啄木からの手紙
― 明治四十一年二月下旬 ―
 
 


246 二月十七日釧路より 野口英吉宛

お別れいたし候ふてより三旬にもなん/\とするに未だ一度の消息をも差上げずとは抑々(そもそも)何事に候ふべきぞ、去る頃上富良野といふ所の金崎某氏よりハガキまゐり、大兄の安否を問合はするの句あり、その際御手紙差上げむと存じ候ひしも、着釧以来日夕俗事に忙殺せられ居候身には、それすらも果す能はず今日にいたり申侯、何卒不悪御諒察被下度願上候、小生御地出立の日、拙宅へ御出下され候事は荊妻よりも申参り居、奉鳴謝候、御帰京未だの由、何と申してよきやら、兎角うき世は憂き世と存じまゐらせ候、小生の如きも、喰はねばならぬ余儀なさに這麼(こんな)所までまゐり候ふものの、時々は何となく人間の世界から余り遠く離れたやうの感いたし候、
但しこれも鳥なき里の蠣蟷(かうもり)の格にや、はた又自然の力には抗し難しと諦め候ふ為にや、当地にまゐりてより、先輩なる或人より白梅の花封じたる手紙得し時一度を除いては、あまり東京病を起さず候、自分ではまだ/\死なぬつもりに侯へどもかくてかくして再び南の春に逢ふ事もなく死に果てつべぎ事と悲しくも相成候、
新聞十幾種、主なるものは毎日大抵目を通して居候へど、此頃では札樽の間の事すら何となく縁遠い様の心地もせられ候、蛙一度井底に入り候ふては遂に大海の広さを忘るゝものに候ふべぎか、
さて宮下挙輩大兄に対して不埒を働き候由、お手紙にて初めて承知、憤慨と愍笑を一時に洩し申候、何といふ事に候ふぞや、憐むべき心事には候へ共、大兄の御迷惑察し上候、
小生の事も原稿捏造中との事には思はず哄笑いたし候、小生は一人でも二人でも自分の心事を以心伝心に解つてくれる人さへあれば、世界中を敵にしても恐ろしくなく候、とは云ひ乍ら彼等如きに名ざされるとは何となく遺憾の点なきに非ず、若し新聞に出侯はゞ何卒一部御恵被下度候、実業新報とやらは社には参り居らず候、
天佑の再び大兄の上に帰り来らむ事を心より祈上候、くだ/\しくは申上げず侯へ共何卒小生の心中御察し被下度候、

只今社には編輯局五人、三月初め機械着次第普通四頁の新聞とするとの事に御座候、当地にまゐつてよりはまだ一度も喧嘩不致候、主筆氏も好人物にて万事私の我儘を許しくれ候、釧路は新聞記者的に云へば将来誠に有望にして且つ面白き事多き町に候、当地にて一番発達して居るのは料理屋に候ふべし、芸妓によいのも少なく候へども、喜望楼と申す料理店の如ぎは札樽へ出しても恥かしくない位に候、
目下港内一面に氷結致居候、氷れる海は初めて見物いたし候、下宿屋の二階の寒さは格別に御座候、
小生、家計二つに分れて居ては兎ても間に合はず候故、三月にでもなつたら家族皆呼び寄せようかと考居候、来る時は一寸の考なりしも白石氏よりの懇々の話もあり、かた/〃\一二年当地に暮す考に御座候、小生如き者は生活の戦の烈しい所は兎てもたまらず候事と悟り由候
  二月十七日夜            啄木拝
   野口雨情様 御侍史
 


