啄木からの手紙
― 明治四十一年三月 ―
 
 


253 三月九日釧路より 沢田信太郎宛

   【小奴の絵葉書に】
愛妓小奴お目にかけ候穴賢/\
  明治四十一年三月九日      啄木
 沢田信太郎様
 


254 三月十九日釧路より 沢田信太郎宛

昨夜高橋君の不意討に蓬ひ驚喜仕候、其後当方よりトンと御無沙汰仕、匆忙又勿忙、釧路は狭い丈けに小事故頻々として殆ど忙殺せられんと致候、妹共にも逢はざる事既に十日、但しこの度の御伝言だけは万障を繰合せても必ず伝へ可申侯、呵々。
新機械活字等二十二日入港の雲海丸にて着荷の筈に候へば遅くも四月十日頃より紙面拡張の運びと可相成、秘かに喜び居候。
偖家族共所置の件兄の御配慮多謝、多謝、小生も一日も早くと存じ居候へど、佐藤国司君の方で家をどうかして呉れねば、一軒の貸家さへなき当町の事とて、何とも致方なく、四月中旬頃までには必ず何とか出来る事と存居候、一方野辺地の父も呼び寄せねばならず、あれや、これや密かに焦慮罷在候、それ迄老母妻子の方は何分よろしく御世話被下度願上侯。
余は後便に譲る
  十九日の夜         啄木
 天峰大兄 侍史
当地新聞記者倶楽部を三千円の予算にて建築する事に決定致し候
 

 
 
解説 穴賢/\ ― 沢田信太郎<2> (新谷保人)

 明治四十一年二月二十六日の手紙では、【鹿島屋市子の絵葉書】に「妹共、よろしくと申居候」。三月九日には、【小奴の絵葉書】に「愛妓小奴お目にかけ候穴賢/\」。

  

 ………

 前に、啄木が釧路を離れる決心をさせたものが、三月二十一日深夜の「小奴・梅川ミサホ」の遭遇事件だと書きましたが、正確に言うと、釧路脱出の引き金はもうひとつあるように思います。それが、この沢田信太郎宛の葉書。

 まあ、こんな葉書をもらったら、沢田天峰じゃなくても誰だって怒り心頭でしょうね。沢田は当時小樽にいて、節子ら啄木家族の真冬の窮状を目のあたりにしているのです。啄木が捨てて行った小樽日報社を孤軍奮闘で守っているのです。そんな切羽詰まった状況に「愛妓小奴お目にかけ候」だあ!何を考えているんだ、このバカは!となるにきまっているのです。(結婚式すっぽかすよりも、遙かにこっちの方が罪が重いと私も思う)

 当然、沢田天峰からは猛烈な叱りの手紙が行きます。それが三月十九日の啄木書簡冒頭でふれられている「昨夜高橋君の不意討」です。天峰は日報社の高橋美髯に手紙をことづけて確実に啄木に手渡すようにしたのです。また、あえて人を遣わせたのには、釧路の啄木をしっかり観察してくることを暗に命じていたのかもしれません。
 この沢田の意外な対応に、ようやく啄木も自分がしでかした事の重大さに気づいたのではないでしょうか。世の中は宮崎郁雨のような人ばかりがいるのではない。沢田天峰のような常識人の方が圧倒的に多く、その人たちにとっては、こういう啄木の子供の振る舞いは通用しないのだということを痛烈に知ったのではないでしょうか。二日酔いから醒めてみれば、沢田だけじゃない、小樽・釧路の多くの常識人たちはこのように冷徹に啄木のことを眺めていたんだということにも思い至ったかもしれません。

「兎も角も自分と釧路とは調和せぬ。」
(啄木日記/明治四十一年三月二十五日)

 厭になったのは、「釧路」ではなく、自分自身の愚かさでしょう。

「夜、沢田来る。いくら努めても、合はぬ人とは矢張合はぬ。」
(啄木日記/明治四十一年四月十三日)

 コドモだなぁ…とため息つきたくなりますね。以前、「一握の砂/忘れがたき人人」に沢田天峰を詠った歌がないと書きましたが、たぶん、啄木は意地でも書きたくなかったのでしょう。