許りで、海に入つて幾日消息が無いとする、そして米が無くなつたとする、無理算段をして某地に居る、妹娘の許へ汽車で行つたとする、……こゝまではまだよい……其汽車が途中或停車場に着いた、時は夕方、同車の人が皆弁当を買つて食つたとする、そして此老いたる女は、乗車券一枚の外、懐中一厘一毛もなかつたとする。……………君、若しこれが小説であつたら、否、小説にだけあつて、事実に無かつたら、世の中も住み悪くないかも知れぬ、と考へて僕は――。 宮崎君の好意に対して、僕、全く云ふ語が無い。頼む、願くは僕の居ない時君等から充分御礼をいふてくれ玉へ、自分から、口先で礼を云ふのは、何だか却つて此厚意を侮辱する様な気がする、考へても見てくれ玉へ、此度の上京は、実際、啄木一生の死活問題だ――君、泣く程の切ない心地は、僕が一人居る時、常に、過ぎる位味はうて居る、どうか、人の前、特に親しい君等の前では、啄木を、声の高い、口を大きく開いて笑ふ、よく女の話をする……と云ふた風の男にして置いてくれ玉へ、頼む、 君、僕は此度の上京の前途を、どうしても悲観する事が出来ぬ、若し失敗したらといふ事も考へては居るが、僕はどうしたものか、失敗する前に必ず成功(?)する様な気がする、 理屈もいらぬ、何派、彼派も要はない、只まつすぐらに創作だ、 野ロ雨情君も本月中に上京。一昨日逢つた、 与謝野氏の手紙、郁雨兄へ送つた、見玉へ、 明日の夜汽車で行かうと思ふ、 京子は大きくなつて居る、室の中を縦横無尽に走せ廻る、いろんな事を喋る。 矢張僕は一家の主人で人の子の父であつた。と思ふと頭がモ少し禿げてくれればよいと願ふ、 小樽日報半瓦解、八頁が又もとの四頁、吉野君、当分断念がよからう、或は或時期の間休刊を余儀なくされるかも知れぬ、凡ての設備が半分位に縮少されたげな、そして今日まではまだ続けてゆくだけの金の見込がつかぬらしい、委細は逢つた時、 正さん、小樽へ来て「照葉狂言」を見つけて読んだよ、なつかしいの何のつて、何だか恁う、自分の稚ない時の事を書いたのではないかと思はれる位。 母と妻と子と、子にして夫にして而して父なる僕と四人、で行く、岩見沢の方の交渉、先以て不調だつた。 十七日午後四時頃 啄木 岩崎兄 吉野兄 封ずるに当つて気がついた、随分断片的な手紙をかいたものだ |
261 四月十七日小樽より 小笠原謙吉宛 春温一脈袂に入りて、街々に駒下駄の音の軽さ、北海の浜も流石は卯月半ばを過ぎたればに候、山々の残んの雪にも春の色あり、蕗の薹の浅き緑を数日前汽車の窓より見候ひし、 去月、当地宛に下され候ふ御状、廻送せられて釧路にて拝見いたし候ひき、天が下の風狂児、席暖まるの暇なき匆劇に在りて、遂その儘ハガキ一枚の御返事も差上げざりし事、省みて我乍ら呆れ候ふ次第、よろしく御寛恕被下度候、相不変、樹下石上、清閑に居して、浄念擅(ほしいまま)に文芸にお親みなされ候ふ御境地、漫(そぞ)ろにお羨ましく存上侯、 兄が早くより遥望せられ候ふと云ふ此北海の天地は、鋤と鍬、然らずば網を持つて来るべき所にて、筆を荷ふて入るべき地には非ずと存候、大陸的風光はあり、唯、歌ふべく余りに落寞たるを恨む。随所に、人間生活の真状赤裸々に暴露せらる、小説の材料は多けれども、此無遠慮を極めたる生活の肉薄は、うら若き心を害なふこと多きを奈何せん。 津軽の瀬戸を渡りて将に一年、商業会議所の雇、代用教員はまだしもなり、昨秋初めて新聞記者生活に入り、校正子、三面主任、編輯長。咄、新聞も亦営利事業に候ひしぞかし。営利の犠牲となりて終日筆を揮ひ侯へば、筆が敵(カタキ)の思あり、 夜、燈を剪つて机に向へども、また筆を握るの心地なし、 これ啄木の精力衰へたる為のみにも非ざるべしと存候、阿々、 函館の百二十余日、札幌の二週日、小樽の百十日、釧路の七旬余――雪の北海道を横断して釧路の華氏零下二十何度といふ寒さに首ちゞめたるは今年一月二十一日の夜に候ひしが、氷れる海を初めて見たり、誤つて飲み習ひたる酒は醒めても不平は消えず、今月三日瓢乎として酒田川丸に搭じ、宮古港に一寸寄港、七日夜函館着、これにて北海一周完たし、十四日当地着。 明日、当地に居る家族を引纏めて函館に向ふ。家族は同地に残し、小生単身廿五六日頃に中央の都城に入る筈。 新らしき文学的生活。小生の運命を極度まで試験する決心に候、これは四百四病の外の外、日本の涯に来ての『東京病』は骨も心も共に腐らさんと致候、 上京後は当分唯遊ぶ考へに候故、時々手紙も可差上と存候。 諸事蝟集の中、辛うじて此一書を認め申候、同志諸兄へよろしく、委細は都より、かしこ、 四月十七日 小樽にて 石川啄木 小笠原迷宮様 御侍史 二白 小生の向ふべぎ第一の路は、千思万考の末、矢張小説の外なしと存居候、 |