247 二月十七日釧路より 藤田武治、高田治作宛

昨夜当町釧路座に催したる慈善薩摩琵琶会の際、釧路北東両新聞記者合同し余興として芝居三幕演じ候小生就中上出来にて大に喝采を博し候、釧路は我儘の出来る所に御座候、
十日程前より、或必要のため毎夕浅酌低唱の境に出入致し、芸妓三人許り少し宛惚(ホレ)られ申候、酒は小さい盃にて十位は飲める様に相成候、小生の方ではチツトも惚れ申さず候へど、そのため毎日宿酔の気味と急がしさの為め、先日のなつかしき御手紙に対し、返事申遅れ御申訳なく候、釧路の芸者はお客様を呼ぶにダンサンと申候、ダンサンは旦那様の少しヒネクレたのに御座候、
釧路は小樽より万事心地よく候、着釧早々種々調査いたし候ふに、将来随分面白ぎ事があるらしく候、殊に況(いはん)や来るとすぐ「豆ランプ」といふ異名をつけられ、何処へ行つてもモテルに於てをやに候、社の方より懇々の話もあり、茲に意を決して一二年釧路の人たる覚悟いたし、来月あたりは家族も当地へ呼びよせる事にいたし候、何でも人間は多少に不拘我儘の出来る所に居るに限るものと信じ候、一二年居れば小生でも自費出版の資金位は何とかなりさうに候、六十迄は生ぎる決心故、少しも急ぐ必要なしと、乃ち何とかなる迄居る事にいたし候ふ次第に候、
大に君等と論じたい事山々あるけれども、時計は既に一時、隣室の鼾声(かんせい)雷の如く耳に響き候間、それはお預りにいたし候、
三月下旬紙面拡張まではウント俗になつて釧路を研究し、然る後、専心創作に従ふつもりに候、
「北海道の人間」は益々面白くなり候、芸妓小静(ゴシヅ)は下町式のロマンチック趣味の女にて、鏡花の小説で逢つた様な女也、この下宿の主婦は体量三十貫もありさうな珍無類の肥大婦人にて、鹿角(かづの)弁マル出しに御座候、それから古川某といふ男あり、話をする時舌をペロ/\と出し候、
「若い時は二度ない」と芸妓小静が歌ひ申候、これ真理なり、両君、釧路に逃げて来られては如何に候や、来たなら必ず口(クチ)は見つけてあげる、若い時は二度ないと芸者小静がうたひ申候、草々頓首
  二月十七日夜            啄木
 武治君
 紅花君  侍史
 


248 二月二十五日釧路より 宮崎大四郎宛 <電報>

カホヲタテネバ ナラヌコトデ キタデ ン、カワセ五〇タノムイサイシメン イシカワ
 


249 二月二十五日釧路より 宮崎大四郎宛

兄よ、僕は今兄に対して誠に厚顔なる電報を打つて帰り来れり、兄は既にそれを落手せられたるならむ、而して僕の為めに此無理極る請を容れ玉ふならむ、
当地に二新聞あり、一は釧路新聞、一は北東新報、北東を如何にもして総選挙迄に根本的なる打撃を与へ、之を倒さゞるべからざる必要あり、主筆は鉄道操業視察隊に加りて途に上れり、僕は其不在中編輯局の全権と対北東運動とを委ねられたり、而して兄よ、僕の運動功を奏して、北東の記者横山、高橋、羽鳥の三人は今回同社を退社するに至れり、今日の如き、北東は午后四時に至りて漸く朝の新聞を出したり、痛快なり、次は工場の転覆なり、
サテ前記三人は前借其他の関係より断然社と関係を断つには五十金を要する也、大至急に要する也、僕は乃ち先刻の電報をうてり、主筆留守、事務長上京、外に途なき故なり、然れどもこの五十金は社長の帰釧(三月中旬遅くも下旬)と同時になんとかなる金也、予はこれをば必ず長くせずして兄に返済し得べしと信ず、
願くは我が顔を立てしめよ、
  二月二十五日夕          啄木拝
 郁雨兄 侍史
 


250 二月二十六日釧路より 沢田信太郎宛
   【鹿島屋市子の絵葉書に】
午前十時頃、起きて飯を喰ひ乍ら新聞を読み、出社して立つづけに毎日三百行位書くなり、夕刻帰宿して郵書一束と名刺を閲し、返事を出すべきには返事を出して、瓢然門を出づるや其行く所を知らず。宇宙は畢竟盃裡に在り焉、浅酌低唱の趣味真に掬すべし。
妹共、よろしくと申居候。就中シヤモ虎の小奴と鹿島屋の市ちやんがよろしくと申居候、草々
  二月二十六日夜         啄木生
 沢田信太郎様
 


