啄木からの手紙
― 明治四十一年二月上旬 ―
 
 


244 二月四日釧路より 向井永太郎宛

一月十九日白石社長と共に小樽を立ち候ひしが、一夜を札幌に明す心組なりし故御通知もせざりしに、車中にて急に社長より頼まれたる事あり、旭川に急がねばならずして遂に日程変更、思出多き木立の都をば降りしきる雪の中より眺めたる許りなりしは遺憾千万に候ひし、雪の北海道を横断して二十一日夜着釧、
社は新築の煉瓦造にて、一昨二日盛大なる落成式を挙行仕候、新印刷機の着次第普通の四頁とし、五月の総選挙までには六頁にする筈に候、寒さは少し強けれど、雪は五寸位なものなり、案外心地よき所にて北の方遥かに雌雄の阿寒山を望みたる風光も俗ならず、人口は一万三千、将来急激な発達をする見込充分あり、新聞は不取敢多少紙面を改め候処気受大によく候、今度は日報と違ひ、少しも不快な事なく、鳥なき里の蝙蝠といふ格にて随分我儘も致居候、家族は小樽に置いて来たので、久振の下宿屋生活、朝に起してくれる者なきには閉口仕候、
札都の近状如何、御吟嚢肥えたりや否や、小生は矢張小説党に加入する考へに御座候が、暇のないには困り候、
奥様綾子様如何、多分お変りなき御事と存候、松岡君は矢張道庁の方に候や、帝国主義の小林氏は今度の増税案には極力御賛成の事と存候、
数日前社長が銀側時計買つてくれ候、大した事件でもなけども、何しろ小生生れて以来初めて時計を持つたの故特に御知らせ致候、小生初めは三月頃日報へ帰るといふ内約にて来たのに候へど、社の方では是非永く居てくれとの事にて、春の雪消には家を借りてくれるとか社宅を建ててくれるとかも申候へば或は一二年当地で過し、少しく経済上の創傷を医せんかとも考居候、当地には小学以上の教育機関は、此頃出来た裁縫学校の外一つも無し、私立中等程度学校の望みあり、又、土地に関する問題に就いて町民の意嚮をまとむべき青年会の様なものもなし、兎に角釧路には大に為すべき事多き模様に候、
今後は小生も余り御無沙汰せぬ方針につき、時々御消息御洩し被下度候、
田中様の久子氏学校教員希望の件、小樽では小生自身の態度不明なりしと、且つ空席なかりしためその儘に致し置き侯ひしが、若し今猶其御希望ならば(而して釧路でもよければ)空席もある模様にて且つ小生は有力なるツテも作り候間、履歴書御送付方御勧誘被下度候、本月末か来月初めには小生の家族共も来る筈故、拙宅に御同居、先方で異議なくば遠慮無用に候、給料もあまり悪くはない様子に候、艸々
  二月四日夜          啄木生
 向井兄 御侍史
 