262 四月十七日小樽より 宮崎大四郎宛 然り、と私は躊躇なく申候、小樽に入りて既に三夜を過し、具さに/\思ひ染むる所あり、常識的行動なるものが、少くとも家族を有し金を有せざるものにとりて、如何に重大なる生活の要件なるかをしみ/〃\と考へ申候、只今お手紙二通同時に着、兄の説教繰返し/\味ひ申候、然して遂に躊躇なく然りと申す外なく候、 何れ帰函の上、 七円也、正に拝受、 多分明十八日晩の汽車にて立つべく候、室お見つけ被下候由、如何な所でも金殿玉楼に候、 出立の際は打電可仕候。 アトは何も云はぬ/\、 釧路の小生のアトへは札幌に居た小国善平君ゆく事に決定 十七日朝十時 啄木 郁雨兄 白村正両兄へよろしく願上候。沢田君は依然たり。 |
兄が早くより遥望せられ候ふと云ふ此北海の天地は、鋤と鍬、然らずば網を持つて来るべき所にて、筆を荷ふて入るべき地には非ずと存候、 (啄木書簡261/明治四十一年四月十七日小樽より 小笠原謙吉宛) 啄木の北海道漂泊一年間の総括が「筆を荷ふて入るべき地には非ず」だったことは、やはり、北海道人としては悲しいものがありますね。 津軽の瀬戸を渡りて将に一年、商業会議所の雇、代用教員はまだしもなり、昨秋初めて新聞記者生活に入り、校正子、三面主任、編輯長。咄、新聞も亦営利事業に候ひしぞかし。営利の犠牲となりて終日筆を揮ひ侯へば、筆が敵(カタキ)の思あり、 (同書簡) 生活のための「筆」。今日、自分が喰うための、家族が喰べて行くための「ことば」。 例えば、有島武郎の明治四十一年四月。 この時、有島武郎、三十歳。札幌農学校(北海道大学の前身)を卒業後、約五年間に及ぶアメリカ留学を終え、東北帝国大学農科大学(札幌農学校の昇格改称)予科の英語講師として札幌に赴任してきたところです。明治四十一年四月頃は農科大学の学生寮・恵迪寮に舎監として住んでいました。(啄木が小樽をウロウロしている頃、隣町の札幌にいたんですね…) 翌年には陸軍少将神尾光臣の次女・安子と結婚。翌々年の四月には、あの「白樺」の創刊と、有島武郎の人生が大きくブレイクして行く時期です。 白樺派というと「大正」のイメージが強く、漱石や鴎外や一葉と並んで「明治」の文学をある意味代表する啄木との接点はあまりピンとこないと思いますが、じつは、同時代だったのですね。啄木の書いた小説「札幌」と、有島武郎の「星座」が描いている札幌は、じつは同時代の札幌なのです。 それをふまえて、小笠原謙吉宛の書簡を読むと、二人の置かれた境遇のあまりのちがいに、全然関係ない私でも歯噛みでもしたくなるような気分になります。有島武郎は、生涯、「筆が敵」などという気持ちになったことはないでしょうね。どうしてこんなことになったのだろうか… 小樽を去る最後の日(そしてもう二度と小樽を訪れることはなかった)、ふるさとの親友・小笠原迷宮に宛てて投函された手紙には、そんな二十二歳の青年の、前途に待ち構えるものへの震える心も読みとってみたくなります。 啄木が、東京で自らの文学的運命を極度まで試すというのは普通のことでしょうか? 私たちは、すでに啄木の「一握の砂」を読んだ後の人たちなので、啄木が東京で啄木の文学を生み出すことを疑いもしません。けれど、この明治四十一年四月に、そのことを信じていた人は(母カツを除いては)おそらく誰もいなかったと思います。皆、不安だったと思います。節子にとっても、苜蓿社の同人たちにとっても、郷里の友たちにとっても、「東京」は大きな賭けであったのではないでしょうか。けれど、もうこれしか道がない。 「一握の砂」の偉大さとは、私には、啄木とともに同時代を生きた人々すべての願いと怖れの心がそのまま百年後の私たちにストレートに響いてくる、啄木の「筆」のバイオレンスに思えます。 小笠原謙吉(1879〜1942) 筆名迷宮。啄木の高等小学校時代の友人で永く交遊があった。文学少年で早くから多彩な文学活動を行ない、高橋白命らと山吹社を起こし、雑誌『山ぶき』を発行、若菜と号して文芸作品や論文を発表した。その後上京、明治三十二年より三十四年にかけて早大に学んだと伝えられるが、この間の消息は明らかでない。啄木とは盛岡時代親交があり、啄木が創刊した雑誌『小天地』に寄稿している。迷宮はその後岩手の代表的な文学者の一人として活躍し、また郷土史家としても知られた。晩年は郷里である岩手県紫波郡煙山村の村長その他の公職にあり、六十四歳で没した。本巻所収の書簡四九八は新資料で岩手県紫波郡煙山村赤林小笠原迷宮宛の明治四十一年年賀状。現在盛岡市の下田七郎氏所蔵。 (石川啄木全集・第七巻/岩城之徳「解題」より) |