251 二月二十六日釧路より 宮崎大四郎宛 <電報>

コウイタシヤス○ウメサイテウレシキタヨリツキニケリイシカワ
 


252 二月二十八日釧路より 宮崎大四郎宛

君、君に御心配をかけた事は誠に済まぬ、君が斯く僕の無理までを通さしてくれるのは何とも云ひ様がなく有難い、前後二度に五十金確かに落手した、実際僕はよく大胆にこんな迷惑を友人にかけた事と自分乍ら思ふ、君の深い/\友情は謝するに辞もない、
サテ、万事はお蔭でうまく取運んだ、横山といふのは、一寸ホトボリの冷(サ)めるうち遊ばして置いて我が社へ入社させる事に決定、当分僕の所に置く事になり、明晩此下宿へ来る筈だ、幸ひ隣室が明いているので大変都合がよい、高橋といふのは、白石氏の一乾児(コブン)にして我社の理事たる佐藤国司といふ人が、今度釧路実業新報といふのを出したので其方へ入れる事に決定、モ一人の方は目下別方面に入れるべく運動中だ、
君、実際君のお蔭で僕石川啄木は顔を立てた、お蔭で立てた顔は決してよごさぬ、僕は必らず此釧路で成功する、
君、僕の考通りに事件が進行して愉快此上なしだ、北東には社長西嶋といふ山師者を初め、小泉、花輪、横山、高橋、羽鳥と外に商況兼務の不得要領な男が一人居た、花輪といふのは我が派の間者で、佐藤国司氏の部下だ、それで今度の三人をワザと花輪と喧嘩させ、花輪に社長に迫らして退社させた、コウして居て、総選挙マギワになつた時花輪が工場の職工数名を率ゐて突然退杜するといふ事に内議一決して居るのだ、
僕は今、主筆が不在で総編輯をやつてる上にこんな事で一日一杯頭をやすめる時間がない、従つて薩張(さつぱり)手紙もかゝぬが、多忙なる生活は確かに張合がある
僕は彼の実務家に深い思想のない理由を初めて解つた、と同時に、年若くして心のみ老ぬる人の不幸を痛切に感じた、君、僕は年が若い、若いから若々しく活動してみる、
今度の金は自分の事につかつたのではないから案外早く返済の路がつくと思ふ
先は不取敢御礼まで、君の楽しき結婚問題の其後の消息きゝたい、早からんことを祈る、
  二十八日夜             啄木
 郁雨大兄 侍史
二白、吉野兄の件、アノ儘交渉は面倒と思つたから、少し小刀細工を初めた、二三日前の新聞の驚くべく敗徳事件!! といふ記事を御覧になつたら解るだらう、今日日高の大島さんから手紙が来たよ、代用教員をしてる由、何と云ふてよいやら
 

 
 
解説 はいてなかった赤い靴―野口雨情<2> (新谷保人)

 野口雨情は、北海道漂泊当時、啄木が出逢った唯一の本チャンの文学者といっていいでしょう。苜蓿社の同人たちや紅果・南洋などの少年ファンの前では、のびのびと東京で通用した文学者然として振る舞っている啄木ですが、こと、雨情と絡む段になれば、そんなにのんびりともしていられません。プロの文学者を自負する者どうしの意地がありますから。
 奇跡的に現存する「小樽日報 第三号」は、基本的には、雨情と啄木のバトルとして読むべきではないかと私は思っています。啄木の書いた記事(小樽のかたみ)ばかり研究するのは、なにかおかしいな…といつも思う。そういう文学研究にはセンスが感じられない。読みとるべきは「第三号」三面で交わされた雨情対啄木の文学的緊張感であり、研究すべきは、雨情の書いた記事部分をできる限り復元して、それを啄木の「小樽のかたみ」と照らし合わせて読み解く作業ではないでしょうか。
 ちょうど、去年ひらかれた市立小樽文学館「石川啄木と小樽日報」展のおかげで、「小樽日報 第三号」コピーは誰にも簡単に手に入るようになりました。三面トップ、啄木の「手宮駅員の自殺未遂」を押しのけて掲げられた雨情の「樺太の露人」もくっきりと見えています。
 こういうのを目の当たりにすると、やはり、当時の野口雨情って凄味あるなぁ…と思いますね。当時の雨情と啄木の年齢差は四歳。でも、すでに雨情は樺太放浪をすませていますし、オホーツクの海も知っているのです。文学者としての凄味、佇まいでは、この時点では、雨情の方が啄木を勝っているような気がします。啄木には、「手宮駅員の自殺未遂」は書けても、「樺太の露人」は書けません。
 まあ、一生、啄木は「樺太の露人」を書くことはない方向へ自らを文学者として形成して行くのですが、その切っ掛けのひとつには、こういう雨情体験のようなものがあるのかもしれないと思う次第です。