245 二月八日釧路より 宮崎大四郎宛

なつかしいお手紙、昨日の昼頃社で落手した。当地へ来てから、あまり人間の居る国から離れて了つた様な気がして居るので、手紙といふ手紙のなつかしい事話にならぬ、サテタ方になつて、イザこれから宿へ帰つて函館行の手紙を五六本も書くのだと考へ乍ら、玄関を出ようとすると、モト弥生の代用教員した時代の同僚遠藤隆君にパタリと逢つた。吃驚(びつくり)したのせぬのの話ではない、尤も同君は昨年の十月から当地に来て居るさうだが、僕の名を新聞で見て訪ねたとの事、君、遠藤某は決して我が党の士でも何でもない、然し僕が当地へ来ての初めての旧知の人であつた、僕は矢張嬉しかつた、一緒に宿へ帰つて、美味くもない下宿の晩餐を共にしたが、僕は不図或事を考出した、それは今此男の居る第三小学校といふのが釧路中で一番成績の悪い、醜聞に富んだ学校なので、機会があつたら一つ精査の上で大に其廓清の法を講じようと思つて居た事だ、それには格好なツテだと思つて、色々聞いて見たが、矢張年長者だけあつて仲々ウマク此方の話に乗らぬ、そんなら俺だつて云はせる法があるよと許り、嚢中を探つたが一円某しかない、仕方が無いから此間社長から貰つた銀側時計を持出し、一寸失礼すると云つて質屋に行つた、借りたのは五円五十銭也、そこで二人で出掛けて釧路で一番の料理店喜望楼へ乗込んだ、此料理店は先日の落成式宴会場であつたからよく案内を知つて居る、主婦などとも御懇意だ、此処で一寸説明して置くが、釧路の芸者は約四十人、見番は先月新らしく出来たが、極めて不振で、皆料理店には内芸者が抱へてある、には大小十一人のペン/\猫が居る、呼んだのは其十一人のうちでチョイト名の売れてゐる小静といふので、三面先生のノートによると年齢二十四、本名尾張ミヱ、小樽札幌でやつて居る新派俳優朝霧映水の妹だ、万歳事件と、小樽で一度俳優に奢られた時と、当地へ来てから社長に一度引張られて此へ行つたのと、先日の宴会と、昨夜と、僕が生れてから芸者なるものに接したのは僅か此五回に過ぎぬ、そして其第五回目には自分が主人公になつて行つたのだから、或は随分急足の進歩かも知れぬ、茲に至つては石川啄木も天下の滑稽を解したものと云はねばなるまい。サテお銚子は六本許り倒れた様であつた、僕と客と芸者と、共に大分酔つた、無論酔はぬ先に目的の話は充分聞いて了つた、小静はよく弾きよく歌つた、客もまたよく飲みよく歌つた、僕はよく笑ひよく酔ふた、小静は僕に惚れたといふ、僕は、宴会以来豆ランプと綽名のついた禿頭を叩いて、モ少しでナッタ/\節を歌ふ所であつた、君、新聞記者は人から悪い顔をせられる事が滅多にないものらしい、
帰つたのが十二時半、喇叭節の節が耳について居て、眠を妨げられた、今朝は十時に起きて社に行つて、それから一寸支庁に行つた。第一係首席乃ち教育其他の事を掌どつて居る梶といふ男、(これは支庁で支庁長の次の巾きゝだ)に逢つて、第三小学校の事を談じた、君、釧路では啄木も鳥なき里の蝙蝠(かうもり)だ、校長其他二三人を四月迄に必ず動かすといふ言質をとつて、新聞で論ずる事は許すことにした。其際吉野君の話をした、夫婦共稼ぎなら益々結構、至急問合はしてくれよとの事、此手紙と同時に吉野君へも手紙やる、君からもよく話してくれ給へ、今夜、旧南部藩士の懇親会の招待は、此手紙を書くためにお断りした、
手紙はやりたいが書くのがイヤだといふ君の語、同感である、殊に僕の如きは毎日筆と箸と煙草の外手にせぬ人間だ、職業として筆をとって居るのだから、職業以外の事に筆をとる時は、既に筆其物に厭きて居る、新聞記者が創作を怠るのは完たく此理屈なのだ、然し僕は成るべく此悲しい理屈に支配されたくないと心がけて居る。
岩見沢に一泊、旭川に一泊、雪に埋れたる北海道を横断して、釧路の土を踏んだのは一月二十一日の夜九時半であつたから、恰度満十八日を此地の空気で生きた訳になる、君が心配してくれた二つの不便のうち、友人は殆んど無いが、下宿だけは早速見付けて二十三日の晩から此室に寝て居る、当地では一番の下宿屋だといふが、何も贅沢の積りで此家を択んだのではない、外の下宿だと皆一室に二人か三人入れられる、そして夜具料共で十二円位、それですら滅多にない、此家は二階の一番よい八畳間を独占で十四円五十銭、高いには高いが、雑居は怎(どう)しても僕に出来ぬから致方が無いのだ、社には一町半、
社は新築の煉瓦造、流石に心地がよい、註文した機械の都合で三月上旬でなければ紙面の拡張は出来ぬ、記者は今心当り募集中だが、現在では四人、一人は創刊当時から七年の間居る薬鑵禿の主筆、好人物で仲々面白い、アトの二人はダメだ、それでも僕が来てから少し真面目になつたらしいと主筆の話だ、
初め僕が来る時は拡張の基礎の出来次第小樽へ帰るといふ内約で、君らへもさう云ひ、自分もさう思つて来たのであつた、そのために家族をも残して来た、所が社では是非一年なり二年なり、出来るだけ長く居てくれと云ふ話で、春になれば家まで何とか都合してくれるやうな様子である、社長も成るべくなら然うして、くれよとて、時計を買つてくれたりなんかする、僕も熟々考へた、――――
日報なりタイムスなりの三面主任と云へば、一寸名がよいかも知れぬ、然し札幌や小樽の様な所では、自分の様な貧乏者はいくら頑張つても畢竟残る所何者もないのだ、終(シマ)ひにはくたびれて倦きて了ふ許りだ、それよりは少し寒くとも釧路に居て、新聞も五月迄には普通の六頁になるのだから、編輯長閣下も少しは幅がきく、それで土地と社に信用を得れば、一二年の間に家の一軒位は貰へさうだ、そして出来る事なら多少金をためて二三年後には東京に行つて自費出版やる位の準備はつきさうなものだ、よしや小さくとも自分の自由の天地を作る方がよい、と斯う考へて、サテ「釧路」の研究に取かかつた、今は人口僅か一万三千の小都会に過ぎぬが、四十一年度はダメにしても四十二年度の予算には釧路築港費が必ず計上される、昨年鉄道の全通以来、町はよほど景気づいたとの事だ、そして池田駅から分岐せる北見線が竣工すれば、釧路は自(オ)らにして東海岸の小樽たるべき使命を持つて居る、十勝釧路北見三国の物資は皆釧路を中心にして集散する事になる、自分の見る所では、束察加半島に対する日常品の供給は、将来必ず此釧路から輸出される事と思はれる、果然釧路は有望な港だ、そして自分が十八日間に経験した所によると、釧路は決して人気の悪い所ではない、且つ社長の白石氏は大部土地の信用が厚く、道会の選挙にもタッタ三十五円しか運動費をつかはなかつたさうだ、然も其時は白石氏自身は釧路に居なく、子分の者がやつたのだ、釧路新聞も亦、小樽に於ける小樽新聞の様な地位、否、それ以上密接な関係が釧路其物との間に出来て居る、恁(かか)る人の下に居て、恁る社の新聞を自分の思ふ儘に作つて、そして二三年居たら必ず何か残る、
或は僕が釧路に来たのは、天、乃ち自然の力が、僕をして静かに修養せしむる所以なのかも知れぬ、且つ釧路には新聞記者として成すべき事業も少くはない、青年町民の強固なる団結を作る事や、教育機関の改善拡張や、図書館の設置や、其他まだ/\沢山ある、
と僕は考へる、尤も当地では五日目か六日目でなければ東京新聞が見られぬ、それだけ時勢におくれる心配もあるが、そこは考一つだ、昨夜小静の歌つた歌にも『浮世渡るは唯胸一つ、馬は手綱で舟は舵』といふのがあつた、二年や三年、五年十年無人嶋に居たとて時勢におくれる啄木ではないと信ずる、だから三月にでもなつて、少し寒さが緩んだら家族を寄び寄せようかと考へる、