 北海道漂泊時代の、啄木の都市伝説にはもの凄いものがありますが、雨情もけして負けていません。その嚆矢が「赤い靴」ではないでしょうか。

 まず鈴木志郎である。彼は明治13年に青森県鰺ヶ沢町に出生。流転の果てに函館で篠崎清次と出会う。やがて、鈴木志郎は篠崎より平民農場(明治38年、現・後志管内留寿都村近郊設立)のことを教えられその地に赴く。その農場で志郎は岩崎かよという女性と出会い結婚する。
 岩崎かよもまた不遇な人生を歩んできた女性であった。かよは明治17年に現在の静岡県清水市に出生。18歳の時に結婚することなく女の子を産む。当時、こんなかよに世間の目は冷たく、彼女はその子・きみを抱いて義父・岩崎安吉に従い平民農場へと旅立つ。しかし、安吉は病弱なきみを連れての農場入植無理と判断。こうして3歳4ヶ月のきみは篠崎清次の世話で知った米国人のヒュエット牧師に預けられる。
 志郎たちの努力もむなしく明治40年末に平民農場は解散。やがて、志郎は札幌の北鳴新報社に勤める。ここで出会ったのが野口雨情。この出会いにより、野口雨情は不幸な子・きみのことを知る。こうしてきみをモデルとした雨情の童謡「赤い靴」が生まれる。
 また、志郎と雨情はその後、小樽日報社に転ずる。同社では函館大火から逃れてきた石川啄木と出会う。この出会いが後年、啄木の「悲しき玩具」の一節「姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」となる。もちろん、この鈴木は志郎のことである。
(北海道新聞2002年12月18日夕刊/「篠崎清次と函館平民倶楽部」より)

 去年11月、小樽の運河公園に鈴木志郎・岩崎かよ・きみの三人が立ち並ぶ「赤い靴」像が建てられた奇しくもその頃、野口雨情がらみの一冊の本が出版されました。阿井渉介著「捏像 はいてなかった赤い靴」(徳間書店,2007.12)。
 「ヒュエット牧師は岩崎きみを養子になどしていない」「野口雨情は岩崎きみの話なんか聞いてはいない」という衝撃の内容。この「赤い靴」都市伝説の発端になった菊地寛著「赤い靴はいてた女の子」(現代評論社,1979.3)を真っ向から覆す本です。

 そこへどやどやと来客。日本人が来ると連絡を受け、フレッドさんの兄のジョンさん、ジョゼフさん、妹のヘレンさんが車を飛ばして駆けつけてくれたのだ。(中略)
「ヒュエット宣教師が、日本人の女の子を養女にしたという話を知りませんか」
「オウ、もちろん聞いているさ」
「そうそうヒュエット叔父さんたちは子供が生まれなかったからね」
「養女にしたのは、えーと、三歳か四歳の女の子だったようだ」
(菊地寛著「赤い靴はいてた女の子」より)

 私も、阿井渉介氏が捏造とまで強く批判している菊地寛「赤い靴はいてた女の子」をあわてて図書館から借りてきて読んだところなのですが、なんとなく阿井氏の憤る気持ちがわかるような気がします。こんなのがテレビ・プロデューサーのすべてだ、ドキュメンタリー・ドラマのすべてだと言われたら、テレビ関係者はたまらんだろうなと思いましたね。
 アメリカまで行って、ヒュエットの甥や姪と称する人たちを荒唐無稽な手法で探しあて、こんな虫のいい証言を引き出す… でも、この証言が決定打となって、四半世紀以上も「赤い靴」の都市伝説は一人歩きをし、ついに、その集大成ともいえる小樽の親子像にまで至ったのは紛れもない事実なのです。

 なんか、余市の啄木歌碑みたいな話だな…(そういえば、その歌碑の後ろには雨情の歌碑が建っている! ほんとに、啄木は、雨情と絡むとなんか変な結末になりますね!)