君、以上の僕の考へに若し少しでも不賛成な点があつたら、何卒ドシ/\指摘してくれ給へ、自分自身と雖ども、啄木が釧路くんだり迄流れ込んだについては聊か天を恨みずに居られぬが、これも致方がない、
毎日の晴天、雪は至つて少ないが風の寒いには閉口、尤も本年の寒気は当地でも七年以来初めてなさうだ、下宿屋住居は殊に寒い、着換がないのに襟が汚づいて、冷たいやら気持が悪いやら話にならぬので、ハンケチを首に捲いた所が、昨夜小静に笑はれた、「禿頭に似合はぬ」と云つて。
当地に来て一番困るのは友人のない事、(君の友人へ紹介たのむ)着のみ着の儘で礼服(?)のない事、これは誰しも初めての土地で困る一つだらうと思ふが、有力家を訪問する場合とか、宴会の時など実際僕の様な頓着ない男も冷汗を流す、衣服の事で汗を流したのは、東京市役所で尾崎先生と会食した時と此間の宴会の時と二度だ、君が小樽に来た時買つたアノ羽織は正月になくして、今着てるのは斎藤大硯君から拝領の、羊羹色になつた木綿の紋付。友人の無いのにも大分弱つた、殊に当地の事情を聞く人がなくて弱つた、此処いらで三面を作るには、怎(どう)しても何よりさきに粋界の事情に通じなければならぬ事だから、無粋の僕、苦心したのせぬのの話ではない、幸ひ警察の池野警部を捕虜にして、各有力家の独占芸妓の事を詳しく聞き、
の女将を自家薬籠中のものにして更に其裡面の事を探つたので、今では余程明らかになつた、   モ一つ困るのは本屋のない事、あるにはあるが、講談本と作文や算術の本と、ツマラヌ雑誌許りだから仕様がない、尤も買ふ銭のある訳ではないから、ドチラでもよいやうなものの、それでも本屋がないと思ふと馬鹿に心細い、
君の結婚問題がどうなつたか、知らしてくれ結へ、君は、「せんじつめれば空な人間」といふ語を書いてよこしたが、君、君、君、それだ/\、自意識の発達した今の人間が、イヤでも応でも自然主義に走るのはそれだ、天渓の語を借りて云へば、所謂『現実暴露の悲哀』だ。これには何人と雖ども恐らく苦められぬものはあるまい。空な人間!空な人間! 空な人間だと感じて苦しむ心が、乃ち何とかして空でなくなりたくないと云ふ弱い/\希望だ、此希望を弱い/\希望だといふと、モウ実際生きてる気がなくなる、そこで一切の人間が此希望を弱くないものにして了ふ。所謂生活幻像(ライフイリュージョン)が茲に於て生ずる、君、凡ての人は皆生活幻像を描いて、それが幻像に過ぎぬといふ事を成るべく知らぬフリをして、一生懸命それに縋つて生きてゆく、理想だとか未来だとか云ふのは皆それだ、僕は個性論者だ、個人は飽く迄も個人で、自分自身を自分自身が司配し、自己の思想によつて何処までも自由に自己の力を発揮すべきだと論ずる、宇宙論に於ても、まだ誰にも発表した事はないけれども、僕一家の一元二面論で、何人の哲学にも優ると自信する哲学を案出して居る、然し乍ら君、何人か真の自由を得て自然の力以外に立ち得られよう、僕の個性論も、僕の一元二面観の哲学も、はた又、僕の一切の自負、将来に対する計画も、遂に矢張一種の生活幻像ではあるまいかと疑ふ事が度々ある、人間は本来一人ポツチだ、淋しく心細くて溜らぬから宗教といふ幻像を描いたり、富貴とか権勢とか名誉の幻像を描いたりする。人生の寂寞、俺は一人ポツチだといふ事を感じたら最後、モウダメだ、虚無! 虚無! 虚無といふ奴が横平な顔をして我等の前に立つ。これはお互ひイヤな事だ、然し本来空な人間なものとすれば何とも仕方がない、噫、一切の心の虚飾を去つた真の現実暴露の悲哀! 此悲哀は泣く様な優しいものではない、
自然主義といふ傾向の勃興したのは、今の人間の心に如何に深く「虚無」といふ思想が動いてるかを示すものだと自分は考へる、自然主義が人を教訓し得る唯一の言葉は、唯『勝手になれ』といふ事の外にない、善もなければ悪もない、美も醜もない、唯々『アリノマゝ』有の儘! 勝手になれとは何たる心細い語だらう、然し乍ら君、人間の有し得る絶対の自由は『虚無』の外にない、
現時に於ける宗教の頽廃を以て、人間――信者――の堕落に帰するのは飛んでもない間違だ。霊魂と肉体とを別々にした一切の宗教が、自意識の発達した時代に存在し得る理由がないのだ、宗教の頽廃は宗教それ自身の罪だ。メレジコウスキイが称へ出した肉霊合一論は、彼が其有名なる三部小説「クリスト、エンド、アンチクリスト」に於て、基督教的思想と反基督教的思想とを共に人生に両立せる二大思想なりとした時から既に萌芽したものと自分は観察して居る。肉体を侮蔑し蹂躙して居た時代が過ぎた時、自然主義は起る。そして現実暴露の悲哀がヒシ/\と人の心を脅かして、勝手になれと叫ぶ。君、事実に於て既に道徳は破壊されて居るよ。まだ幾分社会に残つてるにしても、それは形式だけだ、少なくとも僕の目には道徳などといふものはない。自他融合の意志と僕の名づくる『愛』はあるが、道徳は無い。既に霊肉の区別がなくなつて、勝手になれと虚無の宣告を受けた人間にとつては、万事唯勝手にやればよい。君、実際現在の僕の、底の/\思想程明白な赤裸々な思想はないだらう、人の前では云はれぬが、僕は無政府主義だ、無宗教だ、うまい物は喰ふべく、うまい酒は飲むべし、流石にまだ実行した事はないが、本然の要求に基く際に肉慾の如きも決して罪悪でも何でもあるまいと理屈から考へて居る、婦人の貞操といふが如きはマルデ根拠のない事だ、君にだから斯んな事まで云ふが、夫婦といふものも必至にして堅固なる結合では決してない、
噫、空な人間! 虚無!
然し乍ら君、矢張人間は、悲しいかな生活幻像に司配されてる方が幸福だよ。結婚し給へ、そして、盛んに活動してくれ給へ、そして僕等を助けてくれ給へ。
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函館が恋しい、君と吉野君と岩崎君と並木君が一番恋しい、君等が四人僕は一人だから、何卒今度吉野君転任一件勧めてくれ玉へ、吉野君も奥さんも二人共現給のまゝで転任、そして昇給の見込は無論ある。函館より生活し易い。そして両方の都合次第で吉野君に新聞の方へ来て貰ひたいのだ、(アトデ)
沢田君は矢張当世才子の少し気のはえたやうな人間だ、アノ男には男らしい節操がないから面白くない。
白石社長は昨日出発上京の途に上つた、釧路築港問題の運動の為だ。僕の月給は二三ヶ月間二十五円で我慢してくれとの事、多分四月から三十円にする事と思ふ。今の所経済が二つだから怎(どう)しても足らぬ、先月だけは社と社長との両方から特別に合計三十五円貰つたから小樽へも月末に二〇許り送金した、今月は社長が留守で困る。尤も家族を呼寄せると二十五円で生計は大丈夫立つ。今迄君から助けられてる事は実際何とも云へぬよ。質の利上げをして貰つた時なんか、母は涙を流して難有人だといつて居た。僕も四月からは兎も角自活(?)が出来るかと考へて居る。若し此の度の総選挙に、白石氏が起たずに別の人を立てるとすれば僕等の手にも百か二百の金は這入りさうだ。これが正確だとすれば君に迷惑でも頼んで、百なり百五十なり借金しても、妻の質をうけたり僕の衣服を拵へたり、小借金を払つて万歳を唱へるが、白石氏が起たぬと云つてるけれど若し其時になって起たれては一文にもならぬからダメだ。これも生活幻像の一つかも知れぬ。
吉野君が承知で決定するとすれば多分三月下旬に来る事になるだらうと思ふ。
  二月八日夜
                      啄木拝
 郁雨兄 侍史
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モウ十二時すぎて疲れたから吉野君へは詳しい手紙かゝぬ故この手紙見せてくれ給へ。
 

 
 
解説 竹山君と野村君 ― 野口雨情<1> (新谷保人)

 明治四十一年二月十七日、めずらしく啄木が野口雨情に手紙を書いているので、この二月でとりあげてみます。

野口英吉(1882〜1945) 筆名雨情。詩人。啄木が小樽日報社に勤務したときの同僚の記者で、共に三面を担当、創業まもない『小樽日報』のために力を尽したが、社内の改革をめざして啄木らと主筆の岩泉江東の排斥を企てたのが発覚して、新聞社を追われた。後年民謡詩人として広く世に知られ、また童謡集『十五夜お月さん』(大10)などを刊行した。
(石川啄木全集・第七巻/岩城之徳編「解題」より)

 啄木の明治四十年・北海道漂泊を考える時、野口雨情との絡みには独特のニュアンスがあります。啄木は雨情と絡むと、なにか、啄木の意図からは少しズレたところに事態が展開してしまうというか。

 例えば、雨情の書いた「札幌時代の石川啄木」。雨情の事実認識には多くの問題があるものの、もしこの一文がなければ、私たちは啄木の小説「札幌」に描かれた自画像しか頼りにするものがありませんでした。啄木はアカシアの街?(なみき)を歩く若き天才を描きたかったのであろうけれど、雨情の筆によって、朝ご飯をねだったり、雨情の煙草を一本くすねる姿を描かれてしまいます。
 そして、私たちは知るわけです。実際の啄木は二十一歳の青年「石川一」にすぎないことを。ただ、そうであるからこそ、「札幌」という作品に込められた啄木の漂泊感や孤独感は、百年後の札幌を歩く私たちにもリアリティを持って響いてくるのではないでしょうか。雨情の「札幌時代の石川啄木」は絶対に必要です。こうやって少しブレたからこそ、小説「札幌」や「一握の砂/忘れがたき人人」は迫力のある作品になったと信じます。

 同じことは沢田天峰の「啄木散華」にも云えて、例えば、釧路時代を描いた小説「病院の窓」。(啄木の小説の中では私のいちばんのお気に入りの小説です。人物描写のグルーブ感がたまらない) 啄木は「肉霊の争ひ胸中に絶ゆる事なく、下り坂一方の生活のために廉恥心なくなり、朝から晩まで不安でゐる」釧路新聞社の佐藤衣川を描いたといっています。
 佐藤衣川は釧路時代の啄木劇場では超有名人ですね。梅川ミサホが佐藤衣川に襲われそうになり、逃げて深夜の啄木下宿にやってきて小奴とご対面…というもの凄い場面が啄木日記には書かれたりしています。(私などはこの事件が啄木の釧路脱出の引き金ではないかとさえ思っているのですが)

 小説の中でおもしろい場面があります。モデルが佐藤衣川とされている登場人物「野村良吉」の下宿部屋の様子です。

 埃だらけの硯、歯磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鉄筆(ペン)に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一冊の帳面がある。表紙には『創世乃巻』と気取つた字で書いて、下には稍(やや)小さく「野村新川。」
(病院の窓)

 この描写がおもしろいのは、もうひとつ、「野村良吉」が天敵とも怖れる、「肉霊の争ひ」で云えば「霊」の部分を担当する登場人物「竹山静雨」の部屋の様子が対比的に描かれていることです。

 竹山の室は街路(みち)に臨んだ二階の八畳間で、自費で据附けたと云ふ暖炉が熾んに燃えて居た。身の廻りには種々(いろいろ)の雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は読みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、彼は入ると直ぐ、ボーツと顏を打つ暖気(あたたかさ)に又候(またぞろ)思出した樣に空腹を感じた。来客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マスマローと何やらが堆(うづた)かく盛つて、煙草盆の側にあるのが目に附く。明るい洋燈(ランプ)の光りと烈しい気象の輝く竹山の眼とが、何といふ事もなしに彼の心を狼狽させた。
(病院の窓/※ 文中「渠」は「彼」に直しました)

 岩城先生は、この「竹山静雨」は啄木自身がモデルだというのだけれど…

 表の赤黒く陽やけした畳は足に冷めたく、窓から吹き込む夜風は寒く、上下に開閉する窓硝子には金巾らしい汚れたカーテンが掛けてあった。調度品と云ふものは殆どなくガランとした八畳間に、台ランプを載せた小机が一つ、往来に面した窓際に据ゑられた丈けで、上にはやゝ部厚の雑記帳が二冊と、安物の硯箱と、買ったばかりと思はれるインクの罎が一つ載せられ、読書をする暇もないのか書籍らしいものは一冊もなかった。
(啄木散華/七.洲崎町の下宿屋)

 すでに沢田天峰の「啄木散華」を読んでいる百年後の私たちには、これは到底信じがたいですね。どう考えたって「野村良吉」こそ啄木の自画像でしょう。だからこそなのですが、生きている間、「あるべき自分(竹山)」と「今ある自分(野村)」に分裂していた啄木の内面風景を垣間見ることができて、私なんかはちょっと不思議な感銘にとらわれるのですが。

 ところで!(また書きますけれど…)この、「竹山静雨」と「野村良吉」というネーミング! なにかしら「野口雨情」という名のアナグラムとは思いませんか?